表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

忘却の花火、追憶のサイダー

作者:

君が僕を忘れるたび、僕は君との夏をやり直す。たとえ、この想いが永遠に届かなくても。

コンクリートを焼く匂いが、アスファルトの陽炎の向こうから立ち上ってくる。実家に戻ってきてから一週間、僕、水野蒼みずのあおの夏は、意味もなく引き伸ばされたガムのように、味のない時間をただ引き延ばしていた。蝉の声は鼓膜の裏側にこびりつき、思考の邪魔をするだけ。大学の課題はとっくに終わらせた。友人と呼べる相手はこの町にはもういない。手持ち無沙汰という名の病は、緩やかに精神を腐らせていく。


自室の窓から見える空は、飽き飽きするほど青かった。その青さに苛立ち、僕は埃をかぶった一眼レフを手に、家を抜け出した。目的はない。何かを撮りたいわけでもない。ただ、この息苦しい部屋の空気とは違う空気を吸いたかった。それだけだ。


潮の香りが鼻腔をくすぐり始める。錆びついたガードレールに沿って坂を下ると、視界が開け、灰色がかった砂浜と、凪いだ海が広がっていた。町のシンボルである白亜の灯台が、巨大な墓標のように黙って空を突いている。ファインダーを覗き、ピントリングを回す。だが、シャッターを押す気にはなれなかった。この風景のどこを切り取っても、結局は「退屈」というタイトルの、ありふれた一枚にしかならない気がした。


カメラを下ろした、その時だった。


灯台の根本、日陰になった石段に、少女が一人座っていた。


白いワンピースが、陽光を弾いて輪郭を曖昧にしている。風に揺れる黒髪は、まるで濡れているかのように光を吸い込んでいた。彼女はスケッチブックを広げ、何かを描いているようだった。だが、その手は時折止まり、ただじっと、水平線の向こうを見つめている。その横顔は、彫刻家が作り上げた最高傑作の、ほんの少しだけ鼻を欠いてしまったような、不完全な美しさを湛えていた。


吸い寄せられるように、僕はシャッターを切った。

カシャリ、と乾いた音が響く。


少女が、ゆっくりとこちらを振り返った。

驚きでもなく、怒りでもない。まるで、ずっと前からそこに僕がいることを知っていたかのような、静かな瞳だった。ガラス玉のように透き通った瞳が、僕の存在を映し込む。僕は咄嗟に、何か言い訳を探そうとして、無意味に口を開閉させた。


「……あの、すみません。勝手に」

やっとのことで絞り出した声は、自分でも情けないほど上ずっていた。


少女は何も言わず、ふわりと立ち上がった。そして、僕の方へと歩み寄ってくる。白いワンピースの裾が、海風にはためいている。その一挙手一投足が、まるでスローモーション映像のように、僕の網膜に焼き付いた。


僕の目の前で立ち止まった彼女は、僕の首からぶら下がったカメラと、僕の顔を交互に見て、そして、ほんのわずかに首を傾げた。


「あなたは、」

彼女の唇が動く。涼やかで、どこか寂しげな響きを持つ声だった。


「あなたは、この世界が、どんな色に見えますか?」


質問の意味が、分からなかった。世界の色? 青は青だし、白は白だ。僕は言葉に詰まる。そんな僕の狼狽を、彼女は見透かしたように小さく微笑んだ。それは、花が綻ぶような、という紋切り型の表現では到底追いつかない、もっとずっと儚いものだった。まるで、触れた瞬間に崩れてしまいそうな、砂糖菓子のような微笑み。


「はじめまして」


彼女はそう言って、細く白い指を、僕のカメラのレンズにそっと伸ばした。触れるか触れないかの、絶妙な距離で指が止まる。


「私の名前は、零。月白、零」


その名前を聞いた瞬間、僕の心臓が、不規則に一度だけ大きく跳ねた。蝉の声も、波の音も、遠ざかっていく。僕の世界は、今この瞬間、無音になった。


味のしなかったガムを、ようやく吐き捨てられた気がした。

代わりに、ミントの葉を噛んだような、鋭く、そしてどこまでも爽やかな感覚が、僕の全身を駆け巡っていく。


これが、僕と彼女の、最初の出会い。

そして、これから何度も、何度も繰り返すことになる、終わりなき夏の、始まりだった。


「あなたは、この世界が、どんな色に見えますか?」


唐突で、哲学じみたその問いに、僕の思考は完全に停止した。世界の色。そんなこと、考えたことすらなかった。空は青く、雲は白く、海は藍色。それ以上でも、それ以下でもない。僕の口から出かかったのは、そんな身も蓋もない、事実の羅列だけだった。だが、彼女の、月白零つきしろれいの真剣な眼差しが、それを許さない。そのガラス玉のような瞳は、僕という存在の表面を通り越し、空っぽの内側を、その空虚さの隅々までを見透かしているようだった。


「……わからない」僕は正直に答えた。声が、自分のものではないみたいに掠れていた。「最近は、全部が同じ色に見える。褪せた写真みたいに。灰色、かな……」


自嘲気味にそう言うと、零は意外にも、がっかりした顔をしなかった。むしろ、ほんの少しだけ安堵したように、ふっと口元の力を抜いた。その微細な変化に、僕の心臓が小さく跳ねる。彼女は僕の答えを否定しなかった。ただ、受け入れた。


「そっか。灰色」彼女は呟き、僕の隣に並ぶようにして、灯台の石段に腰を下ろした。白いワンピースの裾が、コンクリートの埃を気にすることなく広がる。「じゃあ、一緒に探してくれる? 私が忘れないための色を」


「忘れないための、色……?」


「うん」零はこくりと頷き、自分の胸元に置かれたスケッチブックを、まるで大切な宝物のように指でなぞった。「私、忘れちゃうから。見たものも、聞いたことも、食べたものも。全部、夜になったら消えてしまうの。だから、せめて色だけでも覚えておきたい。今日のこの海の匂いは、こんな青色だった、とか。あなたのカメラのシャッターの音は、冷たい銀色だった、とか。そうやって、世界の欠片を拾い集めてる」


支離滅裂なようで、それは彼女にとっての、世界と繋がるための唯一の儀式なのだろう。その切実さが、僕の心の奥底にある、自分でも気づいていなかった柔らかい部分に、静かに沁み込んできた。僕が「灰色」だと切り捨てたこの世界に、彼女は必死に色彩を見つけようとしている。


僕は無言で彼女の隣に腰を下ろした。錆びた手すりの冷たさが、じわりと手のひらに伝わってくる。目の前の海は、ただただ広く、どこまでも続いている。その途方もなさが、今は少しだけ怖かった。


「……いいよ」気づけば、僕はそう答えていた。「探そう。君の色を」


それが、僕たちの奇妙な散歩の始まりだった。


僕たちは灯台を背に、錆びついたガードレールが続く坂道をゆっくりと下った。一歩進むごとに、潮の香りが遠のき、代わりにアスファルトが焼ける匂いと、生い茂る草いきれの匂いが濃くなっていく。僕が今までただの「風景」として認識していたものが、彼女の隣を歩くだけで、一つ一つ意味を持ち始める。


「見て」

零が立ち止まり、指差したのは、民家のブロック塀に絡みつく蔦だった。

「この緑は、抹茶みたいに濃くて、少しだけ苦い味がしそう」

彼女はそう言うと、スケッチブックに数本の線を走らせた。葉脈の一本一本を描くわけではない。ただ、その蔦が持つ生命力の塊のような、力強い印象だけを的確に捉えている。

「でも、こっちの緑は、透き通ってる」

今度は、風にそよぐ柳の葉を指差す。陽光を透かした葉は、まるで薄いガラス細工のようだ。

「メロンソーダの色。飲むと、喉がしゅわしゅわって鳴るの」

飲んだことがあるのだろうか。それとも、想像の中の味なのだろうか。僕は尋ねることができなかった。彼女の過去に触れるのが、少し怖かったからだ。


僕もいつしか、退屈だと思っていたこの町の風景の中に、隠された色彩を探すようになっていた。あの家の屋根瓦は、ただの黒じゃない。長年の雨風に晒されて、少しだけ紫がかって見える。光の当たる角度によっては、深い藍色にも見える。僕はそれを「濡羽色ぬればいろ」という言葉で知っていたけれど、口には出さなかった。僕の陳腐な知識で、彼女の新鮮な感性を汚したくなかったからだ。


やがて僕たちは、町の中心にある、寂れたアーケード商店街にたどり着いた。僕が子供の頃は、週末になると人でごった返し、活気に満ちていた場所だ。天井から吊るされた七夕飾りや、スピーカーから流れる賑やかな音楽を、今でも微かに思い出すことができる。だが、今はその面影もない。半分以上のシャッターは錆びつき、固く閉ざされている。天井のプラスチック板はところどころ黄色く変色し、剥がれ落ちていた。そこは、町の過去の繁栄が化石になったような場所だった。僕にとっては、失われた時間への郷愁を掻き立てる、少しだけ苦い場所だ。


「わ、」


零が、小さな声を上げた。彼女が見つめていたのは、シャッターの降りた玩具屋の店先だった。色褪せたキャラクターの絵が描かれた、古いアーケードゲームの筐体が、雨除けのビニールシートをかけられて打ち捨てられている。その隣には、子供が乗るためのパンダの遊具。塗装は剥げ、片方の目はどこかに行ってしまっている。百円玉を入れれば、きっと悲しげなメロディを流しながら、悪夢のようにぎこちなく前後するのだろう。


僕なら、ただ通り過ぎるだけの光景だ。ノスタルジーは感じても、そこに美しさを見出すことはない。だが、彼女は違った。

「パンダ」零は呟いた。「白と、黒。それだけなのに、どうしてこんなに優しい気持ちになるんだろう。この白は、ミルクの色。この黒は、夜の始まる前の、一番静かな空の色」


彼女はスケッチブックを開き、また鉛筆を走らせ始めた。迷いのない線が、あっという間にあのパンダの、少し寂しげで、でもどこか誇らしげな丸い背中を写し取っていく。僕はその様子を、邪魔しないように少し離れた場所から眺めていた。彼女が描く世界は、僕が見ている世界と、何が違うのだろう。同じものを見ているはずなのに、彼女の瞳というフィルターを通すと、あらゆるものが特別な意味を帯びて輝きだす。それは、僕が失ってしまったものなのか、それとも、初めから持っていなかったものなのか。


スケッチを終えた零が顔を上げた。その額には、うっすらと汗が滲んでいる。夏の午後の熱気が、アーケードの中に澱んで漂っていた。

「喉、渇かない?」と僕が言うと、彼女はこくりと頷いた。その仕草が、どこか幼く見えた。


僕たちはアーケードを抜け、角にある昔ながらの食料品店に入った。カラン、とドアベルが乾いた音を立てる。薄暗い店内には、乾物と、少しだけ甘いお菓子の匂いが混じり合って漂っている。僕が子供の頃から、何も変わっていない匂いだ。店番をしていた老婆は、僕たちを一瞥すると、またすぐに小さなテレビに視線を戻した。ワイドショーのけたたましい音声が、店内に響いている。


店の奥、年季の入った冷蔵庫が、ぶうんと低い唸りを上げていた。そのガラス越しに、色とりどりの瓶飲料が、まるで宝石のように並んでいる。僕はその中から、ガラス瓶に入ったラムネを二本取り出した。ひんやりとした瓶の感触が、汗ばんだ手のひらに心地よかった。


レジに持っていくと、老婆はちらりと僕たちの顔を見て、それからラムネを見て、少しだけ口の端を緩めた。

「二百円」

僕は財布から小銭を出し、カウンターに置いた。老婆の、節くれだった指が、ゆっくりと小銭をかき集める。その指先に刻まれた深い皺が、この店と共に流れてきた長い時間を物語っているようだった。


「これ、なあに?」

店の外に出ると、零が不思議そうに瓶を覗き込んだ。彼女の瞳が、瓶の中のビー玉に反射してきらきらと輝いている。

「ラムネだよ。飲んだこと、ない?」

「ない」彼女は首を横に振った。「どうして、中にガラスの玉が入ってるの? 取り出せないのに?」

「それは……」

僕も、どうしてかなんて考えたこともなかった。炭酸が抜けないようにするためだ、という理屈は知っている。でも、そんな無粋な説明は、今の彼女には似合わない気がした。

「魔法だよ」僕は言った。半分は本気だった。少なくとも、今の彼女にとっては、魔法と同じくらいの不思議さに満ちているはずだ。「この玉が、願い事を叶えてくれるんだ。瓶を空っぽにして、強く念じながら振ると、願いが届く」

「ほんと?」

「ほんと」

僕のいい加減な言葉を、彼女は真っ直ぐな瞳で信じ込んだ。その純粋さが、少しだけ胸に痛かった。


店の前の古い木製ベンチに腰掛け、僕は彼女にラムネの開け方を教えた。日差しを浴びて、ベンチは熱くなっている。プラスチックの栓を外し、それを瓶の口に当てがう。

「いい? ここを、思いっきり、親指でぐっと押すんだ」

「こう?」

零がおそるおそる力を込めるが、ビー玉はびくともしない。彼女の華奢な指では、固い炭酸の圧力を押し返すのは難しいようだった。

「もっと強く。大丈夫、爆発したりしないから。ほら、俺が手伝うよ」

僕は彼女の手に、自分の手を重ねた。触れた指先が、驚くほど冷たい。どきりとして、思わず手を離しそうになるのを堪える。彼女の小さな手のひらを、僕の手がすっぽりと包み込む形になった。

「いくよ。せーの」


ポンッ、という軽快な音と共に、ビー玉が瓶の中に落ちる。しゅわしゅわと白い泡が激しく立ち上り、瓶から溢れそうになった。

「わ、わわっ!」

慌てる零。僕は笑いながら、自分のラムネも手早く開けた。


「……おいしい」

初めてラムネを口にした彼女は、驚きで目を見開いた。子供のように、何度も瞬きをしている。

「なんだろう、この味。ただ甘いだけじゃない。少しだけ、しゅわっと、切ない味がする」

「切ない味?」

「うん。夏の夕暮れみたいな味。もうすぐ終わっちゃうってわかってるけど、すごく綺麗で、ずっと見ていたい、みたいな」


彼女の表現に、僕はまた心を掴まれた。そうだ、ラムネの味は、確かに少しだけ切ない。遠い子供の頃の記憶を呼び覚ますような、もう二度と戻らない時間のエッセンスが溶け込んでいる。僕が「懐かしい」という一言で片付けてしまう感情を、彼女は「切ない」という、もっと鋭利で、的確な言葉で表現する。


僕たちはしばらく無言で、ラムネを飲んだ。瓶の中でからん、ころんと鳴るビー玉の音が、蝉の声に混じって心地よく響く。喉を通り過ぎていく冷たい炭酸が、火照った体を内側から冷ましていく。この時間が、永遠に続けばいいのに、と柄にもなく思った。永遠なんて信じていないくせに。


飲み終えたラムネ瓶を光にかざし、零は中のビー玉をじっと見つめていた。

「この色、なんていうんだろう」

瓶の薄緑色を透かして、ビー玉は淡い光を放っている。

「……空色、かな。でも、空の色とは少し違う。もっと、水の中みたいな色。深い海の底から、水面を見上げた時の光の色」

「そうだね」と僕は相槌を打った。「僕には、君の瞳の色に見える」


言うつもりはなかった。言葉が、勝手に口から滑り出た。思考よりも早く、感情が声になった。

零は驚いたように僕を見た。その頬が、ほんのりと赤く染まっているのが、西日の中で分かった。僕も自分の顔が熱くなるのを感じ、慌てて視線を逸らした。アスファルトの上の、自分の影が、やけに濃く見えた。気まずい沈黙が、僕と彼女の間に流れる。からん、とビー玉の鳴る音だけが、やけに大きく聞こえた。


その沈黙を破ったのは、彼女のスケッチブックだった。

「ねえ、見て」

彼女が差し出したページには、僕が描かれていた。ラムネ瓶を片手に、少し困ったように笑っている僕が。それは、写真よりもずっと、僕の本質を捉えているような気がした。自分でも気づいていなかった、無防備な表情。どうしようもない退屈さと、ほんの少しの期待が入り混じった、複雑な感情までが、その鉛筆の線に込められているようだった。

「……上手いね」

「あなたの色は、これ」

彼女はそう言って、水色の色鉛筆で、絵の中のラムネ瓶をそっと塗った。それは、僕がさっき「君の瞳の色」だと言った、あの色だった。


心臓が、ぎゅっと掴まれたように痛んだ。それは不快な痛みではなく、甘く、痺れるような、生まれて初めて感じる種類の痛みだった。この絵も、この色も、明日の朝には彼女の中から消えてしまう。その事実が、鉛のように重くのしかかってきた。


日が傾き、空がオレンジと紫のグラデ-ションに染まり始める頃、僕たちは自然と浜辺に戻ってきていた。朝よりもずっと、波の音は大きく、力強く響いている。満ち潮の時間なのだろう。寄せては返す波が、砂浜に白いレース模様を描いては、すぐに消していく。まるで、僕たちの今日の時間みたいだ、と思った。

「そろそろ、帰らないと」

零がぽつりと言った。その声には、はっきりと名残惜しさが滲んでいる。僕も同じ気持ちだった。


「あのさ」僕は、ポケットに忍ばせておいたものを取り出した。「これ、やらない?」

僕の手の中にあったのは、数本の線香花火だった。昼間、食料品店でラムネと一緒に、こっそり買っておいたものだ。こういう、子供じみた悪戯のような準備が、僕を少しだけ誇らしい気持ちにさせた。

