第2章:静かなる侵攻
ケネディ宇宙センターの管制室は、夜が明けてもなお、異様な緊張感に包まれていた。メインスクリーンには、ソマリア南部・シャベリ川流域の衛星画像が映し出されている。泥濘とした氾濫原に横たわる白い物体――クルードラゴン「アポロン」。その存在が、国際社会の、そして何よりも米国の国家安全保障に関わる重大な事態へと発展していることを、サラ・ジョンソン主任管制官は肌で感じていた。
「乗員の生命維持は、現在およそ50時間を切っています。内部環境の悪化が予想以上に早く進んでいます」
NASA長官が、ホワイトハウスとの緊急回線越しに報告する。画面の向こうでは、国防長官、国務長官、そしてCIA長官が、厳しい表情でその報告を聞いていた。彼らに与えられた時間は、刻一刻と失われつつあった。
「ソマリア政府への事前通告は?」国防長官が尋ねた。
「非公式のルートを通じて接触を試みましたが、彼らは政府としての統制が取れておらず、機能しているとは言えません。特に、このシャベリ川流域はアル・シャバーブの支配が強く、政府の影響力は皆無です」国務長官が答える。
「つまり、我々が動くには、事実上、彼らの主権を無視するしかないということですね」
国防長官の言葉は、重く響いた。しかし、選択肢はなかった。宇宙飛行士の生命、そしてクルードラゴンの機密技術がテロリストの手に渡る可能性を考えれば、国際法上の問題は二次的なものとなる。最終的なGOサインは、すでに大統領から出ていた。
「作戦名:『アークエンジェル・レスキュー』。JSOC(統合特殊作戦コマンド)が主導し、極秘裏に実行する。目標は、クルードラゴン乗員の救出、および機密情報の回収。必要であれば、機体の破壊も許可する」
国防長官の言葉に、部屋の空気が張り詰めた。これは、戦争行為に等しい。だが、彼らは躊躇しなかった。
その指示を受け、米軍の特殊部隊は、驚くべき速さで編成された。
ディエゴ・ガルシア島にある秘密基地の格納庫。深夜にもかかわらず、慌ただしい動きがあった。
デルタフォースの隊員たちは、それぞれの装備を最終チェックしていた。彼らは、通常であれば数日を要する作戦準備を、わずか数時間で完遂しようとしていた。
ジョン・「ウルヴァリン」・スミス大尉は、戦術マップを広げ、部下たちに指示を出す。彼の隣には、経験豊富な**USAF PJs**のリーダー、マーク・「ドク」・シュルツ曹長が立っている。PJsは、世界で最も危険な環境下で、負傷した兵士や民間人を救助するエキスパート集団だ。彼らは、宇宙飛行士という特殊な状況にある要救助者に対応するため、加圧設備や高濃度酸素ボンベなど、通常のCSAR任務では携行しない特殊な医療キットも準備していた。
「我々の任務は、最優先で宇宙飛行士たちをカプセルから安全に引き出すことだ。彼らは宇宙環境から急激に地球の重力に戻っており、我々が考えている以上にデリケートな状態にある。ドク、君の判断が全てだ」ウルヴァリンが言った。
「了解です、大尉。宇宙での減圧に慣れた彼らを、無理やり引き剥がせば、生命に危険が及ぶ可能性もある。慎重に、しかし迅速に処置を行います」ドクが応える。
格納庫の奥では、**160th SOAR(特殊作戦航空連隊、通称ナイトストーカーズ)**のMH-60Mヘリコプター2機が、エンジンを暖めていた。彼らは、夜間低空飛行のスペシャリストであり、どんなに複雑な地形でも、レーダーの目を掻い潜り、目標地点まで部隊を送り届けることができる。パイロットたちは、フライトプランを最終確認し、気象状況を慎重に分析していた。ソマリア上空の気流は不安定で、時折発生するスコールが、彼らの飛行を困難にする可能性があった。
「電子妨害装備の最終チェックを急げ!敵が通信妨害を仕掛けてくる可能性が高い。我々も対抗措置を講じる必要がある」
ヘリの整備兵が、機器を叩きながら叫ぶ。今回の作戦では、情報戦が鍵となる。敵の通信を傍受し、こちらの存在を悟られないことが、成功の絶対条件だった。
そして、空からは、静かなる監視者が離陸した。MQ-9 Reaper無人攻撃機だ。それは、高性能の偵察ポッドを搭載し、目標地点のあらゆる情報を収集する。同時に、ヘルファイアミサイルとGBU-38 JDAM(統合直接攻撃弾)を装備し、必要とあらば、地上の脅威を精密に排除する能力も備えている。パイロットは、遠く離れたネバダ州の管制室から、ジョイスティックを握り、この無人機を操作する。
