第1章:違和感の始まり
放課後の教室に沈む夕日が、机や黒板をオレンジ色に染めていた。静かな空気の中、藤井葵の小さな疑問が、やがて大きな議論の火種となることを、まだ誰も知らなかった。
放課後の教室に、夕日がオレンジ色の光を静かに注いでいる。机に突っ伏していた藤井葵は、ふと顔を上げた。
「先生、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
黒板を消していた天野創先生が振り返る。生徒たちの素朴な疑問を聞くのが何より好きな、この学校きっての人気教師だった。
「どうした、葵。また難しいこと考えてるのか?」
「憲法の条文って、削除してもいいものなんですか?」
教室の空気がピンと張り詰めた。掃除当番で残っていた星野怜が、ほうきを持ったまま振り返る。
「あー、それね」怜が口を挟んだ。「憲法97条のことでしょ。あれって11条と同じ内容だから、削除してもいいって聞いたことがある」
「そうそう!」葵が手を叩いた。「私もそれが気になってたんです。同じことが書いてあるなら、一つ消してもいいですよね?」
窓際で漫画を読んでいた佐々木遥が、ゆっくりと顔を上げた。
「でも、それってなんだか怖くない?大切なものを消すって」
「怖いって、遥は大げさだなあ」大西健太が苦笑いを浮かべながら言った。「条文が一つ減るだけでしょ?」
天野先生は黒板消しを置くと、生徒たちの方を向いた。いつものように優しい笑みを浮かべていたが、その目は少し真剣だった。
「面白い疑問だな。でも、君たちに逆に質問したい」
先生は黒板に大きく「97条」と書いた。
「もし君たちの家に、おじいちゃんの代から大切に保管されている家宝があったとする。同じような価値のものが他にもあるからって、その家宝を捨ててしまったら、何かが失われると思わないか?」
「えー、でも家宝と条文は違うじゃないですか」葵が首をかしげた。
「そうですね」怜も同調する。「条文は実用的なものですから、重複があれば効率化のために削除するのは合理的だと思います」
天野先生はにっこりと笑った。
「なるほど、効率化か。でも君たちは、その条文がどうして生まれたのか、本当に知ってる?」
健太が手を上げた。「97条は戦後にできた条文で、基本的人権は『人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果』って書いてありますよね」
「そう、よく知ってるね。でも健太、その『努力の成果』って言葉の重みを、本当に感じたことはある?」
教室が静まり返った。生徒たちは互いに顔を見合わせる。
遥が小さな声で言った。
「その努力って、きっと戦争とか、ひどいことがあった後に生まれたものなんですよね?」
天野先生の表情が少し和らいだ。
「そうだね、遥。実は97条っていうのは、ただの重複じゃないんだ。これは人権の『歴史書』なんだよ」
「歴史書?」葵が首をひねった。
「そう。この条文は、人類がどれだけ苦労して今の自由を手に入れたかを記録している。だから11条とは全然違う意味を持ってるんだ」
先生は黒板に「人類の努力」と書いた。
「例えば、君たちが今、自由に意見を言えるのは当たり前だと思ってる?」
「そりゃそうでしょう」怜が答えた。「日本は民主主義国家ですから」
「でも、その『当たり前』は、実は当たり前じゃなかったんだよ」
天野先生の声に、いつもとは違う重みがあった。
「かつて日本では、政府を批判しただけで逮捕される時代があった。『治安維持法』っていう法律があって、思想や言論の自由は完全に奪われていたんだ」
「えっ」遥が身を乗り出した。「いつ頃の話ですか?」
「1925年から1945年まで。つまり、君たちのひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんの時代だよ」
健太が驚いた顔をした。「そんなに最近なんですか?」
「そう。そして世界を見れば、もっとひどいことが起きていた」
先生は振り返ると、黒板に「ナチス・ドイツ」と書いた。
「ドイツでは、ヒトラー政権下で基本的人権が完全に無視された。ユダヤ人だというだけで財産を奪われ、最終的には命まで奪われた。これも同じ時代の話だ」
教室に重い沈黙が降りた。
「だから97条は、そういう歴史を二度と繰り返さないための『誓い』なんだよ。人権は、人類が血と涙を流して勝ち取ったもの。それを忘れないための条文なんだ」
葵がゆっくりと口を開いた。
「つまり、97条を削除するっていうのは」
「歴史を忘れることと同じかもしれない」天野先生が静かに答えた。
怜が反論した。「でも先生、現行の条文が残ってるなら、権利自体は守られるじゃないですか」
「いい指摘だね、怜。でも考えてみて。君が友達に『君を信頼してる』って言った後で、『でも念のため契約書も作っておこう』って言ったら、友達はどう思うかな?」
「えーっと」怜が考え込んだ。「信頼してないってことになりますね」
「そういうこと。97条を削除するっていうのは、『人権の根拠』を弱めることになる可能性があるんだ」
遥が心配そうに言った。「もし97条がなくなったら、また昔みたいなひどいことが起きるんですか?」
天野先生は優しく首を振った。
「すぐにそうなるわけじゃない。でも、人権っていうのは、一度壊れると取り戻すのにとても時間がかかるんだ。だから『予防』が大切なんだよ」
健太が手を上げた。
「先生、具体的にはどんな危険があるんですか?」
「いい質問だね。次回、実際に起きた事件を例に、詳しく話してみよう」
先生は時計を見た。もう下校時刻だった。
「今日はここまで。でも覚えておいて。憲法は紙に書かれただけでは意味がない。それを守るのは、国民一人ひとりの意思なんだ」
生徒たちは重い気持ちで教室を後にした。葵は窓の外を見ながらつぶやいた。
「条文一つ削るだけなのに、こんなに深い意味があったなんて」
怜も考え込んでいた。「確かに、歴史を忘れるのは危険かもしれない」
遥は不安そうに言った。「次回の話、聞くのが怖いけど、聞かなきゃいけない気がする」
健太がうなずいた。「僕も。きっと知らないといけないことなんだ」
夕日が校舎に長い影を落とす中、四人の生徒は家路についた。憲法97条という、たった一つの条文に込められた重い歴史と想いを胸に。
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葵たちの素朴な疑問から始まった議論は、やがて「憲法97条」という一見小さな条文に、歴史と未来をつなぐ重みが秘められていることを示しました。
しかし、彼らがまだ知らないのは、その「基本的人権」がどれほど脆く、そして奪われやすいものであるかという現実です。
次章では、戦前の日本で実際に起きた事件や、基本的人権がどのように踏みにじられたのかを具体的に見ていきます。
「当たり前」だと思っていた自由が、いかにして失われたのか――。
それを知ることが、97条の真の意味を理解する第一歩となるでしょう。