零の顔が、ぱっと輝いた。今日一番の、明るい表情だったかもしれない。


砂浜に座り、風で火が消えないように、手で囲いを作りながら僕がライターで火をつける。先端の黒い火薬がじりじりと燃え、やがて小さな赤い玉になった。僕はそれを、そっと零に手渡した。

彼女は息を殺して、その小さな光の玉を見つめている。

ぱち、ぱちぱち、と火花が弾け始めた。松葉のように、繊細な光の線が四方八方に広がる。暗くなり始めた浜辺で、そのオレンジ色の光は命を持っているかのように激しく明滅した。


「きれい……」

零の囁きは、波の音に掻き消されそうだった。

彼女の横顔が、花火の光に照らされて、オレンジ色に浮かび上がる。その瞳に映る火花の、一つ一つまで見えそうな気がした。僕は自分の花火に火をつけるのも忘れ、ただ彼女の姿に見入っていた。この一瞬を、僕のカメラではなく、僕自身の瞳に焼き付けたかった。


やがて、一番激しく燃えていた火花が勢いを失い、数本がぽつり、ぽつりと寂しく弾ける。そして最後の一本が消え、光の玉が重力に従ってぽとりと砂の上に落ちた。

後に残ったのは、硝煙の匂いと、深い静寂だけだった。


「……終わっちゃった」

零の声は、ひどく寂しそうだった。

「うん。でも、」僕は言った。「また、やればいいよ」


「……忘れちゃうのに?」


彼女の言葉に、僕は息を呑んだ。そうだ、彼女は忘れてしまうのだ。このラムネの味も、僕の似顔絵も、今見たばかりの線香花火の儚い光も。僕が今日感じた、この胸を締め付けるような甘い痛みも、彼女の中からは綺麗さっぱり消えてしまう。僕が積み上げたこの時間は、砂の城のように、夜の波に攫われて消えるだけじゃないか。


その事実に、目の前が暗くなるような絶望を感じた。今日一日に、一体何の意味があったのだろう。この感情は、この時間は、行き場のないまま、僕の中にだけ澱のように溜まっていくのだろうか。


「それでも」

僕は、自分でも驚くほど強い声で言った。声が震えないように、奥歯をぐっと噛みしめる。

「それでも、いい。君が忘れても、俺が覚えてるから。何度でも教えるよ。ラムネの開け方も、線香花火のやり方も。だから……」


だから、また明日も会ってほしい。


その言葉は、喉まで出かかったけれど、音にはならなかった。代わりに、僕は立ち上がり、彼女に向かって手を差し出した。

「送るよ。暗いから」


彼女は黙って、僕の手を取った。思ったよりもずっと小さく、冷たい手だった。その冷たさが、彼女の抱える孤独を物語っているような気がした。僕たちは手を繋いだまま、彼女が手伝いをしているという喫茶店「海猫亭」へと向かった。店の前まで来ると、彼女は名残惜しそうに僕の手を離した。


「今日は、ありがとう」

彼女は深々と頭を下げた。

「楽しかった。すごく。今日の色、絶対に忘れない。ラムネの、水色と……線香花火の、オレンジ色」


彼女はそう言って、最高の笑顔を見せた。今日一日の中で、一番美しい笑顔だった。僕の心臓が、また大きく音を立てる。その笑顔が、僕への希望であると同時に、残酷な棘のようにも感じられた。


「じゃあ、また明日」

僕は、祈るような気持ちで言った。ほとんど、懇願に近かった。


「うん。また、明日」


彼女はそう答えて、店のドアの向こうに消えていった。カラン、とドアベルが鳴る。


僕はしばらく、その場に立ち尽くしていた。胸の中には、幸福感と、同じくらいの大きさの不安が渦巻いていた。彼女は本当に、今日のことを覚えていてくれるだろうか。「また明日」という約束は、果たされるのだろうか。彼女の「忘れない」という言葉は、ただの気休めではないのか。


わからない。でも、信じたかった。

今日のこの特別な一日が、ただの砂上の楼閣ではないことを。僕が彼女の世界に灯した小さな光が、夜の闇に消えてしまわないことを。


僕は夜空を見上げた。星はまだ、見えなかった。

家に帰る道すがら、僕は何度も、自分の右手を、彼女が触れた手のひらを見つめていた。そこにはまだ、彼女の温もりが、いや、冷たさが、幻のように残っている気がした。


この時の僕は、まだ知らなかった。

僕の祈りが、どれほど無力で、そして、これから始まる夏が、どれほど残酷で、愛おしいものになるのかを。

ただ、明日が来るのが、生まれて初めて、心の底から待ち遠しかった。その高揚感だけが、僕のすべてだった。


翌朝、僕、水野蒼は、ここ数年で感じたことのないような高揚感と共に目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝日が、いつもよりずっと明るく、希望に満ちているように見える。蝉の声さえ、昨日のような不快な騒音ではなく、夏の訪れを祝うファンファーレのように聞こえた。


「また明日」


昨夜、彼女が残した言葉が、頭の中で何度も反響する。彼女の、あの最高の笑顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。今日はどんな話をしようか。どんな色を一緒に見つけに行こうか。僕はベッドから跳ね起きると、クローゼットの中から一番ましなTシャツを選び出した。いつもは適当に掴んだものを着るだけなのに、鏡の前で髪を整えている自分に気づき、少しだけ照れ臭くなる。


逸る心を抑え、僕は家を出た。目指す場所は、もちろん喫茶店「海猫亭」だ。店の前まで来ると、心臓がやけに大きく脈打つのを感じた。深呼吸を一つして、僕は店の古い木製のドアに手をかける。


カラン、と軽やかなベルの音が鳴った。


店内には、焙煎されたコーヒー豆の香ばしい匂いが満ちている。窓際の席に、彼女はいた。白いワンピースではなく、淡い青色のブラウスを着て、窓の外をぼんやりと眺めている。その姿を見つけただけで、僕の胸は安堵と喜びで満たされた。


僕は彼女のテーブルへと、少しだけ緊張しながら歩み寄った。

「やあ」

声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。


その瞬間、僕は息を呑んだ。


彼女の瞳。それは、昨日僕が見た、好奇心と親しみに満ちた瞳ではなかった。そこにあるのは、澄み切ってはいるが、何の感情も映さない、静かで、冷たいガラス玉のような光だけだった。彼女は僕を見て、小さく首を傾げた。その仕草は、見知らぬ人間に対する、純粋な警戒心と戸惑いの色を浮かべていた。


「……はじめまして」


その一言が、僕の鼓膜を突き破り、頭の中で木霊した。世界から、音が消える。コーヒーの香りも、窓から差し込む光も、すべてが意味を失い、色褪せていく。僕が昨日、必死に積み上げたはずの時間は、夜の間に跡形もなく消え去っていた。砂の城は、やはり波に攫われてしまったのだ。


「あの……何か?」

僕が呆然と立ち尽くしていると、彼女は怪訝そうに眉を寄せた。その表情は、僕の心を容赦なく抉る。


「……いや、ごめん。人違いだったみたいだ」


喉の奥から絞り出した声は、ひどく震えていた。僕は彼女に背を向け、逃げるように店を出た。カラン、というベルの音が、今度は僕の敗北を告げるゴングのように、無情に響いた。


店の外で、僕は壁に手をつき、荒い息を繰り返した。頭がくらくらする。絶望、という言葉では足りない。もっと根源的な、自分の存在そのものが否定されたような感覚だった。彼女が忘れることは、わかっていたはずだ。それでも、心のどこかで期待していた。奇跡が起きるのではないかと。僕との一日が、彼女の中に何か特別な痕跡を残すのではないかと。


なんて、愚かで、傲慢な考えだったのだろう。


僕はよろよろと歩き出した。あてもない。ただ、この場所から離れたかった。昨日、彼女と歩いた道を、今度は一人で逆に辿っていく。灯台が見える坂道、錆びついたガードレール、メロンソーダの色をした柳の葉。そのすべてが、今は僕を嘲笑っているかのように見えた。一つ一つの風景が、失われた時間の鋭利な破片となって、僕の心を切り刻んでいく。


浜辺に着くと、僕は砂の上に崩れるように座り込んだ。寄せては返す波が、僕の足元を濡らしていく。冷たい海水が、スニーカーにじわりと染み込んできた。


どうして。どうして、忘れてしまうんだ。

あのラムネの味も、僕の似顔絵も、線香花火の光も、本当に全部消えてしまったのか。僕が彼女の瞳の色だと言った、あの水色の記憶も。


その時、ふと、ある違和感が頭をよぎった。


昨日、彼女は言った。「今日の色、絶対に忘れない」と。それは、ただの気休めの言葉だったのかもしれない。だが、もし、ほんのわずかでも、彼女の中に何かが残っているとしたら? 彼女は、記憶を失う自分自身と、毎日どうやって向き合っているのだろう。


僕は再び立ち上がり、海猫亭へと引き返した。今度は客としてではなく、ただの傍観者として、彼女の様子を窺うためだ。店の向かいにある古いバス停のベンチに座り、僕はガラス窓の向こうの彼女を、息を殺して見つめ続けた。


彼女は、淡々と仕事をこなしていた。客に水を運び、注文を取り、コーヒーを淹れる。その動きに、昨日僕が見たような、世界に対する新鮮な驚きや好奇心の色は見られない。まるで、プログラムされた通りに動く人形のようだった。


だが、客が途切れ、一人になった瞬間。

彼女は決まって、窓の外に視線を向けた。その視線の先にあるのは、僕が昨日、彼女と初めて会った、あの白い灯台だった。彼女は何かを思い出そうとするかのように、じっと、ただじっと、灯台を見つめている。その横顔は、ひどく切なく、孤独に見えた。


そして、もう一つ。

彼女は時々、カウンターの内側で、自分のスケッチブックを開いていた。客からは見えない角度で、こっそりと。パラパラとページをめくり、何かを確認しているようだった。その表情は真剣そのもので、まるで難解な暗号を解読しようとしているかのようだった。


僕の心に、小さな疑問の芽が生えた。

彼女は、本当に「すべて」を忘れているのだろうか。それとも、「忘れたという事実」だけを毎朝突きつけられ、失われた一日を、残されたスケッチブックの断片から必死に再構築しようとしているのではないか。だとすれば、彼女が毎朝味わっている絶望は、僕の比ではない。


日が傾き始め、海猫亭の店じまいの時間が近づいてきた。僕は、どうしようもない衝動に駆られていた。このまま、今日を終わらせてはいけない。このまま、彼女を一人で夜の闇に帰してはいけない。


僕は、昨日のラムネを買った食料品店へと走った。店の老婆は、またか、というような顔で僕を見たが、何も言わずにラムネを二本、紙袋に入れてくれた。


僕は店の前で、彼女が出てくるのを待った。やがて、店の明かりが消え、彼女が一人で出てきた。その手には、あのスケッチブックが大事そうに抱えられている。


「あの」

僕が声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせ、警戒した目で僕を見た。朝と同じ、他人を見る目だ。

「……誰、ですか?」

「昨日、会ったんだけど……」

僕が言いかけると、彼女はふるふると首を振った。

「すみません、私、そういうのは……」

彼女は僕を避け、足早に去ろうとする。その背中に、僕は叫んでいた。


「線香花火! オレンジ色の!」


彼女の足が、ぴたりと止まった。

ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼女が振り返る。その瞳には、戸惑いと、ほんのわずかな光が宿っているように見えた。


「……オレンジ色?」


彼女は、自分の胸のスケッチブックに視線を落とした。そして、何かを思い出すように、小さく呟いた。

「今日の、色……」


心臓が、大きく跳ねた。

やっぱり。彼女は、何かを手がかりに、失われた一日を探しているんだ。


僕は一歩、彼女に近づいた。

「ラムネも飲んだ。君は、夏の夕暮れみたいな味がするって言った」

僕は手に持っていた紙袋から、ラムネの瓶を取り出して見せた。瓶の中のビー玉が、街灯の光を反射して、淡く光る。


彼女の視線が、ラムネ瓶に釘付けになった。その瞳が、微かに揺れている。彼女は自分のスケッチブックを、震える指で開いた。そして、あるページをじっと見つめている。僕からは、何が描かれているのか見えない。


「……あなた、なの?」

彼女が、か細い声で尋ねた。

「この絵の、人……?」


「そうだよ」僕は頷いた。「俺が、水野蒼だ。君と昨日、一緒に灯台で話した」


彼女は僕の顔と、スケッチブックの絵を、何度も、何度も見比べた。その瞳に浮かぶ混乱と探究の色。彼女の頭の中で、失われた記憶の断片と、目の前の僕という存在が、必死に結びつこうとしているのが伝わってくる。


その時、僕は気づいた。

彼女がめくっていたページ。その隅に、小さな文字で何かが書き込まれているのが、ちらりと見えた。


『―――蒼い、サイダーの味』


僕の名前。

いや、僕の名前を連想させる、ただの形容詞かもしれない。偶然の一致かもしれない。だが、僕の全身に、鳥肌が立った。


これは、何だ?

彼女は、僕の名前を知っていた? 忘れたはずの僕の名前を、無意識に書き残していた?

それとも……。


僕の思考が、ありえない可能性に行き着く。

このループは、本当に今日が初めてなのか?

僕が「初めて」だと思い込んでいるだけで、実は、僕自身も何かを忘れているのではないか?


僕が彼女との「昨日」を失ったように、僕もまた、もっと前の「昨日」を、ごっそりと失っているのではないだろうか。この無気力な夏休みも、将来への漠然とした不安も、すべては、何か大切なものを忘れてしまったことによる、後遺症なのではないか。


ぐるぐると、思考が渦を巻く。目の前の彼女の、戸惑いに満ちた顔。スケッチブックに書かれた、謎の言葉。僕の記憶の、不自然な空白。

点と点が、まだ線にはならない。だが、僕の足元に広がっていたはずの固い地面が、不意にぐらりと揺らぐような、途方もない眩暈に襲われた。


「……わからない」

長い沈黙の末、彼女は力なく首を振った。

「ごめんなさい。あなたのこと、やっぱり思い出せない」

その瞳から、さっき宿ったばかりの微かな光が、すうっと消えていくのが分かった。


「そっか……」

僕は、落胆を隠せなかった。だが、同時に、新たな決意が芽生えていた。

このループは、ただ彼女の記憶を取り戻すためのものではないのかもしれない。僕自身が、失った何かを取り戻すための、これは挑戦状なのかもしれない。


「いいよ」僕は、精一杯の笑顔を作った。「じゃあ、また明日。明日、もう一度、はじめましてをしよう。そして、また一緒にオレンジ色を探そう」


僕の言葉に、彼女は驚いたように目を見開いた。そして、ほんの少しだけ、困ったように微笑んだ。それは、昨日僕が見た、あの砂糖菓子のような笑顔とは違う、もっと儚く、寂しげな微笑みだった。


彼女は何も言わずに、小さく頷くと、夜の闇へと歩き去っていった。

僕はその場に一人、取り残された。


夜風が、火照った頬を撫でていく。

絶望と、ほんのわずかな希望。そして、新たに生まれた、巨大な謎。

それらがごちゃ混ぜになった感情を抱え、僕は夜空を見上げた。


星は、まだ見えなかった。

だが、僕には分かっていた。この長い、長い夜が明けた時、僕の夏は、また同じ一日から始まる。

そして僕は、何度でも彼女に会いに行くだろう。

彼女が忘れた夏を、そして、僕が忘れた夏を、取り戻すために。


夜が明けた。

その事実が、今はただ重い。昨夜、僕の胸に灯ったはずの「新たな決意」という名の小さな炎は、眠っている間に冷たい灰になってしまったようだった。まぶたが鉛のように重く、体を起こすことすら億劫だった。部屋に差し込む朝日も、蝉の声も、昨日の朝とはまるで違う。光は容赦なく僕の怠惰を暴き立て、蝉の声は頭蓋骨の内側で不協和音を奏でている。


ループしている。また、あの日に戻ってきてしまった。

その認識が、僕の思考を鈍らせる。胃のあたりが、冷たい石で満たされているような不快感。昨日までの、ほんのわずかな希望的観測――彼女の中に何かが残っているかもしれない、僕自身も何かを忘れているのかもしれない――という推測は、一夜明けてみれば、ただの都合の良い妄想にしか思えなかった。


彼女は忘れる。それが、この世界の絶対的な法則なのだ。

僕が何をしようと、何を伝えようと、夜という名の消しゴムが、すべてを綺麗に白紙に戻してしまう。昨夜の僕は、その残酷な真実から目を逸らしたかっただけなのだ。


それでも、体は勝手に動く。歯を磨き、顔を洗い、着替える。昨日と同じTシャツ。昨日と同じジーンズ。何もかもが同じ。鏡に映る自分の顔は、ひどく生気がなく、まるで幽霊のようだった。


家を出る。足取りは、昨日とは比べ物にならないほど重い。喫茶店「海猫亭」へ向かう道すがら、僕は今日、彼女にどう接するべきか、決めかねていた。昨日と同じように声をかけるべきか。それとも、今日は何もしないで、ただ一日をやり過ごすべきか。どうせ、何をしても無駄なのだから。


そんな葛藤を抱えたまま、僕は店の前にたどり着いてしまった。ガラス窓の向こう、いつもの席で、彼女が窓の外を眺めている。今日の服装は、白いワンピースだ。僕が「最初に」出会った、あの日と同じ。その事実が、僕の心をさらに重くする。


僕はドアを開けることができず、店の前を行ったり来たりと、不審な徘徊を繰り返した。中に入る勇気も、このまま立ち去る勇気もない。まるで、透明な壁に阻まれたみたいに、一歩が踏み出せないでいた。


十分ほどそうしていただろうか。

意を決して、今日こそは何もせず帰ろうと背を向けた、その時だった。


カラン、とベルの音がして、店のドアが開いた。

ゴミ袋を二つ抱えた彼女が、店から出てきたのだ。僕の存在に気づいた彼女は、びくりと肩を震わせ、足を止めた。その瞳に浮かんだのは、戸惑いでも、警戒心でもなかった。


それは、明らかな「恐怖」の色だった。


「……っ」

彼女は小さく息を呑むと、僕から視線を逸らし、足早に店の角にあるゴミ集積所へと向かった。その歩き方は、明らかに僕を避けている。ゴミ袋を乱暴に放り込むと、彼女は僕の方を見ようともせず、駆け足で店の中へと戻っていった。


ドアが閉まる直前、彼女がちらりと僕を見た。その瞳には、まるで得体の知れないストーカーでも見るかのような、怯えと嫌悪が混じり合っていた。


ガツン、と頭を鈍器で殴られたような衝撃。

僕はその場に立ち尽くした。心臓が、冷たい水の中に沈んでいくように、ゆっくりと、ゆっくりと脈を打つ。


そうか。

そうだよな。


考えてみれば、当たり前のことだ。

彼女にとっては、僕は「昨日も店の前をうろついていた、不審な男」なのだ。そして、昨夜、帰り道で待ち伏せして、訳のわからないことを叫んできた、気味の悪い男。彼女の中に残っているのは、僕との楽しい記憶ではなく、「得体の知れない男に付きまとわれた」という、恐怖の断片だけなのかもしれない。


僕が彼女を救おうとしていた行動は、すべて裏目に出ていた。僕が積み重ねていたのは、希望の欠片などではなく、彼女の中の恐怖と不信感だけだった。僕の存在そのものが、彼女を脅かす脅威になっていたのだ。


その事実に気づいた瞬間、僕の心の中で、何かがぷつりと音を立てて切れた。

もう、無理だ。

これ以上、何をどうすればいい?