「目標空域に先行進入。天候は回復傾向だが、依然として局地的な雨雲に注意。敵の対空兵器は確認されていないが、万が一に備え、低空飛行と地形追従モードを維持しろ」
ネバダ州の管制室から、冷静な指示が飛んだ。Reaperは、ソマリアの夜空に溶け込むように飛行し、シャベリ川流域へと向かっていった。
その頃、シャベリ川流域のアル・シャバーブの拠点では、ハリドが焦燥感を募らせていた。彼が派遣した偵察隊からの報告は、断片的で要領を得ないものだった。
「それは巨大な白い物体で、川に落ちたようです。鉄でできており、異様な輝きを放っていました。中には何者かがいるようですが、詳細は不明です」
部下の報告に、ハリドは苛立ちを隠せない。彼は、この地域を支配する者として、部下の無能さに激怒した。
「詳細が不明だと?貴様らは目と耳を持たぬのか!それは敵の何かだ。偵察機か、あるいはもっと別の目的を持つものかもしれない。周辺の村々から部隊を集めろ!絶対に、その物体に近寄らせるな。特に、部外者は排除するのだ」
ハリドは、自身の直感を信じていた。この「火の玉」は、明らかに外部からの干渉であり、彼の支配を脅かすものだと。彼は、周辺地域の住民への締め付けを強化し、不審な動きをする者を全て捕縛するよう命じた。
アブディは、ハリドの命令が村々に響き渡っていることを知っていた。彼は、アル・シャバーブの兵士たちが、村の入り口に検問を設け、村人たちの出入りを厳しく制限しているのを見た。しかし、彼は諦めなかった。あのカプセルから聞こえた、かすかな音。それは、人々の声のようにも聞こえた。助けを求める声ではないか?彼の心の中には、恐怖と共に、見知らぬ人々を助けたいという衝動が芽生えていた。
彼は、アル・シャバーブの目を盗むため、夜の闇に紛れて、カプセルのある氾濫原へと向かった。湿地帯は、彼の足元から泥が吸い付き、歩くたびにカチャカチャと音がする。彼は、音を立てないよう、細心の注意を払った。川岸には、ワニが潜んでいる可能性もある。あらゆる危険が、彼の行く手を阻む。だが、彼は足を止めなかった。
アブディがカプセルに近づくと、その異様な姿が闇の中に浮かび上がった。白い巨大な塊。一部が泥に埋まり、傾いている。そこからは、微かな機械音と、かすかな人の声が聞こえるようだった。彼は、それが何であるか理解できなかったが、中に人間がいることは確信した。
彼は、カプセルから少し離れた場所に身を潜め、じっと様子を伺った。アル・シャバーブの偵察隊が、時折カプセルの周囲を巡回しているのが見える。彼らは、警戒しながらも、カプセルに近づこうとはしない。その不気味な存在に、彼らもまた、困惑しているようだった。
その頃、ネバダ州の管制室では、Reaperのオペレーターが、シャベリ川流域の地形画像を拡大していた。高解像度カメラは、沼地や低木の密集地帯を鮮明に映し出す。
「隊長、目標地点周辺に複数の熱源を確認。アル・シャバーブの部隊と思われます。隠れてはいますが、おそらく偵察隊と警戒部隊かと」
オペレーターがウルヴァリン大尉に報告する。ウルヴァリンは、その画像に目を凝らす。彼の脳内では、すでに作戦のシミュレーションが始まっていた。
「ヘリ部隊、離陸準備は整ったか?」ウルヴァリンが、ヘッドセットを通してナイトストーカーズのパイロットに問いかける。
「こちらナイトストーカーズ。全機準備完了。いつでも離陸可能です」パイロットの声が返ってきた。
「了解。作戦開始まで、Tマイナス1時間。Reaper、先行して敵の通信を妨害し、我々の侵入に気づかれないよう、最大限の注意を払え」
「了解、隊長。ジャマーを起動します」
Reaperからの強力な電磁波が、シャベリ川流域一帯に展開される。それは、アル・シャバーブの無線通信を混乱させ、彼らの連携を寸断するだろう。ビーコン信号の妨害も、これによって一時的に軽減されるはずだ。
深夜の闇の中、ディエゴ・ガルシア島の滑走路を、2機のMH-60Mヘリコプターが静かに滑走し始めた。エンジン音は、サプレッサーによって極限まで抑えられている。彼らは、低空飛行と地形追従システムを駆使し、レーダーの目を掻い潜りながら、ソマリア本土へと向かう。