僕が彼女に近づけば近づくほど、彼女を怖がらせるだけだ。僕が彼女を想えば想うほど、彼女を苦しめるだけだ。このループは、僕に彼女を救わせるためのものではない。僕に、自分の無力さと罪を、永遠に思い知らせるための、これは罰なのだ。


僕は、ふらふらと歩き出した。どこへ向かうというあてもない。ただ、この場所から消えてしまいたかった。僕の視界は、ぐにゃりと歪んでいる。世界が、その色彩を失っていく。灰色ですらない。もう、何も見えない。音も聞こえない。ただ、自分の心臓の、鈍い鼓動だけが、頭の中で不気味に響いていた。


気づけば、僕は灯台の前にいた。

僕が彼女と「初めて」出会った場所。

石段に腰を下ろし、僕は海を眺めた。凪いだ海面は、のっぺりとした鉄板のようだ。何の感情も映さない、無機質な広がり。空も、雲も、すべてが嘘くさく見えた。


時間が、異常なほど遅く流れている。

秒針の音が、一秒、また一秒と、脳髄に直接杭を打ち込むように響く。さっきまでけたたましく鳴いていた蝉の声が、今はぴたりと止んでいる。世界が、僕の絶望に合わせて、息を潜めているかのようだ。


ポケットを探ると、指先に硬いものが触れた。

昨日、食料品店で買った、線香花火の残りだった。


僕はそれを取り出し、一本、指でつまんだ。

ライターで火をつける。風もないのに、なかなか火がつかない。三度、四度と繰り返して、ようやく先端の火薬が黒く焦げ始めた。やがて、小さな赤い玉が生まれる。


僕はそれを、ただじっと見つめていた。

ぱち、ぱち、と火花が弾ける。オレンジ色の、小さな光の粒。

昨日、彼女の瞳を輝かせた光。


だが、今の僕の目には、それはただの化学反応にしか見えなかった。儚くもなければ、美しくもない。ただ、燃えて、消えるだけの、無意味な現象。

線香花火は、あっという間にその命を終え、黒い燃えかすとなって、ぽとりと地面に落ちた。


後に残ったのは、硝煙の匂いと、昨日よりもずっと深い、底なしの虚無だった。


ああ、そうか。

これが、僕の心の景色なんだ。

燃え尽きて、何も残らない。ただ、虚しいだけ。

彼女と出会う前の、あの無気力な日々に、もう一度戻りたい。いや、あの頃の僕でさえ、まだマシだった。少なくとも、希望を知ってしまった後の、この絶望はなかったのだから。


僕は残りの線香花火を、すべて地面にばらまいた。踏みつけて、粉々にしてやりたかったが、そんな気力さえ湧いてこない。


もう、やめよう。

何もかも。

彼女に会うのも。ループから抜け出そうと足掻くのも。失われた記憶を探すのも。

全部、無駄なことだ。


僕は、明日から、もう家を出ないことにしよう。

このループが終わるまで、あるいは、僕の精神が完全に壊れてしまうまで、部屋に閉じこもって、ただ時間が過ぎ去るのを待つのだ。それが、僕にできる唯一のことだ。彼女を怖がらせず、誰にも迷惑をかけない、唯一の方法。


そう決めた瞬間、僕の周りの世界から、完全に色が消えた。

海も、空も、灯台も、僕自身の体さえも。すべてが、濃淡の違う、ただの影になった。

僕は、モノクロームの牢獄に、たった一人で閉じ込められたのだ。


遠くで、夕暮れを告げるチャイムが鳴っている。

今日という一日が、また終わっていく。

僕の心が、完全に死んだ一日が。


僕は立ち上がらなかった。

夜が来て、僕をこの場所から連れ去ってくれるまで、このまま、石のようにここに座っていようと思った。


また、明日が来る。

同じ絶望を、寸分違わず味わうために。

そして、その次の日も。また、その次の日も。

永遠に。


その途方もない時間の長さに、僕は、ゆっくりと、しかし確実に、心を侵食されていくのを感じていた。

もう、再起なんてできない。

光は、どこにもない。


陽が落ち、夜の闇が世界を塗りつぶしても、僕は灯台の石段から動かなかった。星々が空に滲み、月が鈍い光を放ち始める。潮が満ち、波の音がすぐそこまで迫っていた。肌を撫でる夜風は生暖かく、まるで誰かの溜息のようだ。僕は、自分が石なのか、人間なのか、その境界さえ曖昧になっていくのを感じていた。思考は停止し、感情は麻痺し、ただ、時間が過ぎるのを待つだけの物体と化していた。


やがて、意識が途切れるように眠りに落ちたのか、それとも気絶したのか。次に目を開けた時、僕の目に映ったのは、見慣れた自室の天井だった。


ループだ。

また、あの朝が来た。


絶望が、昨夜灯台で感じたものと寸分違わぬ重さで、僕の全身にのしかかる。体を起こす気力がない。カーテンの隙間から差し込む光が、瞼を焼くように痛い。蝉の声が、頭蓋骨を内側から削るように響く。


昨日、僕は決めたのだ。もう家から一歩も出ないと。誰にも会わず、何もせず、ただこの部屋で、時間が過ぎるのを待つのだ、と。それは、もはや決意というより、諦観だった。世界に対する、完全な降伏宣言。


僕はベッドの上で、胎児のように体を丸めた。布団を頭まで深く被り、光と音を遮断する。こうしていれば、何も感じなくて済む。何も考えなくて済む。僕は、僕という存在を、この薄暗い繭の中に封じ込めてしまいたかった。


どれくらいの時間が経っただろう。数時間か、あるいは数分か。時間の感覚が、もうない。腹も空かないし、喉も渇かない。ただ、意識の水平線の向こうで、蝉の声だけが延々と鳴り続けている。


その時だった。


ピンポーン、と、間延びしたチャイムの音が響いた。


僕は無視した。どうせ新聞の勧誘か、何かのセールスだろう。僕には関係ない。この家の住人は、今、存在しないのだから。


しかし、チャイムは止まらなかった。

ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。

まるで、僕がそこにいることを確信しているかのように、執拗に鳴り続ける。僕は耳を塞ぎ、さらに深く布団の中に潜り込んだ。やめてくれ。僕を、そっとしておいてくれ。


やがて、チャイムの音は止んだ。

静寂が戻る。僕は安堵の息を漏らした。諦めて帰ったのだろう。


だが、次の瞬間。

階下から、ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。


僕の全身の血が、凍りついた。

心臓が、氷の塊になったように冷たく、硬くなる。

強盗か? 空き巣か? いや、それならもっと静かに入るはずだ。

まさか、母さんが忘れ物でも取りに帰ってきたのか? いや、両親は旅行中で、帰ってくるのは一週間後の、はずだ。


ギシ、ギシ、と、古い階段を誰かが上がってくる音がする。

一歩、また一歩。その足音は、僕の部屋の前で、ぴたりと止まった。


僕は息を殺した。布団の中で、体が硬直する。心臓だけが、肋骨を突き破らんばかりに激しく鼓動していた。


コン、コン。


控えめなノックの音。

そして、僕の耳を疑うような、声がした。


「……あの、すみません。水野、蒼さん……いらっしゃいますか?」


その声。

間違いない。月白零の声だった。


なぜ。どうして、彼女がここに? 僕の家を? 僕の名前を?

頭が真っ白になる。恐怖と混乱で、思考が追いつかない。


僕が返事をしないでいると、ドアノブがゆっくりと回る音がした。

鍵を、かけていなかった。この町で、家に鍵をかける習慣なんて、僕にはなかったからだ。


ギィ、と、軋むような音を立てて、ドアがゆっくりと開いた。

僕は布団の隙間から、恐る恐るその光景を盗み見た。


そこに立っていたのは、紛れもなく、白いワンピースを着た零だった。

彼女は、薄暗い僕の部屋の中を、おそるおそる見回している。その手には、あのスケッチブックが、やはり大事そうに抱えられていた。


「……あの」

彼女は、ベッドの上の不自然な膨らみ――僕の存在に気づいたようだった。

「水野、蒼さん……ですよね?」


その声には、昨日のような恐怖の色はなかった。むしろ、困惑と、そしてどこか、心配するような響きが混じっている。

僕は声を出せなかった。声の出し方を、忘れてしまったかのようだった。


彼女は、ゆっくりとベッドに近づいてきた。

「昨日……いえ、私にとっては、今日の朝なんですけど……お店の前で、あなたを見かけて」

彼女は、言葉を選びながら、慎重に話す。

「すごく、辛そうな顔をしていたから……。それで、なんだか、放っておけなくて」


辛そうな顔?

ああ、そうか。僕が、彼女に怯えられて心が折れた、あの瞬間を見られていたのか。

なんという、皮肉だ。


「この住所は、お店の……叔母に聞きました。この町で、水野って言ったら、だいたいこの辺りだって」

彼女は、僕の沈黙を肯定と受け取ったのか、話を続けた。

「勝手に入って、ごめんなさい。でも、チャイムを鳴らしても出てこないし、なんだか、すごく心配になって……。もしかして、どこか、具合でも悪いんですか?」


彼女の言葉の一つ一つが、鋭いガラスの破片となって、僕の心に突き刺さる。

やめてくれ。

その優しさは、今の僕には、猛毒だ。

何も知らない君が、僕を心配するなんて。僕が、君のせいで、こんなにも苦しんでいるとも知らずに。


僕は、布団の中で、ただ体を固くするしかできなかった。


「……あの」

彼女は、ベッドの脇に、そっと腰を下ろした。ギシ、と、スプリングが軋む音がする。彼女の、石鹸のような、清潔な香りが、布団の隙間から入り込んできた。

「何があったのか、私にはわかりません。きっと、私なんかに話したくないことだと思います。でも」


彼女は、一呼吸置いた。


「辛い時は、無理に色を探さなくても、いいんじゃないかなって」


その言葉に、僕の心臓が、鷲掴みにされたように痛んだ。

色。

彼女は、僕との会話を、覚えていないはずだ。

なのに、なぜ、その言葉を。


「灰色の日が、あってもいいと思うんです」

彼女の声は、まるで子守唄のように、穏やかで、静かだった。

「世界が全部、モノクロームに見えちゃう日。私も、時々あります。……ううん、私は、毎日がそうなのかもしれない」


彼女は、自嘲するように、小さく笑った。

「毎朝、知らない天井を見て、知らない部屋で目を覚ますんです。隣に置いてあるスケッチブックを開いて、昨日までの『知らない私』が何を見て、何を感じたのかを、必死に読み解くことから、私の一日は始まるんです。それは、まるで色褪せた、古い映画を見ているみたいで……」


「でも、そんな灰色の世界の中でも、時々、ほんの一瞬だけ、色がついて見えることがあるんです」


彼女は、自分の胸に手を当てた。

「理由もわからないのに、胸がきゅーってなったり。わけもなく、涙が出そうになったり。そういう時、私の世界は、ほんの少しだけ、色を取り戻すんです。それが、どんな色なのかは、わからないままだけど」


彼女は、僕が隠れている布団の上に、そっと自分の手を置いた。

薄い布一枚を隔てて、彼女の体温が伝わってくる。それは、昨日僕が触れた時のような冷たさではなく、確かな温もりを持っていた。


「だから、あなたも。今は、無理しなくていいんです。ただ、ここにいて、息をしているだけで、いいんです。灰色は、灰色の一番きれいな色を探せばいい。雨の日のアスファルトの色とか、遠くの山の、霧に霞んだ色とか。そういう、静かな色も、私は、好きです」


ああ、もう、やめてくれ。


僕の瞳から、熱いものが、勝手に溢れ出した。

涙なんて、もう枯れ果てたと思っていたのに。

彼女の言葉は、僕が固く閉ざした心の扉を、いとも簡単にこじ開けていく。


彼女は、何も覚えていない。

僕が彼女に「灰色」の世界の話をしたことも、一緒に色を探したことも。

それなのに、彼女は、僕が一番言ってほしかった言葉を、僕に投げかける。

これは、偶然なのか? それとも、彼女の魂の奥底に、僕との記憶の残滓が、本当に残っているというのか?


どちらにせよ、それは僕にとって、残酷な慰めだった。

この優しさも、この温もりも、明日になれば、また消えてしまう。

そして、明日の彼女は、また僕を不審者として、恐怖の目で見るのだろう。

この温かさを知ってしまったら、明日の絶望は、今日よりもずっと、深く、冷たいものになるに違いない。


心を、また、ずたずたに引き裂かれる。

希望を与えられ、そして、次の瞬間には、それを無慈悲に奪い取られる。

こんな仕打ちが、あるだろうか。


僕は、布団の中で、声を殺して泣いた。

嗚咽が漏れないように、唇を強く噛み締める。体が、小刻みに震える。


彼女は、僕が泣いていることに気づいているのか、いないのか。

ただ、静かに、僕の背中を、ゆっくりと、一定のリズムで、優しく撫で続けていた。


その温もりが、僕の心を癒すと同時に、明日への恐怖を、何倍にも、何十倍にも増幅させていく。

この地獄は、いつまで続くのだろう。


彼女が僕の部屋を去った後も、僕はしばらくベッドから動けなかった。彼女が置いていった温もりと、石鹸の香りが、まだ部屋の中に幻のように漂っている。頬を伝った涙はとっくに乾き、塩の結晶が肌をひりつかせた。


灰色の日があってもいい。

無理に色を探さなくてもいい。


何も覚えていないはずの彼女が紡いだ、奇跡のような言葉たち。それは僕の荒れ果てた心に、染み渡るにはあまりにも優しすぎた。その優しさは、僕の心を癒すと同時に、明日またすべてがリセットされるという残酷な現実を際立たせる毒でもあった。


しかし、固く閉ざしたはずの心の奥底で、ほんの小さな、か細い声がする。

――もう一度だけ、信じてみてはどうだ?


馬鹿げている。そう頭では思う。明日になれば、彼女はまた僕を忘れ、怯えた目で見ることになるだろう。今日与えられたこの温もりは、明日、より深い絶望を味わうための序曲に過ぎない。


だが、あの時の彼女の瞳。僕を心配そうに見つめていた、純粋な眼差し。スケッチブックに無意識に残されていたという、色の記憶の断片。そして、僕の名前を連想させる『蒼い、サイダーの味』という謎の言葉。


もしかしたら。万に一つ、億に一つの確率でも。

僕の行動が、何かを変えるきっかけになるかもしれない。たとえ彼女の「記憶」には残らなくても、彼女の「心」の、もっと深い場所に、何かを刻み込むことができるのではないか。


それは、ほとんど祈りに近い、根拠のない希望だった。だが、完全に光を失っていた僕の世界に、その希望は、針の穴ほどの小さな光点を穿った。


「……やってみるか」


僕は、誰に言うでもなく呟いた。声は掠れ、ひどく弱々しかったが、それは紛れもなく、僕自身の意志だった。

もう一度だけ。これが本当に、本当に最後だ。

このループの中で、僕にできる、最高の夏を彼女にプレゼントしよう。

たとえ、それが僕一人だけの思い出になったとしても。たとえ、その結果、僕の心が完全に壊れてしまったとしても。


そう決意すると、不思議と体の中に力が戻ってきた。僕はベッドから起き上がり、顔を洗う。鏡に映った自分の顔は、まだ死人のようだったが、その瞳の奥に、昨日まではなかった微かな光が宿っているように見えた。


翌朝。ループの始まり。

僕は、逃げなかった。

昨日までの絶望を引きずりながらも、僕はまっすぐに「海猫亭」へと向かった。心臓は、恐怖と期待で張り裂けそうだった。


店の前で深呼吸を一つ。

今日、彼女が僕に怯えたとしても、それは仕方がないことだ。昨日までの僕が蒔いた種なのだから。それでも、僕は今日、彼女との関係をゼロから、いや、マイナスからでも、もう一度築き直すのだ。


カラン、とドアベルを鳴らして店に入る。

いつもの席に、彼女はいた。今日の服装は、淡い黄色のカーディガン。陽だまりのような色だ。

僕が近づいていくと、彼女は僕の存在に気づき、顔を上げた。


僕は、彼女が怯えるのを覚悟して、身構えた。


しかし、彼女の反応は、僕の予想とはまったく違っていた。

彼女は、僕を見て、きょとんと首を傾げた。そこに、恐怖や嫌悪の色はない。ただ、純粋な「無関心」だけが、そのガラス玉のような瞳に映っていた。

まるで、道端の石ころでも見るかのような、何の感情も宿さない視線。


そして、彼女は僕から興味を失ったように、ふいと視線を窓の外に戻してしまった。


僕は、その場に立ち尽くした。

拍子抜け、というのとは違う。もっと、根本的なところで、何かがずれているような感覚。

昨日、あれほど僕を怖がっていたはずの彼女が、なぜ?


「……あの、お客様?」

僕が突っ立っているのを不審に思ったのか、カウンターの中から、叔母の日下部さんが声をかけてきた。

僕は我に返り、慌てて空いている席に座った。


混乱する頭で、アイスコーヒーを注文する。

なぜだ? なぜ、彼女は僕を怖がらない?

ループの法則が、変わったというのか?

いや、そんなはずはない。だとしたら、考えられる可能性は一つだけだ。


――彼女の記憶から、昨日の「恐怖」も、リセットされている。


その事実は、僕にとって、安堵であると同時に、新たな絶望でもあった。

良い記憶だけでなく、悪い記憶さえも、彼女の中には留まらない。僕が彼女に与えた恐怖も、痛みも、すべて水に流されてしまう。それは、僕の罪が赦されたようでいて、同時に、僕の存在そのものが、彼女にとってそれほどまでに希薄なのだと、突きつけられているのと同じだった。


僕は、ただ無力だった。

彼女の記憶という舞台の上で、僕は、登場しては忘れ去られる、名もなきエキストラに過ぎないのだ。


それでも、僕は決めたのだ。今日が最後だと。

僕は、震える声で、彼女に話しかけた。

「あの……」


彼女は、億劫そうにこちらを振り向いた。

「はい」

その声は、完全に他人行儀なものだった。


「はじめまして」僕は言った。「僕、水野蒼って言います。君の絵が、すごく素敵だなって、ずっと思ってて」


我ながら、ひどい口説き文句だと思った。だが、今の僕には、これしか思いつかなかった。

彼女は、少しだけ驚いたように目を見開いた。そして、自分の手元にあるスケッチブックに視線を落とす。


「……ありがとうございます」

彼女は、少しだけ頬を染めて、そう言った。

その反応に、僕の心臓が、また馬鹿みたいに跳ねた。


――まだ、いける。

――まだ、始められる。


僕は、そこから必死だった。

ループの中で得た知識を、最大限に活用した。彼女が興味を示しそうな話題――光の描写の美しさ、色彩の持つ力について、僕は熱心に語った。僕の言葉に、彼女は少しずつ心を開き始めた。ガラス玉のようだった瞳に、徐々に好奇心の色が灯っていくのが分かった。


「よかったら、今度、君の絵のモデルにならせてくれないかな」

僕の言葉に、彼女ははにかみながら、小さく頷いた。


やった。

繋がった。

僕は、心の底から安堵した。マイナスからだと思っていたスタートラインは、意外にもゼロ地点にあったのだ。


その日の午後は、夢のような時間だった。

僕たちは、昨日までのことなど何もなかったかのように、新鮮な気持ちで、この町の色を探して歩いた。ラムネの味に驚き、線香花火の光に感動する彼女の姿。それは、僕が何度も見てきた光景のはずなのに、今日だけは、すべてが特別な輝きを放っているように見えた。


僕の心は、完全に浮かれていた。

今日こそ、何かが変わるかもしれない。この幸福な時間が、明日へと繋がるかもしれない。そんな、甘い期待に、酔いしれていた。


夕暮れ時、僕たちは、いつものように浜辺にいた。

「蒼くん」

彼女が、初めて僕の名前を呼んだ。

「今日のこの夕日の色、なんていう名前なんだろう。オレンジでもないし、赤でもない。もっと、胸が苦しくなるような……」

「……茜色、かな」

「あかねいろ……」彼女は、その言葉を、宝物のように口の中で転がした。「きれいな名前。絶対に、忘れない」


その言葉が、僕の心を締め付けた。

忘れないでくれ。本当に。今度こそ。


別れ際、彼女は僕に、最高の笑顔を見せて言った。

「今日は、本当にありがとう。すごく、楽しかった。今までで、一番、色が見えた一日だったかもしれない」


僕は、天にも昇る気持ちだった。

「じゃあ、また明日」

僕は、昨日までとは違う、確かな手応えを感じながら言った。


「うん。また、明日」

彼女は、力強く頷いてくれた。


僕は、その夜、ほとんど眠れなかった。

高揚感で、体が火照っていた。明日になれば、彼女は僕を覚えている。そして、僕たちの夏は、本当の意味で始まるのだ。僕は、何度も何度も、そう自分に言い聞かせた。


そして、運命の朝が来た。


僕は、昨日とは比べ物にならないくらい、軽い足取りで家を飛び出した。

スキップさえしたくなるような気持ちで、「海猫亭」のドアを開ける。


カラン、という音と同時に、僕は目を見開いた。


店のカウンター席に、彼女がいた。

そして、その隣には、僕の知らない男が座っていた。

歳は僕と同じくらいだろうか。日に焼けた肌、爽やかな笑顔。いかにも、この町の人気者といった風情の男だった。


二人は、とても楽しそうに話していた。

零が、あんなに屈託なく笑っているのを、僕は初めて見た。

僕に見せたどの笑顔よりも、ずっと自然で、幸せそうな笑顔だった。


男が、何か冗談を言ったのだろう。彼女は、男の腕を、楽しそうに軽く叩いた。

その親密な仕草。


僕の頭の中で、何かが、砕け散る音がした。


僕の存在に気づいた零が、こちらを見た。

そして、昨日までのどのパターンとも違う、完璧な、一点の曇りもない笑顔で、こう言ったのだ。


「あ、おはようございます!」


それは、店の常連客や、顔見知りに向けるような、明るく、しかし何の特別さもない挨拶だった。

僕のことは、覚えていない。

でも、怖がってもいない。

ただ、完全に「その他大勢」として、認識されている。


そして、彼女はすぐに、隣の男の方へと向き直ってしまった。

僕のことなど、もう視界にすら入っていないかのように。


僕は、その場に、凍りついたように立ち尽くした。

足元から、地面が崩れ落ちていく。

世界が、回転を始める。


ああ、そうか。

そうだったのか。


彼女が昨日、僕に恐怖を抱かなかったのは、ループの法則が変わったからじゃない。

ただ、僕という存在が、彼女の中で「どうでもいいもの」に変わったからだ。

僕が彼女に与えた恐怖さえも、取るに足らないこととして、忘却の彼方に追いやられてしまったのだ。


そして、僕が必死に積み上げた、昨日という「最高の夏」。

それも、彼女にとっては、隣の男との楽しいおしゃべりの前では、何の価値もない、すぐに忘れ去られてしまう、ただの一日に過ぎなかった。


僕が彼女に与えたのは、最高の思い出なんかじゃなかった。

ただの、暇つぶしだったのだ。


その残酷な真実が、僕の心を、今度こそ、再起不能なまでに、粉々に打ち砕いた。

昨日、僕が抱いた希望が、大きければ大きいほど。

今日の絶望は、深く、暗く、救いようがなかった。


僕は、もう、何も感じなかった。

悲しみも、怒りも、虚しささえも。

ただ、空っぽの器になった僕の体だけが、そこに、ぽつんと、取り残されていた。


世界が、終わった。

僕の、ちっぽけな世界が。

喫茶店「海猫亭」を、どうやって出てきたのか覚えていない。気づけば僕は、夜の浜辺に一人で座っていた。背後にあるはずの灯台の光さえ、今は届かない。完全な闇の中、寄せては返す波の音だけが、耳鳴りのように単調に繰り返されている。


心は、もう何も感じなかった。

昨日までの激しい痛みも、絶望も、今は遠い。まるで他人事のように、自分の感情を俯瞰しているような、奇妙な静けさが胸の中に広がっていた。それは、嵐が過ぎ去った後の静けさではなく、すべての生命が死に絶えた、死の世界の静寂だった。


ポケットの中で、何かがカサリと音を立てた。

最後の線香花火だった。

僕は、それを一本、取り出した。まるで、儀式を執り行う神官のように、厳かな手つきで。


ライターの火を灯す。

オレンジ色の小さな炎が、闇の中で揺らめいた。

僕は、その炎を、線香花火の先端に近づける。黒い火薬がじりじりと燃え、小さな赤い火の玉が生まれた。

ぱち、ぱちぱち、と、命が弾ける音がする。

繊細な光の線が、闇の中に儚い軌跡を描いては、消えていく。


きれいだ、と、思った。

何の感情も乗らない、ただの事実として。

この光は、美しい。そして、すぐに消える。僕の希望と、同じように。


火花が勢いを失い、最後の光がぽとりと砂の上に落ちた。

後に残ったのは、硝煙の匂いと、昨日よりもさらに深く、底の見えない静寂だけだった。


僕は、もう一本、火をつけた。

そして、また一本。

持っていた最後の花火が燃え尽きるまで、僕はただ、その無意味な行為を繰り返した。

これは、僕の夏の、弔いだ。

僕が殺してしまった、僕自身の心の、ささやかな葬儀だ。


最後の一本が、燃え尽きようとしていた、その時だった。


「……あの」


背後から、声をかけられた。

僕は、振り返らなかった。どうせ、誰でもよかった。今の僕には、世界中の誰が話しかけてきても、同じことだ。


「一人で、花火?」

その声は、僕のすぐ近くまで来ていた。

「きれいだね。……でも、なんだか、すごく寂しそうに見える」


その声に、聞き覚えがあった。

僕は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、首を動かした。

そこに立っていたのは、月白零だった。

白いワンピースが、月明かりを浴びて、ぼんやりと光っている。


ああ、またか。

また、このパターンか。

僕の心が死んだ夜に、君は、必ず現れるんだな。

まるで、僕の絶望を喰らって生きる、美しい悪魔のように。


「何か、つらいことでもあったの?」

彼女は、僕の隣に、そっと腰を下ろした。

その瞳には、純粋な、そして何の含みもない、同情の色が浮かんでいる。

僕が今日、彼女の隣にいた、あの爽やかな男のせいで、こんなにも打ちのめされているとも知らずに。


「……別に」

僕の口から出たのは、砂を噛むような、乾いた声だった。


「そっか」

彼女は、僕の答えを、あっさりと受け入れた。

「でも、そんな顔してる」

彼女は、自分の細い指で、僕の頬にそっと触れた。その指先は、ひんやりと冷たい。

「笑ってなくてもいいから、そんな、世界が終わったみたいな顔、しないで」


心臓が、軋むような音を立てた。

やめてくれ。その言葉は、もう、僕には届かない。

君の無垢な優しさは、僕の死んだ心を鞭打つ、最も残酷な拷問だ。


「私ね」彼女は、空を見上げて言った。「時々、思うの。忘れちゃうってことは、毎日、生まれ変わってるってことなのかなって。昨日の私とは違う、新しい私に。だとしたら、それは、少しだけ素敵なことなのかなって」


「でも、本当は、違う」

彼女の声が、微かに震えた。

「私は、何も積み重ねられない。ただ、毎日、同じ場所をぐるぐる回ってるだけ。私の時間は、進んでない。止まってるの」


彼女は、僕の方に向き直った。

その瞳が、月明かりの下で、潤んでいるように見えた。

「あなたも、同じ? あなたの時間も、止まってるの?」


僕は、何も答えられなかった。

彼女は、僕の沈黙を、肯定と受け取ったようだった。

彼女は、僕の肩に、そっと自分の頭を寄りかからせた。シャンプーの、甘い香りがする。


「大丈夫だよ」

彼女は、囁いた。

「一人じゃない。ここに、もう一人いるから。時間が止まった人間が」


その言葉は、僕に与えられた、究極の救いであり、同時に、究極の呪いだった。

僕たちは、同じ牢獄に囚われた、囚人同士なのだ。

違うのは、彼女がその牢獄の壁に、毎日、新しい絵を描こうとしているのに対し、僕は、ただ壁に頭を打ちつけ続けることしかできない、という点だけだ。


僕たちは、しばらく、そうしていた。

ただ、寄せては返す波の音を聞きながら。

僕の肩にかかる、彼女の髪の重み。伝わってくる、確かな体温。

この時間が、永遠に続けばいい。

そう思った瞬間、僕の頭の中に、悪魔的な考えが閃いた。


永遠に?

そうだ、永遠にできるじゃないか。


――彼女が、眠らなければ。


彼女が眠りにつき、記憶をリセットするから、僕たちの時間は、永遠に「昨日」に戻ってしまう。

ならば、彼女が眠るのを、阻止すればいい。

そうすれば、今日という日が、明日へと繋がり、僕たちの時間は、前に進み始めるのではないか?


それは、あまりにも身勝手で、狂気に満ちた考えだった。

だが、完全に心を失っていた僕にとって、それは、唯一残された、一条の光のように思えた。


「……零」

僕は、彼女の名前を呼んだ。

「うん?」

彼女は、僕の肩に頭を預けたまま、眠たそうな声で返事をした。


「眠いのか?」

「……うん、少し。なんだか、今日は、すごく疲れたから……。もう、お店に戻らないと……」

彼女が、ゆっくりと体を起こそうとする。


その腕を、僕は、強く掴んだ。

「ダメだ」


「え……?」

彼女は、驚いたように僕を見た。その瞳に、初めて、怯えの色が浮かぶ。

「離して……」


「ダメだ。寝ちゃダメだ」

僕は、狂人のように、同じ言葉を繰り返した。

「寝たら、全部、忘れちゃうだろ。今日のことも、俺のことも、全部。そんなの、もう、嫌なんだ!」


僕の声は、自分でも驚くほど、激しい響きを帯びていた。

僕は、彼女の腕を掴んだまま、立ち上がった。彼女の体が、なすすべもなく、僕に引きずられる。


「やめて! 誰か……!」

彼女が、か細い悲鳴を上げた。


その瞬間、僕の頭は、完全に冷静になった。

何をしているんだ、俺は。

結局、やっていることは、彼女を怖がらせるだけじゃないか。

また、同じことの繰り返しだ。


僕は、彼女の腕から、ぱっと手を離した。

罪悪感と自己嫌悪で、立っていられなくなり、その場に膝から崩れ落ちた。


「ごめん……ごめん……」

僕は、ただ、そう繰り返すことしかできなかった。


零は、僕から距離を取り、恐怖に引きつった顔で、僕を見下ろしていた。

そして、彼女の体に、異変が起きた。


「はっ……ひゅっ……」


彼女の呼吸が、急に浅く、速くなる。

胸を押さえ、苦しそうに喘ぎ始めた。過呼吸だ。

「あ……ぁ……くる、し……」


「零!?」

僕は、我に返り、彼女に駆け寄ろうとした。

だが、彼女は、僕を拒絶するように、後ずさる。


「来ないで……!」


その時、彼女の瞳が、白目を剥いた。

糸が切れた人形のように、彼女の体から、力が抜ける。

僕が、彼女の体を支えるよりも早く、その華奢な体は、砂の上に、くずおれた。


「零! しっかりしろ、零!」

僕は、彼女の体を揺さぶった。

だが、彼女は、もう反応しない。浅い呼吸を繰り返すだけで、意識は、どこか遠い場所に行ってしまっているようだった。


どうしよう。救急車を。いや、その前に。

僕の頭が、パニックで真っ白になった、その瞬間。


世界が、ぐにゃりと、歪んだ。


目の前の景色が、まるで水の中にインクを垂らしたように、急速に滲み、混ざり合っていく。

灯台の光が、異常なほど引き伸ばされ、僕の視界を飲み込んでいく。

波の音が、轟音に変わる。

僕の体が、強い力で、どこかへ引きずり込まれていくような、強烈な浮遊感。


「うわあああああっ!」


僕は、叫び声を上げた。

これは、いつものループとは、違う。

もっと、暴力的で、抗いがたい、何かの力。


そして、僕の意識は、そこで、ぷつりと途絶えた。


次に目を開けた時。

僕の目に映ったのは、見慣れた、自室の天井だった。


ループだ。

また、朝に戻った。

そう、思った。


だが、何かが、おかしい。

体の、右側が、温かい。そして、重い。

僕の腕の中に、誰かがいる。


恐る恐る、僕は、視線を横に向けた。


そこにいたのは、月白零だった。

僕のベッドの上で、僕の腕枕で、彼女は、すうすうと、穏やかな寝息を立てていた。

白いワンピースは、砂と潮で、少し汚れている。


何が、起きた?

なぜ、彼女が、僕のベッドに?

昨夜、浜辺で気絶した彼女と、僕が、一緒に、ここに……?