ヘリの内部では、デルタフォースの隊員たちが、各自の最終装備チェックを行っていた。暗視ゴーグルを装着し、サプレッサーを銃に取り付ける。各自のポーチには、手榴弾、追加のマガジン、そして負傷した際に使用する止血帯が詰まっている。彼らの顔は、迷いなく、ただ任務に集中していた。
タケシは、クルードラゴンの中で、ビーコンが微かに点滅しているのを見ていた。その光は、彼の唯一の希望の光だった。彼らは、この小さなカプセルの中で、外部の状況を全く知ることができない。救援が来るのか、それとも敵が来るのか。その判断は、彼には不可能だった。
「食料と水は、あと半日分です。酸素残量も厳しくなってきました」
同僚の宇宙飛行士が、疲労困憊の声で報告する。彼らは、生命維持システムが損傷したカプセルの中で、まさに生か死かの瀬戸際に立たされていた。湿度の高い空気と、カプセルから染み出す泥水の臭いが、彼らの感覚を麻痺させる。
タケシは、ポケットから娘の描いた絵を取り出した。宇宙を飛ぶ自分の姿が、クレヨンで鮮やかに描かれている。彼は、その絵を握りしめ、自分自身に言い聞かせた。「まだ、終わっていない。必ず、助けが来る」
ヘリは、ソマリア上空を猛スピードで飛行していた。地形追従システムは、彼らを丘の稜線や谷底の窪みに沿って、精密に導く。パイロットの目は、暗視ゴーグル越しに、地上に広がる闇の地形を捉えていた。
「目標地点まで、Tマイナス10分!」
機長の声が、機内に響き渡る。デルタフォースの隊員たちは、ヘリのドアを開け、外の空気を吸い込んだ。生ぬるい風が、彼らの顔を撫でる。眼下には、見慣れない低木のサバンナが広がり、遠くには、シャベリ川の蛇行が見える。
「ウルヴァリン大尉、Reaperからの情報です。目標地点周辺の警戒部隊の数が、予想より多いようです。そして、カプセル周辺に、何かを設置した形跡があります。おそらくIEDかと」
通信兵が、ウルヴァリンに報告する。ウルヴァリンの顔に、微かな緊張が走った。IEDの存在は、彼らの侵入をさらに困難にする。
「了解。ドク、PJsに伝達。より一層、注意を払うように。我々の目標は、あくまで乗員だ。無用な戦闘は避けるが、敵は容赦しない」
「了解しました、大尉」ドクが応える。
ヘリは、目標地点にさらに接近する。高度は、ほとんど地面すれすれだ。パイロットの技量が、彼らの運命を左右する。ヘリのローター音は、サプレッサーと電子妨害によって、ほとんど聞こえない。それは、まさに「静かなる侵攻」だった。
アブディは、アル・シャバーブの偵察隊がカプセルから離れた隙を見て、カプセルに近づいていた。泥水に浸かりながら、彼はカプセルの外壁に触れた。ひんやりとした金属の感触。それは、彼の想像を遥かに超えるものだった。彼は、カプセルのハッチのようなものを見つけ、手で叩いてみた。
「誰か…中にいますか?」
彼の声は、虚しく闇の中に吸い込まれていく。しかし、その時、彼は確信した。中に、人々がいると。そして、彼らは助けを必要としているのだと。彼は、再び周囲を見回し、アル・シャバーブの接近を警戒した。その時、彼は遠くから、微かな音を聞いた。それは、これまで聞いたことのない、奇妙な音だった。彼の耳には、それがヘリコプターの音のように聞こえたが、アル・シャバーブのヘリではない。もっと静かで、もっと速い。彼の心臓が、高鳴る。
夜空には、Reaperが上空高くから、静かに監視を続けていた。その目には、デルタフォースのヘリが、闇の中を突き進む姿が映し出されている。そして、その下に広がる、泥と湿地の世界。その中に、まるで白い巨人のように横たわるクルードラゴン。
「目標地点、確認。デルタフォース、降下準備!」
ナイトストーカーズのパイロットが叫んだ。ヘリのドアが大きく開かれ、デルタフォースの隊員たちが、ロープを準備する。彼らは、一斉に地面へと降下する準備を整えた。
タケシは、カプセルの中で、微かに聞こえるローター音に耳を傾けていた。それは、確実に近づいている。彼は、かすかな希望を感じた。彼の顔に、微かな笑みが浮かぶ。彼は、きっと助けが来ると信じていた。それは、彼自身の直感であり、そして何よりも、彼の家族との約束が、彼に与える力だった。
ソマリアの夜は、いつもと変わらぬ暗さだった。しかし、その闇の奥では、人類の運命を左右する、静かなる侵攻が始まろうとしていた。