強制的に、引き込まれた。

あの時、僕は確かにそう感じた。


これは、ただのループじゃない。

僕の意志とは関係なく、僕と彼女を、この場所に、繋ぎ止める、何か。


僕の心臓が、恐怖で、早鐘を打ち始めた。

このループは、僕が思っていたよりも、ずっと深く、邪悪な意志を持っているのかもしれない。

そして、僕は、その中心に、彼女と共に、囚われてしまったのだ。


承知いたしました。

第八話では、前話の衝撃的な引きから一転、静かな朝の異常な状況下で、記憶のない零がパニックに陥り、その純粋さが狂気へと変貌していくさまを描きます。蒼は、自らが引き起こした事態の深刻さと、ループの法則が歪み始めたことへの恐怖に直面します。


時間が、止まった。

いや、凍りついた、と言う方が正しい。

僕の腕の中で眠る、月白零の穏やかな寝顔。規則正しく上下する、華奢な肩。僕の胸に聞こえる、彼女のかすかな寝息。そのすべてが、この世のものとは思えないほど非現実的で、僕は自分がまだ悪夢の中にいるのではないかと疑った。


昨夜の断片的な記憶が、脳裏で激しく明滅する。

僕の狂気じみた行動。彼女の恐怖に満ちた瞳。浅くなる呼吸。そして、世界が歪む、あの感覚。


――強制的に、引き込まれた。


この状況は、僕が望んだものではない。しかし、僕の行動が引き金になったことは、疑いようもなかった。彼女が眠るのを阻止しようとした、僕の身勝手な願い。それが、このループの、決して触れてはならない禁忌タブーに触れてしまったのではないか。


僕のすぐ隣で、彼女の長い睫毛が、ぴくりと震えた。

やがて、彼女はゆっくりと、その瞼を開いた。


ガラス玉のような、澄み切った瞳。

その瞳が、数秒間、ぼんやりと宙を彷徨った。知らない天井、知らない部屋の匂い、そして、自分のすぐ隣にある、知らない男の顔。彼女の脳が、この異常な状況を、ゆっくりと処理していくのが、手に取るように分かった。


そして。

彼女の瞳が、僕の顔を、正確に捉えた。


次の瞬間、彼女の瞳に、最大級の「恐怖」が宿った。

それは、昨日までの比ではなかった。野生の動物が、捕食者を前にした時のような、生存本能に根差した、純粋で、凝縮された恐怖。


「―――っ!!」


声にならない悲鳴が、彼女の喉から迸った。

彼女は、まるで焼け火箸でも触れたかのように、僕から飛びのいた。ベッドの反対側の端まで転がるように移動し、壁に背中を強く打ち付ける。その衝撃で、小さな本棚から、数冊の本が床に落ちた。


ガタン、と大きな音がして、部屋の静寂が破られる。


「あなた、誰……っ!?」

彼女の声は、恐怖でひどく裏返っている。

「ここ、どこ!? 私、なんで……っ!?」

彼女は、自分の体を見下ろした。砂と潮で汚れた、白いワンピース。自分の身に何が起きたのか、まったく理解できていないようだった。


「落ち着いて、零! 話を聞いてくれ!」

僕は、ベッドから起き上がり、彼女に手を差し伸べようとした。


「来ないでっ!!」


彼女は、金切り声を上げた。

そして、その手には、ベッドサイドのランプが、武器のように握りしめられていた。硬い陶器製のランプシェードが、僕に向けられている。彼女の指は、関節が白くなるほど、強くそれを握りしめていた。


「来たら、これで……!」

彼女は、全身を小刻みに震わせている。瞳孔は開ききり、呼吸は浅く、速い。昨夜の過呼吸が、再発しかけているのかもしれない。


「違うんだ、俺は何も……!」

僕の言葉は、もう彼女には届かない。彼女の頭の中では、すでに最悪のシナリオが完成しているのだろう。見知らぬ男の部屋で、見知らぬ男のベッドで目を覚ました自分。その絶望的な状況が、彼女の理性を、完全に破壊していた。


「落ち着け、零。俺は水野蒼だ。昨日の夜、浜辺で……」

僕が、状況を説明しようとすればするほど、彼女の瞳の狂気は、増していく。


「知らない! そんな名前、知らない! 浜辺? 花火? 何も覚えてない!」

彼女は、頭を激しく左右に振った。

「あなたは、私に何をしたの!? 答えて!!」


違う。何もしていない。

そう言いたかった。だが、本当にそうだろうか。

僕は、彼女の腕を掴み、無理やり引き留めようとした。恐怖で叫ぶ彼女を、力で支配しようとした。その結果、彼女は気を失った。

僕の行動は、まぎれもなく「加害」だった。


僕が言葉に詰まった、その一瞬の沈黙を、彼女は肯定と受け取ったようだった。

彼女の顔から、血の気が、すうっと引いていく。恐怖の色が、徐々に、何か別のものへと変質していくのを、僕は見た。


それは、「絶望」だった。

そして、絶望が行き着く先にある、剥き出しの「攻撃性」。


「……そう」

彼女は、呟いた。

その声は、先ほどまでの金切り声とは違う、ぞっとするほど、静かで、低い声だった。

「そういう、ことだったんだ」


彼女は、ゆっくりと立ち上がった。

その手には、まだランプが握られている。

その目は、もう僕を見ていなかった。部屋の中を、獲物を探す獣のように、ゆっくりと見回している。


「私の時間……。私の記憶……」

彼女は、ぶつぶつと、何かを呟き始めた。

「あなたが、奪ってたんだ。毎日、毎日、私の全部を、あなたが……」


妄想だ。狂気に陥った彼女が作り出した、虚構の物語。

だが、その妄想は、ある意味で、真実を突いていた。

僕は、彼女の記憶がないことを利用して、何度も彼女に近づき、彼女の時間を、結果的に支配していたのだから。


「返して」


彼女は、僕の方に向き直った。

その瞳は、もう、ガラス玉ではなかった。底なしの憎悪と狂気をたたえた、どろどろの、黒い沼のようだった。


「私の『昨日』を、返してよ!!」


彼女は、絶叫と共に、僕に飛びかかってきた。

手にしたランプを、力任せに、僕に向かって振り下ろす。


僕は、咄嗟に腕で顔を庇った。

ガシャン! という、耳をつんざくような破壊音。

硬い陶器が、僕の腕の骨に激突し、砕け散る。激痛が、腕から全身へと駆け巡った。


「ぐっ……!」

僕は、痛みに呻き、ベッドの上に倒れ込んだ。


だが、彼女の攻撃は、止まらない。

砕けたランプの、鋭く尖った破片を、彼女は、なおも握りしめていた。そして、それを、僕の胸に、突き立てようとする。


「零! やめろ!」

僕は、必死で、彼女の手首を掴んだ。

彼女の、信じられないほどの力。火事場の馬鹿力というやつだろうか。彼女の体全体重が、その一点に込められている。


「死ね! 死んで、私の昨日を返して!」

彼女は、もはや人間ではなかった。

記憶という、自己を形成する最も重要な要素を奪われ、その犯人だと思い込んだ相手を、ただ破壊しようとする、本能の塊だった。


僕の腕から、血が流れている。シーツに、じわりと、赤い染みが広がっていく。

彼女の瞳から、涙が、滝のように流れ落ちていた。憎しみと、悲しみと、絶望がごちゃ混ぜになった、熱い涙。


この状況は、何だ。

これが、僕が望んだ「明日」だというのか。

彼女との時間を、前に進めた結果が、これだというのか。


僕の脳裏に、これまでのループの日々が、走馬灯のように駆け巡る。

初めて出会った日の、彼女の笑顔。

ラムネの味に驚いた、無邪気な顔。

線香花火の光に見入っていた、美しい横顔。

僕の部屋で、僕を慰めてくれた、優しい声。


そのすべてが、今、この瞬間に、僕の中で、完全に死んだ。

僕が愛した月白零は、もうどこにもいない。

僕の目の前にいるのは、僕への憎悪に身を焦がす、一匹の獣だ。


僕が、彼女を、こうしてしまったのだ。

僕の、身勝手なエゴが。


彼女の手首を掴む、僕の力が、緩んだ。

もう、どうでもいい。

このまま、彼女に殺されるのなら、それも、一つの結末なのかもしれない。

この、終わらない地獄から、解放される唯一の方法なのかもしれない。


僕が、抵抗を諦めた、その時。


世界が、再び、ぐにゃりと、歪んだ。


昨日よりも、さらに激しく、暴力的な、空間の捻じれ。

部屋の壁が、天井が、床が、まるで粘土のように溶け合い、渦を巻いていく。

僕の体を突き刺そうとしていた、彼女の動きが、スローモーションのように、停止する。

彼女の、憎悪に満ちた顔が、驚愕の色に変わっていく。


「な……に、これ……」


僕たちの体を、抗いがたい力が、また、どこかへ引きずり込もうとしている。

これは、罰だ。

僕たちが、このループの禁忌に、二度も触れてしまったことに対する、神の、あるいは、悪魔の、罰なのだ。


僕の意識が、遠のいていく。

最後に僕の目に映ったのは、僕の血で赤く染まった、陶器の破片を握りしめたまま、なすすべもなく、時空の渦に飲み込まれていく、零の絶望的な顔だった。


――もう、何もかも、おしまいだ。


意識が、ゆっくりと浮上する。

水底から、水面を目指す泡のように。

僕の耳に最初に届いたのは、規則正しい、誰かの寝息だった。


――またか。


その認識は、もはや絶望や恐怖といった感情を伴わなかった。ただ、事実として、そこにあるだけだった。天気予報が「明日は雨でしょう」と告げるのと同じレベルの、変えようのない、ただの事実。


僕は、ゆっくりと目を開けた。

見慣れた、自室の天井。

そして、僕の腕の中で、すうすうと穏やかな寝息を立てている、月白零の姿。

昨日と、まったく同じ光景。デジャヴですらない。これは、寸分違わぬ、再放送だ。


僕の腕には、傷一つなかった。

昨日、砕けたランプの破片で抉られたはずの、あの生々しい傷跡は、綺麗さっぱり消え去っている。シーツに広がっていたはずの血の染みも、どこにもない。

ループは、僕の体の傷さえも、リセットするらしい。

だが、心に刻まれた傷は、決して消えることはない。むしろ、ループを繰り返すたびに、古い傷の上に新しい傷が重ねられ、醜いケロイドのように、肥大化していく。


僕は、腕の中で眠る零の顔を、何の感情もなく見下ろした。

天使のように、無垢な寝顔。

数時間後、この天使が、僕を殺そうとする獣へと変貌するのだ。

その喜劇であり、悲劇でもある筋書きを、僕はもう、知っている。


心が、死んでいた。

昨日までの僕なら、この状況に再び絶望し、嘆き、あるいは発狂していたかもしれない。

だが、今の僕は、違った。

あまりにも強烈な絶望を繰り返し味わったせいで、僕の感情の回路は、焼き切れてしまったようだった。悲しみも、怒りも、恐怖も、何も感じない。ただ、ひどく、頭が冴えていた。


まるで、嵐がすべてを洗い流した後の、不気味なほど澄み切った空のように。


僕は、静かに、思考を巡らせ始めた。

このループは、一体何なのか。

なぜ、僕たちは、毎朝このベッドの上に、強制的にリセットされるのか。


いくつかの法則が見えてきた。

一つ目。「月白零が眠ると、時間は巻き戻る」。

二つ目。「月白零の心身に危険が及ぶと、ループは暴走し、僕たちをこのベッドの上に強制転移させる」。

これは、ループの「安全装置フェイルセーフ」だ。このループを維持している何者かが、零という存在が「壊れる」ことを、極端に恐れている。


では、その「何者か」とは、一体誰だ?

神か? 悪魔か?

それとも……。


僕は、腕の中で眠る零の、その無垢な寝顔を、もう一度、じっと見つめた。

そして、ある、途方もない仮説に思い至った。


――このループを、維持しているのは。

――このループの、創造主は。


――月白零、彼女自身なのではないか。


彼女の無意識。彼女の、魂そのものが、この世界を創造し、僕をこの役割に縛り付けているのではないか。

僕だけが記憶を保持しているのは、この永遠の「今日」を維持するために、僕という観客が、あるいは共犯者が必要だからだ。僕が舞台から降りてしまわないように、彼女の無意識は、時折、慰めや希望という名の「餌」を与え、僕をこのループに繋ぎ止めている。


なんという、残酷なマッチポンプ。


僕は、零の、白いワンピースに目をやった。

砂と、潮で汚れている。昨夜、浜辺で倒れた時のままだ。

この汚れは、何を意味する?

ループは、僕の体の傷はリセットするのに、彼女の服の汚れは、リセットしない。


その、小さな矛盾。

その、綻びに、僕は、何か、巨大な真実の尻尾が隠されているような気がした。


リセットされるものと、されないもの。

僕の腕の傷は、消えた。シーツの血の染みも、消えた。壊れたランプも、元通りだ。

ループは、「僕の周囲の物理的な損傷」は、修復する。


だが、彼女の服の汚れは、そのまま。

なぜ?


……まさか。


ぞっとするような、第二の仮説が、僕の脳髄を貫いた。


このループが、もし、月白零の無意識が作り出した世界なのだとしたら。

その世界で、リセットされないもの。

それは、「彼女自身が、リセットする必要がないと判断したもの」なのではないか。


あるいは、「彼女自身が、リセットできない、変えようのない事実」の、象徴なのではないか。


砂と、潮の汚れ。

それは、彼女が「浜辺で倒れた」という事実の、痕跡。


彼女の無意識は、なぜ、その痕跡を、わざわざ残しておく?


まるで、何かを、訴えかけるように。

僕に、何かを、思い出させようとするかのように。


――私は、ここで、倒れたのよ。

――あなたは、それを、見ていたのよ。


その時、僕の記憶の、深い、深い霧の奥で、何かが、閃いた。


1年前の、夏。

僕が、この町で過ごした、記憶のない夏。

親には、受験勉強のために、夏期講習に行っていたと嘘をついていた、あの夏。


僕は、確かに、この町にいた。

そして、誰かと、一緒にいた。

笑い声。ラムネの瓶。線香花火。そして……


――夏祭りの夜。

――神社の、古いクスノキの下。

――鳴り響く、車の、急ブレーキの音。

――そして、僕の目の前に広がった、鮮血の色。


アスファルトに飛び散った、生々しい赤。

その赤は、夕日の茜色でも、線香花火のオレンジ色でもない。

もっと、濃く、禍々しく、鉄の匂いがするような、命の色。


僕を庇って、誰かが、車に撥ねられたのだ。

その誰かは、赤いワンピースを着ていた。


僕は、腕の中で眠る零を見た。

彼女が着ているのは、白いワンピースだ。


違う。記憶違いか?

だが、僕の脳裏に焼き付いているのは、紛れもなく、血のような、鮮やかな「赤」だった。白いワンピースでは、あの夜の光景とは、辻褄が合わない。


頭が、割れるように痛い。

矛盾する記憶。失われた時間。ループの謎。

すべてが、僕の頭の中で、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。


その時だった。


僕の腕の中で、零が、小さく、身じろぎをした。

そして、寝言のように、か細い声で、呟いた。


「……あかい、いろ……」


赤い、色……?


茜色、ではない。はっきりと、彼女はそう言った。


「……いたい……」


彼女の顔が、苦痛に歪む。

まるで、悪夢にうなされているかのように。


「……ごめん、なさい……。しろい、ふく……よごしちゃって……ごめんなさい……」


白い、服?

何を言っているんだ? 事故の時、彼女が着ていたのは、赤いワンピースだったはずだ。


混乱する僕の耳に、彼女の、最後の寝言が、突き刺さった。


「……あお、くん……」


僕の名前。

はっきりと、彼女は僕の名前を呼んだ。


「……にげ、て……」


その言葉を最後に、彼女は、ふっと穏やかな寝顔に戻った。

彼女の瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちる。

その涙は、僕の腕を、静かに濡らした。


僕は、その涙を見て、すべてを、悟った。

パズルのピースが、恐ろしい音を立てて、はまっていく。


ああ、そうか。

そうだったのか、零。


君は……。

君は、僕が忘れてしまった、あの夏を。

僕が一人だけ生き残ってしまった、あの悲劇を。


僕に、思い出させるために。

この、永遠の夏を、繰り返していたのか。


そして、僕の記憶との、決定的な矛盾。


――事故の時、彼女が着ていたのは、赤いワンピースではなかった。


彼女が着ていたのは、白いワンピースだったのだ。

その白いワンピースが、彼女自身の血で、真っ赤に染まっていた。

だから、僕の記憶の中では、「赤いワンピースの少女」として、上書きされてしまっていたのだ。


そして、彼女の最後の寝言。


『白い服、汚しちゃって、ごめんなさい』


それは、死の間際に、彼女が僕に言った、最後の言葉だったのかもしれない。


僕の全身から、血の気が引いていく。

このループは、僕が思っていたような、切ない恋物語などではなかった。

これは、死んだ少女の魂が、僕という加害者(生き残り)に、罪を思い出させるために作り出した、呪縛の空間。

僕が毎朝、彼女の隣で目を覚ますのは、僕が、彼女が死んだあの場所に、一緒にいたからだ。


この夏は、終わらない。

僕が、すべての罪を思い出し、そして、償うまで。


その日から、僕の世界は完全に変わった。

この夏は、呪いだ。死んだ少女の魂が、僕に罪を思い出させるために作り出した、永遠に繰り返す舞台。月白零は、もはや生きた人間ではない。彼女は、僕が忘れた過去の記憶そのものであり、このループ世界の法則を司る、哀しき神様だ。


彼女は、常世とこよの国と現世うつしよの境にいる。肉体は滅び、魂だけが、僕への執着によってこの夏に縛り付けられている。


その恐るべき真実を悟った時、僕の心から、最後の感情が消え失せた。悲しみも、絶望も、罪悪感さえも。後に残ったのは、まるで精密機械のようになった、冷徹な思考だけだった。


僕は、このループという名のプログラムを、解析し、その法則の裏をかき、バグを突いて、この状況を打開するしかない。それは、もう彼女を「救う」というような、感傷的な行為ではない。これは、僕自身がこの無限地獄から生き延びるための、冷酷なサバイバルだ。


毎朝、僕は彼女の隣で目を覚ます。

その度に、僕はまず、彼女の寝顔を数秒間だけ観察する。今日はどんな夢を見ているのか。どんな寝言を呟くのか。それは、このループの根幹に関わる、重要なデータ収集だ。


そして、彼女が目覚める数分前、僕はそっとベッドを抜け出し、部屋の隅の椅子に座る。彼女が目を覚ました時、ベッドに僕がいない状況を作る。これが、僕の最初の実験だった。


結果は、いつも同じだった。

目を覚ました彼女は、見知らぬ部屋にいることに気づき、パニックに陥る。しかし、ベッドに僕がいないため、彼女の恐怖は「見知らぬ場所に一人でいる」という内面的なものに留まり、僕への直接的な攻撃性には繋がらない。彼女はしばらく部屋で怯えた後、やがて泣き疲れて、ドアから出ていく。


――これは、使える。

この方法なら、少なくとも、僕の身体的な安全は確保できる。彼女がランプの破片で僕を刺し殺そうとする、あの最悪の事態は回避できるのだ。


僕は、彼女がいなくなった部屋で、一日を過ごす。

壁のカレンダーは、永遠に「7月20日」を指している。

僕は、大学ノートを開き、そこに、ループに関する情報を、機械的に書き連ねていった。


【ループの基本法則】


零が眠ると、時間は「7月20日の朝」にリセットされる。


零の心身に危険が及ぶ(過呼吸、狂乱など)と、ループは暴走し、僕と零を「7月20日の朝のベッド」に強制転移させる。


僕の記憶と、ノートへの書き込みは保持される。


僕の身体的な損傷はリセットされる。


零の服装(白いワンピース)とその汚れ(砂、潮)はリセットされない。


【仮説】


ループの創造主は、零の無意識(魂)。


ループの目的は、僕に「1年前の事故の真相」を思い出させ、罪を償わせること。


零の「意識」は記憶を失っているが、「無意識」は全てを覚えている。


僕は、このノートを、この世界の唯一の羅針盤として、試行錯誤を繰り返す日々を始めた。


【実験記録 Day 14】

目的:零の「無意識」との対話の可能性を探る。

方法:朝、彼女が目覚める前に部屋を出る。その後、喫茶店「海猫亭」へ行き、何も知らないフリをして彼女に接触。「茜色」という単語を会話に混ぜ込み、彼女の反応を観察する。

結果:彼女は「きれいな言葉ですね」と微笑んだだけだった。無意識からの、特異な反応はなし。やはり、彼女の「意識」が起きている間は、無意識は深く潜伏しているらしい。


【実験記録 Day 21】

目的:ループの強制転移の条件を、さらに詳しく探る。

方法:浜辺で、ずっと前までの僕と同じように、彼女を言葉で追い詰め、過呼吸を誘発させる。ただし、彼女の体に触れる直前で、行動を停止する。

結果:彼女はパニックに陥り、過呼吸を起こした。その瞬間、世界は歪み、僕たちはベッドの上に転移した。物理的な接触は、転移の必須条件ではない。「彼女の精神が、危険水域に達した」と、ループのシステムが判断することがトリガーとなる。この実験は、僕自身の精神的消耗が激しすぎるため、今後は禁止する。


【実験記録 Day 32】

目的:「リセットされないもの」の謎を探る。

方法:彼女が町を歩いている間に、こっそりと後をつけ、彼女の白いワンピースに、泥水を跳ねかける。

結果:泥の染みは、翌朝のループでも、彼女のワンピースに残っていた。砂や潮の汚れと同様、ループ後も保持されることを確認。これは、「ループ開始時点(1年前の事故死の瞬間)以降に、彼女の肉体(あるいは魂の器)に加えられた物理的な変化」は、リセットされないことを示唆しているのではないか。だとしたら、なぜ僕の傷は消える? 僕が、この世界の「外部要因」だからか?


日々は、淡々と過ぎていく。

いや、過ぎてはいない。同じ一日を、僕は、違う角度から、何度も、何度も、なぞっているだけだ。

灯台で絵を描く彼女を、遠くから眺める日。

商店街でラムネを買う彼女を、物陰から見守る日。

浜辺で一人、夕日を見る彼女の背中を、ただ静かに見つめる日。


僕は、彼女と、もう会話をしない。

僕が彼女に干渉すればするほど、ループは予測不能な動きを見せる。僕は、この世界の、冷静な観測者でなければならない。


感情は、とうに死んだ。

あるのは、この理不尽なプログラムを攻略するという、ゲームプレイヤーのような、乾いた執念だけだ。


そんな日々が、何か月も――いや、ループの中では、何年分にも相当する時間が、過ぎていった。

僕のノートは、何冊にもなった。そこには、膨大な量のデータと、失敗した実験の記録、そして、いくつもの新しい仮説が、僕の無機質な文字でびっしりと埋め尽くされている。


そして、ループ開始から、何度目かの「夏祭りの日」が来た。

僕の記憶が正しければ、1年前、事故が起きた、運命の日だ。

町の中心部は、いつもより人が多く、提灯が飾られ、祭囃子の練習の音が、遠くから聞こえてくる。


僕は、この日を待っていた。

この日は、このループ世界における、特異点シンギュラリティのはずだ。

何かが、起きる。あるいは、何かを、起こせるかもしれない。


僕は、僕の立てた、ある大胆な仮説を検証するために、行動を開始した。

僕の仮説。それは、こうだ。


――ループの強制転移の法則を逆用すれば、僕たちは、過去に飛べるのではないか。


ループの暴走は、僕たちを「7月20日の朝のベッド」に転移させる。

では、もし、この「夏祭りの夜」に、ループを暴走させたら?

この特異点において、安全装置フェイルセーフが誤作動を起こし、僕たちを、1年前の、**「事故が起きる直前の、あの場所」**に、転移させる可能性はないだろうか。


危険な賭けだ。

失敗すれば、またあの無意味な朝に戻るだけ。

だが、もし成功すれば。

もし、あの瞬間に戻ることができれば。


僕は、未来を、変えられるかもしれない。

彼女が死ぬという、結末を。


その夜、僕は、祭りの喧騒を抜け、神社の境内へと向かった。

目的の場所は、分かっている。

1年前、僕たちが、待ち合わせをしていた、古いクスノキの下だ。


僕は、そこで、彼女が来るのを待った。

やがて、人混みの中から、彼女が現れた。

白いワンピースが、提灯の赤い光を浴びて、淡いピンク色に染まって見える。


彼女は、僕の存在には気づかず、クスノキの前で立ち止まった。

そして、何かを懐かしむように、その太い幹に、そっと手を触れた。

彼女の「無意識」が、この場所を、覚えているのだ。


僕は、物陰から飛び出し、彼女の前に、立ちはだかった。

「零」


彼女は、驚きと恐怖で、目を見開いた。

「あなた……! どうして、ここに……!」


「君を、助けに来た」

僕は、感情を殺し、ただ事実だけを告げた。


そして、僕は、この数か月間の実験で導き出した、最も確実かつ危険な方法で、ループを暴走させるための、引き金を引いた。


僕は、彼女の目の前で、ポケットから取り出した、カッターナイフの刃を、自分の首筋に、強く、押し当てた。


「なっ……!?」

彼女の顔から、血の気が引く。


「ループの法則、その2。お前の心身に危険が及ぶと、世界はリセットされる」

僕は、狂った科学者のように、彼女に語りかける。

「だがな、零。お前は、俺のことも、見捨てられない。俺が死ぬことも、お前の無意識は、許さない。なぜなら、俺は、お前が罪を思い出させるべき、唯一の相手だからだ!」


僕の首筋から、一筋、赤い血が、流れ落ちた。


「やめ……やめてっ!」

彼女が、絶叫する。

彼女の精神が、急激に、危険水域へと達していく。


世界が、歪み始めた。

祭囃子の音が、ぐにゃりと伸びる。提灯の光が、渦を巻く。

来た。ループの暴走だ。


「さあ、飛ぶぞ、零!」

僕は、叫んだ。

「お前が死んだ、あの夜に!」


僕たちの体を、抗いがたい力が、時空の渦の中へと、飲み込んでいく。

成功か、失敗か。

僕の意識が、ブラックアウトする直前。


僕の耳に、確かに聞こえた。

遠くなる祭囃子に混じって、けたたましい、車の、急ブレーキの音が。


時間の感覚が、ない。

光も、音も、重力さえも失われた、完全な虚無。

僕は、時空の濁流に飲み込まれながら、ただ一点、意識を集中させていた。


――成功か、失敗か。


僕の賭けは、ループの法則を逆用し、そのエネルギーを利用して、1年前の「あの瞬間」へと時間を遡行すること。もし失敗すれば、またいつもの朝の、あのベッドの上だ。だが、もし成功したなら――


不意に、全身に、強い衝撃が走った。

アスファルトに、叩きつけられるような感覚。

耳をつんざくような、金属音。

そして、僕の目の前を、猛烈なスピードで通り過ぎていく、車のヘッドライトの白い光。


僕は、咄嗟に、隣にいたはずの彼女の体を、強く突き飛ばしていた。

「危ないっ!」

僕の、声。


ドンッ、という、鈍い衝撃が、僕の左半身を襲った。

骨が砕ける、嫌な音。

僕の体は、宙を舞い、数メートル先の地面に、無様に叩きつけられた。


「きゃあああああっ!」

少女の、悲鳴。


薄れゆく意識の中、僕は見た。

僕が突き飛ばした先に、尻餅をついている、一人の少女。

彼女が着ているのは、僕の記憶の中にあった、あの、赤いワンピースだった。


間違いない。

僕は、戻ってきたのだ。

1年前の、夏祭りの夜。事故が起きる、まさにその瞬間に。


そして、僕は、未来を変えた。

車に撥ねられたのは、彼女じゃない。

僕だ。


全身を駆け巡る、焼けるような痛み。

口の中に、鉄の味が広がる。

視界が、急速に、赤く染まっていく。僕自身の、血の色で。


遠くで、人の叫び声がする。

祭囃子の音が、ぐにゃぐにゃに歪んで聞こえる。

赤いワンピースの少女が、泣き叫びながら、僕に駆け寄ってくるのが見えた。


「蒼くん! 蒼くん、しっかりして!」

彼女が、僕の名前を呼んでいる。

ああ、そうだ。この時の彼女は、僕のことを、ちゃんと覚えているんだ。


僕は、血の海の中で、笑った。

やった。

やったんだ。

僕は、彼女を、助けることができた。

僕が代わりに死ぬことで、この呪われたループは、ようやく、終わりを迎えるのだ。

これが、僕の、罪の償い。

これ以上ない、完璧なエンディングだ。


ありがとう、零。

君が、僕に、このチャンスをくれたんだ。

これで、君は、もう苦しまなくていい。

君は、僕のことなんて、すぐに忘れて、幸せな「明日」を生きていくんだ。


それで、いい。

それが、いい。


満足感と、安堵感に包まれながら、僕の意識は、ゆっくりと、深い、深い闇の中へと、沈んでいった。


さようなら、終わらない夏。

さようなら、僕の、愛した……


…………。


……………………。


…………………………?


次に僕が感じたのは、柔らかな、シーツの感触だった。

そして、僕の耳に届いたのは、規則正しい、誰かの寝息。


―――は?


僕は、ゆっくりと、目を開けた。


見慣れた、自室の天井。

僕の腕には、傷一つない。

そして、僕の腕の中で、すうすうと穏やかな寝息を立てている、白いワンピースを着た、月白零の姿。


「あ……」


声が出ない。

喉が、焼けるように痛い。


「あ、ああ……」


違う。

そんなはずはない。

僕は、死んだはずだ。

僕は、彼女を助けて、ループを終わらせたはずだ。

なのに、なぜ。

なぜ、また、この朝に、戻ってきている?


僕の脳が、理解を、拒絶する。

全身の血が、急速に冷たくなっていく。

指先から、感覚が消えていく。


まさか。

まさか、まさか、まさか。


――ループは、終わらない?


僕が、彼女の代わりに死んでも、この地獄は、終わらないというのか?

僕の自己犠牲も、罪の償いも、すべては、無意味だったというのか?


その瞬間、僕の心の中で、最後の砦となっていた、あの冷徹な理性が、木っ端微塵に、砕け散った。


声にならない、獣のような咆哮が、僕の喉から漏れ出た。

僕は、自分の髪を、めちゃくちゃに掻き毟った。爪が頭皮に食い込み、血が滲むのも構わなかった。


なんだこれは。

なんだこの仕打ちは。

神様がいるのなら、なぜ、こんなにも残酷なことをする。

僕が、何を間違えた?

彼女を助けたいと願ったことが、罪だったのか?

彼女の代わりに死のうとしたことが、間違いだったのか?


僕の絶叫に、腕の中で眠っていた零が、びくりと体を震わせた。

ゆっくりと、彼女が、目を開ける。

そして、僕の顔を見て、怯えたように、目を見開いた。


「だ、誰……?」


その言葉が、僕の狂気に、最後の油を注いだ。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

「うるさい! 黙れ! お前のせいだ! 全部、お前のせいなんだ!」


僕は、狂ったように叫びながら、部屋のものを、手当たり次第に投げつけた。

本、ランプ、目覚まし時計。

ガシャン! バリン! と、物が壊れる音が、僕の絶叫に混じる。


「お前が! お前が死んだから! お前が俺を呪うから! だから、こんなことに……!」


怯えきった零が、ベッドから転げ落ち、部屋の隅で、体を小さくして震えている。

その姿が、僕の怒りを、さらに煽った。


「なんでだよ! なんで終わらないんだよ! 俺は、お前を助けたじゃないか! なのに、なんで、また、お前はここにいるんだよ!」


僕は、泣きながら、笑っていた。

笑いながら、泣いていた。

もう、感情が、ぐちゃぐちゃだった。

喜びも、悲しみも、怒りも、絶望も、すべてが、僕という器の中で、沸騰し、蒸発し、後に何も残らない。


これが、罰。

これが、僕の、罪。

彼女を助けても、僕が死んでも、このループは終わらない。

なぜなら、このループの目的は、僕に罪を償わせることではないからだ。


このループの目的は、ただ一つ。

僕に、彼女が死んだあの夏を、永遠に、永遠に、味あわせ続けること。

それだけなのだ。


僕は、壁に、何度も、何度も、頭を打ち付けた。

ゴン、ゴン、と、鈍い音が響く。

痛みは、感じなかった。

ただ、この意識を、この記憶を、消し去ってしまいたかった。


もう、嫌だ。

もう、考えたくない。

もう、何も、感じたくない。


僕は、狂気の淵で、遠のいていく意識の中、ただ一つのことだけを、考えていた。


――どうすれば、壊れる?

――この、心を。


部屋の破壊と、自傷行為という嵐が過ぎ去った後、僕の心には、広大な焼け野原だけが残されていた。何もかもが、どうでもよかった。僕は、めちゃくちゃになった部屋を、幽鬼のような足取りで抜け出し、夜の闇へと溶けていった。


足は、僕の意志とは関係なく、勝手に動いていた。

まるで、見えない糸に引かれる操り人形のように。

どこへ向かっているのか、自分でもわからない。ただ、この身を滅ぼせる場所へ、この意識を永遠に葬れる場所へ、導かれているような気がした。


町のざわめきも、家々の明かりも、すべてが遠い。僕の世界は、僕という一点を除いて、すべてが背景になった。僕は、現実感を失ったまま、ただ、歩き続けた。


やがて、僕の足は、ある場所で、ぴたりと止まった。

夏祭りの喧騒が、嘘のように遠ざかる、静かな場所。

神社の、境内。

そして、その奥に、天を突くようにそびえ立つ、巨大なクスノキの下だった。


――事故の、現場。

――僕が、彼女を助け、そして、僕が死んだ場所。


もちろん、この「今日」という世界では、そんな事件は起きていない。アスファルトには血の染み一つなく、ただ、提灯の赤い光が、静かに地面を照らしているだけだ。

何も、ない。

僕の絶望も、苦しみも、狂気も、この世界には、何の痕跡も残していない。


その、あまりの「無」に、僕は、膝から崩れ落ちた。

声を殺し、地面に額をこすりつけ、ただ、泣いた。

涙は、もう出ないと思っていたのに。心の奥底の、最後の澱が、泥水のように溢れ出してくる。

発狂した時の激しい感情ではない。もっと、静かで、冷たく、救いようのない、魂の嗚咽だった。


どれくらいの時間、そうしていただろう。

僕の背中に、ふわりと、何かがかけられた。

驚いて顔を上げると、それは、淡い黄色のカーディガンだった。


そして、僕の隣に、静かに、誰かが腰を下ろした。

僕は、振り返らなかった。

見なくても、わかる。

月白零だ。

また、来たのか。僕の心を、弄ぶために。僕の絶望を、確かめるために。


「……もう、やめてくれ」

僕は、消え入りそうな声で、呟いた。

「頼むから、もう、僕の前から、消えてくれ……」


「……消えないよ」


返ってきたのは、僕の知らない声だった。

いや、声質は、零のものだ。だが、その響きが、まったく違う。

いつも僕が聞いてきた、あの、少しだけ他人行儀で、儚げな声ではない。

もっと、深く、穏やかで、そして、すべての真実を知っている者の、哀しい響き。


僕は、恐る恐る、隣を見た。


そこにいたのは、月白零だった。

だが、その瞳は、僕が今まで見てきた、どの彼女とも違っていた。

ガラス玉のような透明感でも、狂気に満ちた憎悪でもない。

そこにあったのは、底なしの、深い、深い、慈愛と、そして、同じくらい深い、哀しみだった。


「やっと、ここまで来たんだね。蒼くん」


彼女は、僕の名前を呼んだ。

それは、記憶のない彼女が、僕の顔を見て名前を呼ぶのとは、わけが違う。

僕の魂の、一番深い部分に、直接語りかけてくるような、響き方だった。


「……お前は、誰だ」

僕の声は、震えていた。


「私は、月白零だよ」

彼女は、静かに微笑んだ。

「そして、君が忘れてしまった、たくさんの『昨日』の、集合体」


――無意識下の彼女。

――ループの、創造主。


僕は、息を呑んだ。

目の前にいるのは、僕が解析し、攻略しようとしていた、この世界の「システム」そのものだった。


「どうして……」

僕は、尋ねた。

「どうして、こんなことを……。俺は、君を助けたはずだ。俺が、代わりに死んだはずだ。なのに、なぜ、ループは終わらない……?」


彼女は、哀しそうに、目を伏せた。

「うん。ありがとう。君は、私を助けてくれた。何度も、何度もね」


「え……?」


「君が、ループの法則に気づいてから、君は、もう何十回も、私を助けてくれたよ。車の前に飛び出して、君が身代わりになる。そのたびに、私は、君への想いと、君を失った哀しみで、この世界を、またリセットしちゃうの」


僕の頭を、ハンマーで殴られたような衝撃が襲った。

何十回も?

僕は、あの壮絶な死を、何度も、繰り返していたというのか?

そして、その記憶は、僕の中から、綺麗に消し去られていた……?


「君が私を助けるたびに、私は、君を失う絶望に耐えられなくなる。だから、無意識に、願ってしまうの。『蒼くんが、死なない世界をください』って。そうすると、ループは、また、あの朝に戻る」


「じゃあ……」僕は、絶望的な声で言った。「俺が、君を助けなければ……君が、死ねば、このループは……」


「終わるよ」

彼女は、はっきりと、しかし、ひどく悲しげに言った。

「私が、1年前の、あの瞬間に、君を庇って死ぬ。それが、このループの、本来の『正しいエンディング』だから」


なんという、矛盾。

なんという、救いのない、二者択一。

彼女を生かせば、ループは続く。

彼女を殺せば、ループは終わる。


僕が、あれほどまでに望んだ「彼女の生存」が、この地獄を、永続させる原因だったというのか。


「ごめんね」

彼女は、涙を浮かべながら、僕の手に、そっと自分の手を重ねた。

その手は、冷たくなかった。生きていた頃の、確かな温もりがあった。

「こんな世界に、君を巻き込んで、ごめんね。私は、ただ、君に思い出してほしかっただけなのに。私が、どれだけ君を好きだったか。そして、君のために死ねたことが、どれだけ、幸せだったかを」


「……幸せ?」


「うん。だって、私は、君を助けられたんだから。君は、生き残って、『明日』を生きてくれる。それが、私の、唯一の希望だった。でも、君は、事故のショックで、私のことも、この夏のことも、全部忘れちゃった。君の記憶から、私が、完全に消えてしまったことが、あまりにも哀しくて……。私の魂は、この夏に、君という杭で、縛り付けられてしまったの」


彼女は、僕の手を、優しく握りしめた。

「もう、いいよ。蒼くん。もう、たくさんだ」


「君は、十分に苦しんだ。私を助けようとして、何度も、何度も、死んでくれた。私のせいで、君の心は、もう、ぼろぼろだ。もう、終わりにしよう」


「……どうやって」


「次のループで、私が死ぬのを、ただ、見ていて」

彼女は、言った。

「何もしないで。私を、助けないで。それが、君ができる、最後の、そして、最高の、優しさだよ。そうすれば、君は、このループから解放される。そして、本当の『明日』を、生きることができる」


僕の頬を、涙が、伝った。

死んだと思っていた感情が、再び、心の底から、湧き上がってくる。

それは、哀しみだった。

彼女を、自分の手で、見殺しにしなければならないという、途方もない、哀しみ。


「できる……かな。俺に、そんなこと……」


「できるよ」

彼女は、僕の目を見て、はっきりと頷いた。

「だって、君は、私のことを、愛してくれているから。私の、最後の願いを、きっと、叶えてくれる」


彼女は、ゆっくりと立ち上がった。

その体は、徐々に透き通り、輪郭が、ぼやけていく。


「さあ、もうすぐ朝が来るよ。いつもの、あの朝が」

彼女の姿が、光の粒子となって、夜風に溶けていく。


「これが、本当に、最後のループ。約束だよ」


最後に、彼女は、僕が初めて出会った時のような、あの、砂糖菓子のように、儚い笑顔を見せた。


「ありがとう、蒼くん。私の、終わらない夏に、付き合ってくれて」


その言葉を残して、彼女の魂は、完全に、消えた。

後に残されたのは、彼女が僕の肩にかけてくれた、淡い黄色のカーディガンと、そして、僕という、空っぽの抜け殻だけだった。


僕は、そのカーディガンを、強く、強く、胸に抱きしめた。

そこにはまだ、彼女の温もりが、残っている気がした。


――最後の、ループ。

――彼女を、見殺しにする、一日。


それが、僕に与えられた、最後の試練。

そして、僕たちの、長すぎた夏の、本当の、終わりの始まりだった。


その朝は、これまで経験した、どの朝とも違っていた。

僕の腕の中で眠る零の寝顔を見ても、もう、何も感じないわけではなかった。胸の奥が、鈍く、重く、痛んだ。それは、これから僕が犯さなければならない罪の、重さだった。


――今日、彼女は死ぬ。

――そして、僕は、それを見ているだけ。


「魂の零」との約束。それが、この地獄から抜け出す、唯一の方法。

頭では、わかっている。何度も、何度も、自分に言い聞かせた。これは、彼女自身の願いなのだ、と。僕のためを思って、彼女が望んだ、最後の優しさなのだ、と。


僕は、彼女が目覚める前に、そっとベッドを抜け出した。

椅子に座り、彼女が起きるのを待つ。心臓が、まるで罪人の裁判を待つかのように、重く、不規則に脈打っている。


やがて、彼女は目を覚まし、いつものように怯え、そして部屋から出ていった。

僕は、その後ろ姿を、ただ、黙って見送ることしかできなかった。

これが、僕が今日、彼女に対してできる、唯一の関わり。

干渉しないこと。ただ、傍観者であること。


僕は、家から出なかった。

ノートを開くことも、何かを考えることもしなかった。

ただ、壁の時計の秒針が、カチ、カチ、と時を刻む音を、聞いていた。

一秒、また一秒と、彼女の「死」が、近づいてくる。


胸が、張り裂けそうだった。

本当に、これでいいのか?

彼女を見殺しにすることが、本当に、彼女のためになるのか?

たとえループから解放されたとして、彼女のいない「明日」に、一体何の意味がある?


僕の脳裏に、彼女の笑顔が、次々と浮かんでは消えていく。

ラムネの味に驚いた顔。線香花火の光に見入る横顔。僕を慰めてくれた、優しい声。そして、最後に僕に見せた、あの儚い笑顔。

そのすべてが、僕の決意を、鈍らせていく。


約束を、破ってしまいたい。

今すぐ家を飛び出して、彼女を、この町から、遠くへ連れ去ってしまいたい。

たとえ、それが、永遠に続く地獄への逆戻りだとしても。

彼女が生きていてくれるのなら、それでも、いいのではないか。


そんな葛負のまま、時間は、無情に過ぎていく。

窓の外が、茜色に染まり始めた。

夏祭りの、囃子の音が、遠くから聞こえてくる。


――タイムリミットだ。


僕は、動けなかった。

ソファに深く沈み込んだまま、金縛りにあったように、指一本、動かすことができなかった。

僕の弱さが、僕の愛が、僕の体を、この部屋に縛り付けていた。


やがて、祭囃子の音も、遠ざかっていった。

夜の静寂が、訪れる。

時計の長針が、てっぺんを指し、日付が変わる。

7月20日は、終わった。

そして、ループは、起きなかった。


「……終わった……」


僕は、呟いた。

声は、震えていた。

終わったのだ。彼女の死によって、この呪いは、解かれたのだ。

僕は、明日から、本当の「明日」を生きることができる。


なのに。

僕の心を満たしたのは、安堵感ではなかった。

後悔。

骨の髄まで凍りつかせるような、圧倒的な、後悔の念だった。


僕は、彼女の最後の願いを、踏みにじったのだ。

彼女を助けに行かなかった。彼女が死ぬのを、ただ、この安全な場所で、待っていた。

僕は、臆病者だ。卑怯者だ。

彼女の愛を利用して、自分だけが、この地獄から抜け出したのだ。


「う……ああ……」


声にならない嗚咽が、喉から漏れる。

涙が、あとからあとから、溢れ出してくる。

僕は、床に突っ伏し、子供のように泣きじゃくった。

彼女を失った哀しみと、彼女を見殺しにした罪悪感で、心が、めちゃくちゃに引き裂かれていく。


僕は、一体、何を手に入れたというのだ。

こんな、虚しいだけの「明日」に、何の意味がある。


僕は、どれくらい泣き続けていただろう。

ふと、顔を上げた時、僕の目に、あるものが飛び込んできた。

部屋の隅に、丸めて置いてあった、あの、淡い黄色のカーディガン。

「魂の零」が、僕にかけてくれた、彼女の、最後の形見。


僕は、それに、吸い寄せられるように、這っていった。

カーディガンを、強く、胸に抱きしめる。

そこには、まだ、彼女の香りが、残っている気がした。


――ダメだ。

――こんな終わり方、ダメだ。


僕の中で、何かが、決壊した。

理屈じゃない。法則でもない。

もっと、原始的な、魂の叫び。


僕は、彼女を取り戻したい。

たとえ、それが、どんな代償を払うことになっても。


僕は、カーディガンを手に、家を飛び出した。

夜の道を、全力で走る。

目指す場所は、一つしかなかった。


神社の境内。

あの、巨大なクスノキの下。


息を切らしながら、僕は、その場所にたどり着いた。

クスノキは、月明かりを浴びて、巨大な神のように、そこに鎮座していた。


僕は、その根元に、ひざまずいた。

そして、持ってきたカーディガンを、祭壇に供えるように、そっと置いた。


だが、これだけでは、足りない。

神聖な場所に、願いを届けるには、供物が必要だ。

人間の、もっと根源的な、生命に繋がるものが。


僕は、神社の近くにある、24時間営業の小さなスーパーへと、再び走った。

そこで、僕は、一番小さなパックの米と、ワンカップの日本酒を買った。

食と、酒。

それは、古来から、神々への奉納品として、捧げられてきたものだ。


クスノキの下に戻り、僕は、酒の蓋を開け、その半分を、木の根元に、ゆっくりと注いだ。

アルコールの、ツンとした匂いが、夜気の中に広がる。

そして、米のパックを開け、その白い粒を、地面に撒いた。


僕は、地面に、額をこすりつけた。

土と、草と、酒の匂いが、混じり合う。


「神様」

僕は、祈った。

相手が、このクスノキの精霊なのか、この土地の産土神うぶすながみなのか、それとも、もっと別の、名もなき超常的な存在なのか、わからなかった。

でも、この場所には、確かに、何かがいる。

僕と零の運命を、ずっと、見てきた何かが。


「お願いします。もう一度だけ、チャンスをください」

僕は、祈り続けた。

「彼女を、月白零を、助けるチャンスを、もう一度だけ……」


「俺は、臆病者でした。彼女の願いを、裏切った。自分だけが助かろうとした。でも、間違っていた。彼女のいない明日なんて、俺には、いらない」


「だから、お願いします。もう一度、あの夏に、戻してください」


「そのためなら、何でもします。どんな代償だって、払いますから」


僕は、そこで、言葉を切った。

どんな、代償を?

僕に、彼女に捧げられるものが、まだ、残っているというのか?

金も、地位も、未来も、この際、どうでもいい。

だが、そんなものでは、きっと足りない。


神が、奇跡の対価として求めるのは、もっと、根源的で、取り返しのつかないもののはずだ。


――そうだ。


僕の脳裏に、一つの、覚悟が、定まった。


「俺の、」

僕は、震える声で、言葉を紡いだ。


「俺の、彼女に関する、全ての記憶を、代償に捧げます」


「彼女と出会ったことも、一緒に過ごした時間も、彼女を愛した、この気持ちも。ループの中で、苦しんだ記憶も、何もかも。すべてを、あなたに捧げます。だから、どうか……」


「彼女が、ただ、幸せに『明日』を生きられる、そんな未来を、ください」


それは、僕という存在の、完全な消滅を意味していた。

零に関する記憶を失った僕は、もう、今の僕ではない。

それは、僕にとって、死ぬことよりも、辛いことかもしれない。

だが、もう、迷いはなかった。


僕は、祈り続けた。

返事はない。風が、クスノキの葉を、ざわざわと揺らすだけだ。


だが、僕は、信じていた。

僕の、魂を懸けた願いは、きっと、届くはずだと。


やがて、東の空が、白み始めてきた。

僕の、たった一度きりの「明日」が、始まろうとしていた。

僕は、諦めずに、ただ、ひたすらに、祈り続けた。


彼女のいない世界で、彼女の記憶を失った僕が、生きていく。

そんな未来が、本当に、僕の望みなのか?

もう、何もわからない。

ただ、今は、彼女が生きていてくれることだけを、願うことしか、できなかった。


――どうか、届いてくれ。


僕の、最後の、祈り。


僕が、どれくらいの時間、そうしていたか。

東の空が白み始め、夜と朝の境界線が曖昧になった頃。

不意に、僕の頭の中に、直接、声が響いた。


それは、男の声でも、女の声でもなかった。

老人のようでもあり、子供のようでもあった。

いくつもの声が重なり合ったような、神々しく、そしてどこか冷たい、人ならざる者の声。


『――その願い、聞き届けた』


僕は、はっと顔を上げた。

目の前には、誰もいない。ただ、朝霧に濡れたクスノキが、静かにたたずんでいるだけだ。だが、声は、確かに、僕の魂に直接語りかけてくる。


「……神様……」


『代償は、お前の「彼女に関する全ての記憶」とな。ふむ。己の存在意義そのものを賭けるか。人間にしては、見上げた覚悟よ』


声には、感情がなかった。

ただ、僕の願いを、値踏みするように、吟味している。


『だが、本当にそれでよいのか?』


神は、問う。


『お前は、その記憶を、苦しみと呼ぶ。ループの中で味わった絶望も、彼女を愛した痛みも、すべてを消し去りたいと願う。だが、それは、本当にお前にとって「不要」なものか?』


「……どういう、意味だ」


『苦しみとは、裏を返せば、それだけ深く、強く、何かを想った証ではないのか? 彼女との思い出を、美しいまま、綺麗な箱に仕舞い込みたいか? 違うだろう。お前が味わった、泥にまみれたような葛藤、胸を掻き毟るような後悔、発狂するほどの絶望。そのすべてが、お前が「月白零」という少女を、どれほど焦がれるように愛したかの、紛れもない証明ではないのか?』


神の言葉は、正論だった。

そして、それは、僕自身が、心のどこかで気づいていたことでもあった。

僕が捧げようとした「記憶」は、僕のすべてだった。苦しみも、喜びも、分かちがたく結びついた、僕という人間の、核そのものだった。それを失うことは、彼女を愛した自分自身を、否定することに他ならない。


『記憶を消し、空っぽになったお前が、彼女のいない世界で生きて、何になる。それは、彼女が最も望まない結末であろう。彼女は、お前に「生きてほしかった」のだ。お前という、人間そのものに』


「じゃあ……」僕の声は、震えていた。「じゃあ、俺はどうすれば……。俺にはもう、捧げられるものなんて……」


『いいや、ある』


神は、断言した。


『お前が、本当に彼女を救いたいのなら。捧げるべき代償は、一つだけだ』


「……なんだ」


『――その苦しみ、すべてを、永遠に忘れずに、背負い続けることだ』


僕は、息を呑んだ。


『このループの中で起きた、全ての出来事。彼女との出会い、繰り返した日々、お前が感じた絶望、そして、お前が何度も犯した過ち。その記憶のすべてを、一欠片も失うことなく、その魂に刻みつけて、これからの人生を、生きていけ』


『それが、お前の代償だ。忘れるという安寧を、お前は永遠に手にすることができない。彼女を思い出すたび、お前は、この夏の日の苦しみを、追体験することになるだろう。それでも、お前は、彼女を救いたいと願うか?』


それは、記憶を失うことよりも、ある意味では、もっと過酷な罰だった。

死ぬまで続く、終わらない贖罪。

だが、僕の心に、迷いはなかった。


「……やる」

僕は、はっきりと答えた。

「俺は、全部、背負う。彼女のことも、この地獄のことも、絶対に忘れない。だから、頼む。もう一度だけ……」


『よかろう』


神の声が、厳かに響いた。

『契約は、成立した。お前に、最後の機会を与えよう。だが、勘違いするな。私は、お前に、力を貸すわけではない。ただ、扉を開くだけだ。その先で、お前が未来を掴めるかどうかは、お前自身の、魂の強さにかかっている』


その言葉を最後に、僕の頭の中から、声は消えた。

クスノキの葉が、ざわめきを止め、世界が、しんと静まり返る。


次の瞬間、僕の体は、強い光に包まれた。

視界が、真っ白になる。

時空が、再び、歪み始める。

しかし、それは、これまでのループのような、暴力的なものではなかった。

もっと、神聖で、荘厳な、始まりの感覚。


僕は、最後の、そして、本当のチャンスを与えられたのだ。


―――


気づけば、僕は、夏祭りの、喧騒の中に立っていた。

提灯の赤い光。祭囃子の音。人々の笑い声。

間違いない。1年前の、事故が起きた、あの夜だ。


僕は、自分の体を見た。

服装も、何もかも、1年前の、あの日の僕だ。

そして、僕の頭の中には、ループの中で経験した、全ての記憶が、鮮明に、焼き付いていた。


僕は、神社の境内へと、走った。

クスノキの下。

そこには、僕を待っている少女がいた。


赤いワンピースを着た、月白零。

僕が忘れてしまっていた、本当の彼女。


僕の姿を見つけた彼女は、ぱっと顔を輝かせ、駆け寄ってきた。

「蒼くん! 遅いよ、もう!」

彼女は、楽しそうに、僕の腕を掴んだ。

その手は、温かい。生きている人間の、確かな温もりだ。


僕の胸が、愛しさと、切なさで、張り裂けそうになる。

この笑顔を、守るためなら、僕は、何だってできる。


「ごめん、待たせた?」

僕は、涙を堪えながら、微笑んだ。


「うん、待った! さ、行こうよ! 金魚すくい、まだやっているかな?」

彼女が、僕の手を引いて、歩き出そうとする。


その時だった。


「――待って」


僕の背後から、静かな、しかし、芯の通った声がした。

僕と零が振り返ると、そこに立っていたのは、白いワンピースを着た、**「魂の零」**だった。


赤いワンピースの「生前の零」は、自分の瓜二つの存在を見て、驚きに目を見開いている。

「え……? あなた、誰……?」


魂の零は、生前の自分には目もくれず、ただ、僕を、まっすぐに見つめていた。

その瞳には、深い、哀しみの色が浮かんでいる。


「……どうして、来たの」

魂の零は、問う。

「約束したじゃない。もう、終わりにするって。あなたは、私の死を、見届けてくれるんじゃなかったの?」


その言葉は、まるで、裏切られた恋人のように、僕の心を責めた。


「ごめん」僕は、言った。「でも、俺は、選んだ。お前を失う未来よりも、お前に関する全ての記憶を背負って、お前を助ける未来を」


「……馬鹿なこと」

魂の零の瞳から、一筋、涙がこぼれた。

「そんなことをしても、無駄なのに。この運命は、変えられない。私が死ぬことでしか、あなたは、救われないのに……!」


「それでも、だ!」

僕は、叫んだ。

「俺は、もう、お前を見殺しにすることも、お前を忘れることも、できない! 俺は、お前と一緒に、明日へ行く!」


僕の、魂の叫び。

その言葉に、魂の零は、哀しそうに、首を振った。

そして、彼女の姿は、すうっと、光の粒子となって、消えていった。

最後に、僕の心にだけ、彼女の、悲痛な声が響いた。

『――後悔、するよ……』


僕は、彼女が消えた空間を、ただ、見つめていた。

すると、赤いワンピースの零が、僕の袖を、心配そうに引っ張った。

「蒼くん、今の、何……? あなた、誰と話してたの……?」


僕は、彼女に向き直り、その両肩を、強く掴んだ。

「零。よく聞いてくれ。時間がない」


僕の、ただならぬ気配に、彼女は、ゴクリと喉を鳴らした。


「今から、絶対に、俺のそばを離れるな。何があっても、だ。そして、もし、車が来たら、俺が何をしても、絶対に、俺の前に出るな。いいな?」


「え、う、うん……。わかったけど……」


彼女は、戸惑いながらも、こくりと頷いた。

僕は、腕時計を見た。

時刻は、午後8時55分。

僕の記憶が正しければ、事故が起きるのは、午後9時ちょうどだった。


――タイムリミットまで、あと、5分。


いや、違う。

僕が、過去に干渉したことで、運命の歯車は、すでに、少しずつ、ズレ始めているはずだ。

事故は、もっと早く起きるかもしれないし、もっと、遅く起きるかもしれない。

あるいは、まったく、違う形で、僕たちを襲うかもしれない。


僕は、零の手を、強く、強く、握りしめた。

「行くぞ!」


僕は、走り出した。

神社の境内を抜け、表通りへ。

どこへ向かうという、あてはない。

ただ、この、死の運命が待ち構える、この場所から、一秒でも、一メートルでも、遠くへ。


彼女の手を引いて、僕は、夜の町を、全力で、疾走した。

もう、迷わない。

もう、間違えない。

僕が、この手で、未来を、掴み取ってやる。




心臓が、破裂しそうだった。

肺が、酸素を求めて悲鳴を上げている。

アスファルトを蹴る足は、鉛のように重い。

それでも、僕は走るのをやめなかった。

握りしめた彼女の手の、確かな温もりだけが、僕を前へと推し進める、唯一の燃料だった。


「蒼くん、待って! 苦しいよぉ……!」

後ろから、零の、悲鳴に近い声が聞こえる。

だが、僕は足を緩められない。

背後から、黒い影のような「運命」が、僕たちのすぐそこまで迫ってきているような、強烈なプレッシャーを感じていた。


祭りの喧騒は、もう遠い。

僕たちは、町の中心部から外れた、海へと続く、長い一本道に出ていた。

街灯もまばらな、暗い道。

左手には、黒く塗りつ潰されたような夜の海が広がり、ざあざあと、不気味な波の音が響いている。右手には、古い倉庫や、空き地が続いている。


腕時計に目をやる暇もない。

だが、感覚でわかる。

タイムリミットは、刻一刻と、近づいている。


「はぁ、はぁ……っ、もう、無理……!」

零が、ついに、その場にへたり込んだ。

僕も、彼女に引きずられるようにして、膝に手をつき、荒い息を繰り返した。

汗が、滝のように流れ落ち、目に入って、視界が滲む。


「ごめん……。もう、一歩も、動けない……」

零は、ぜえぜえと肩で息をしながら、涙目で僕を見上げた。


その時だった。


闇の向こうから、二つの、丸い光が、現れた。

そして、甲高いエンジン音と共に、その光は、猛烈なスピードで、僕たちに向かって、近づいてくる。


――来たかっ!


僕は、瞬時に、零の前に立ちはだかった。

全身の神経を、研ぎ澄ませる。

光は、一直線に、僕たちへと向かってくる。まるで、最初から、僕たちがここにいることを知っていたかのように。

それは、車ではなかった。大型の、バイクだ。


ヘッドライトの強烈な光が、僕たちの目を眩ませる。

僕は、目を細め、その光の奥を、睨みつけた。


運転しているのは、黒いヘルメットを被った、誰か。

その後ろには、もう一人。

そして、その後部座席の人物が、手に何か、鈍い光を放つものを、持っているのが見えた。


あれは――金属バット?


僕の脳が、理解するよりも早く。

バイクは、僕たちのすぐ横を、すり抜けていった。


そして、通り過ぎる、まさにその瞬間。

後部座席の人物が、手にした金属バットを、大きく、横薙ぎに、振り抜いた。


ゴッ、という、鈍い、肉を叩き潰すような音。

そして、僕の側頭部に、想像を絶する、衝撃。


世界が、スローモーションになった。

僕の体は、くの字に折れ曲がり、アスファルトの上に、叩きつけられた。

握りしめていたはずの、零の手が、僕の手から、するりと、抜け落ちていく。


「―――っ!!」


声にならない、絶叫。

痛み、という感覚は、もうなかった。

ただ、熱い。頭の中が、焼けるように、熱い。

視界が、急速に、赤と黒の、まだら模様に、なっていく。


「蒼くんっ!!」

零の、悲鳴が、遠くで聞こえる。

バイクは、一度も振り返ることなく、闇の中へと、走り去っていった。


僕は、アスファルトの上に、うつ伏せに倒れていた。

頭から、どくどくと、温かい液体が、流れ出しているのがわかる。

それが、僕自身の、血だということを、理解するのに、数秒かかった。

アスファルトの上に、僕の血で、黒く、禍々しい、水たまりが、広がっていく。


ああ、そうか。

運命は、変えられなかったのか。

事故の形態は変わっても、「僕か彼女が死ぬ」という、結末は、変えられない。

これが、神の言っていた、「後悔する」という言葉の、意味だったのか。


意識が、急速に、薄れていく。

手足の感覚が、ない。

ただ、波の音と、零の泣き声だけが、遠くで、聞こえる。


これで、終わりか。

結局、僕は、何も、変えられなかった。

僕の、長い、長い、戦いは、こんなにも、あっけなく……。


その時だった。

僕の、冷たくなっていく指先に、何かが、触れた。

温かい、小さな、感触。


零の手だった。

彼女は、僕の血だまりの中に、ひざまずき、僕の手を、震える両手で、握りしめていた。


「いや……いやだ……! 死なないで、蒼くん……!」

彼女の、熱い涙が、僕の、冷たい手の甲に、ぽたぽたと、落ちてくる。

「お願いだから……目を開けて……!」


その、温もり。

その、涙の、熱さ。


僕の、消えかけていた意識の、一番深い場所で、何かが、灯った。

小さな、小さな、種火のような、光。


――生きたい。


それは、本能だった。

理屈じゃない。

彼女の、この温もりを、失いたくない。

彼女を、この世界に、一人で、残していきたくない。


――生きたい。生きたい。生きたい。


僕は、残された、最後の力を、振り絞った。

全身の、ありったけの生命力を、右手の指先に、集中させる。

そして、彼女の、小さな手を、ほんの少しだけ、握り返した。


ぴく、と、僕の指が動いたのを、彼女は、感じ取ったようだった。

「……! 蒼くん……!」


僕は、ゆっくりと、瞼を、こじ開けた。

血で滲んだ視界の中に、涙でぐしゃぐしゃになった、彼女の顔が、映っている。

僕は、彼女に向かって、微笑もうとした。

だが、顔の筋肉が、うまく動かない。

代わりに、僕の口から、か細い、声が漏れた。


「……生き、てる……」


そうだ。

俺は、まだ、生きている。

運命は、まだ、俺を、殺しきれてはいない。


生きる力。

それは、誰かに与えられるものではない。

ましてや、神に、願うものでもない。

自分自身の、魂の、一番深い場所から、湧き上がってくる、渇望。

それが、生きる力なのだ。


僕は、この夏の、地獄のようなループの中で、何度も、何度も、死んだ。

そして、その度に、生きることを、諦めてきた。

だが、今は、違う。

僕は、初めて、心の底から、生きたいと、願っている。


彼女の、隣で。

彼女と、共に。

本当の「明日」を、この手で、掴むために。


僕の意識が、再び、遠のいていく。

だが、今度は、絶望的な闇ではない。

温かい、光に、包まれていくような、穏やかな感覚。


大丈夫だ。

俺は、まだ、死なない。

必ず、目を覚ます。

そして、今度こそ、君と、本当の夏を、始めるんだ。


零、と、心の中で、呟きながら。

僕は、深い、深い、眠りへと、落ちていった。

目が覚めた時、最初に感じたのは、消毒液の、ツンとした匂いだった。

そして、自分の左半身を包む、鈍い、しかし確かな痛み。

僕は、ゆっくりと瞼を開いた。


目に映ったのは、見慣れた自室の天井ではなかった。

真っ白な、シミ一つない、無機質な天井。

ゆっくりと首を動かすと、点滴のスタンドや、心電図のモニターが目に入った。

病院だ。僕は、生きている。


「……っ!」


体を起こそうとして、全身に激痛が走り、僕は呻き声を上げた。

特に、頭と、左腕、左足が、まるで他人の体のように、重く、自由が利かない。


「動いちゃ、ダメ」


静かな、しかし、芯のある声がした。

声の方へ視線を向けると、窓際の椅子に、彼女が座っていた。

月白零。

赤いワンピースではなく、簡素な、病院が用意したのだろうか、淡い色のブラウスとスカートを身に着けている。


彼女の顔は、僕が最後に見た時よりも、少しだけ、やつれているように見えた。だが、その瞳には、もう、あのガラス玉のような、何も映さない光はなかった。

そこにあるのは、深い安堵と、そして、僕の記憶の中にある、1年前の夏と同じ、温かい愛情の色だった。


「……零」

僕の声は、ひどく掠れていた。喉が、カラカラに乾いている。


「よかった……」

彼女の瞳から、大粒の涙が、一筋、こぼれ落ちた。

「よかった……目が覚めた……!」


彼女は、僕のベッドに駆け寄り、僕の、怪我をしていない方の右手を取った。

その手は、温かかった。

間違いなく、生きている人間の、確かな温もりだ。


「どのくらい……俺は……」


「三日間。三日間、ずっと、眠ってた」

彼女は、涙を拭いもせず、僕の手を、ぎゅっと握りしめた。

「お医者様は、もう、ダメかもしれないって……。でも、私は、信じてた。蒼くんなら、絶対に、戻ってきてくれるって」


三日間。

僕が眠っている間、ループは、起きなかった。

僕たちは、勝ったのだ。

あの、終わらない夏の呪いに。


「犯人は……」


「捕まったって、刑事さんが言ってた。最近、この辺りで、何件か起きてた、通り魔事件の犯人だったみたい。お金目的で……」

彼女の声が、震えた。

「私の持ってた、小さなバッグを、狙ったんだって。私が、抵抗しなければ……蒼くんが、私を庇ったり、しなければ……」


「違う」

僕は、彼女の言葉を、遮った。

「あれは、事故なんかじゃない。俺たちが、乗り越えなきゃいけなかった、最後の、運命だったんだ」


僕の言葉に、彼女は、きょとんとした顔をした。

彼女の中には、ループの記憶はない。

僕が、神と契約し、彼女の代わりに、その全ての記憶を、一人で背負うことを選んだのだから。

彼女にとっては、僕が、あの夜、なぜか未来を予知したかのように、必死に彼女を守ろうとして、そして、通り魔に襲われた、としか思っていないのだろう。


それで、いい。

彼女は、もう、何も知らなくていい。

苦しみも、悲しみも、罪の意識も、すべて、僕が、この魂に刻みつけて、生きていく。


「……そっか」

彼女は、僕の言葉の真意はわからなかったようだが、それでも、深く、頷いた。

「うん。運命、だったんだね」


僕たちは、しばらく、無言で、互いの顔を見つめ合った。

窓から差し込む、午後の陽光が、彼女の横顔を、優しく照らしている。

もう、彼女の魂は、常世の国との境にはいない。

彼女は、確かに、この「今」という時間に、僕と共に、存在している。


「ねえ、蒼くん」

彼女が、不意に、言った。

「目が覚めたら、絶対に、言おうって思ってたことがあるの」


「……なんだ?」


「私ね、事故の後、少しだけ、記憶が、混濁してたみたい」

彼女は、少し照れたように、視線を落とした。

「あなたのことも、この夏のことも、なんだか、夢の中の出来事みたいに、ぼんやりとしか、思い出せなくて……。でも、あなたが、こうして、私のために、命を懸けてくれたおかげで、全部、思い出したよ」


――違う。

――君は、何も、思い出してはいない。

――君は、僕が何度もやり直した夏を、ただの一度も、経験してはいないのだから。


僕は、そう言いかけて、やめた。

神が、僕の記憶を残し、彼女の記憶を、この「現実」に都合よく再構築したのだろう。

僕たちが、「明日」を生きていくために。

なんと、皮肉で、そして、優しい、奇跡だろうか。


「だから、その……」

彼女は、顔を赤らめながら、言葉を続ける。

「ありがとう。そして……私も、蒼くんのことが、好きです」


その言葉は、僕が、あの地獄のようなループの中で、喉から手が出るほど、聞きたかった言葉だった。

今、それを、こうして、現実の世界で、聞いている。

僕の瞳から、熱いものが、込み上げてきた。

それは、もう、後悔や絶望の涙ではなかった。


「……俺もだ」

僕は、ありったけの想いを込めて、言った。

「俺も、零のことが、好きだ」


僕たちは、どちらからともなく、微笑み合った。

長い、長い、トンネルを、ようやく、抜け出すことができたのだ。


数か月後。

僕は、まだ少し足を引きずりながらも、退院することができた。

そして、季節は、夏から、秋へと、移り変わっていた。


僕は、零と一緒に、あの、クスノキの下を訪れた。

落ち葉が、地面を、オレンジと黄色の絨毯のように、覆っている。

蝉の声は、もう聞こえない。代わりに、涼やかな風が、木々の葉を、さらさらと揺らしていた。


僕たちは、クスノキの根元に、二人で並んで腰を下ろした。

「なんだか、不思議な感じ」

零が、空を見上げながら、言った。

「この場所に来ると、すごく、懐かしいような、でも、少しだけ、胸が苦しくなるような……そんな気持ちになる」


「……そうか」

僕の胸にも、ループの記憶が、鮮やかに蘇る。

この場所で、彼女の魂と対話したこと。

この場所で、最後の祈りを捧げたこと。

そのすべてが、僕の魂に、深く、深く、刻まれている。


僕は、ポケットから、一本の、線香花火を取り出した。

夏に買った、最後の、一本だ。


「季節外れ、かな」

僕が苦笑すると、彼女は、首を横に振った。

「ううん。すごく、きれいだと思う」


僕は、ライターで、火をつけた。

ぱち、ぱちぱち、と、小さな火花が、秋の澄んだ空気の中に、弾ける。

オレンジ色の、儚い光。


僕たちは、言葉もなく、その光が、消えるのを、見つめていた。

やがて、最後の火花が、ぽとりと、地面に落ちた。


「……終わっちゃったね」

零が、少しだけ、寂しそうに言った。


「うん」

僕は、頷いた。

「終わったんだ。俺たちの、長すぎた夏は」


そして、僕は、彼女の方に向き直り、彼女の手を、そっと取った。

「でも、ここから、始まるんだよ。俺たちの、本当の時間が」


彼女は、僕の言葉に、こくりと頷き、最高の笑顔を見せてくれた。

僕が、命を懸けて、守りたかった、宝物のような笑顔。


僕たちは、立ち上がり、手をつないだまま、ゆっくりと、歩き出した。

夕暮れの光が、僕たちの影を、長く、長く、地面に伸ばしている。


僕の心から、あの夏の記憶が、消えることは、決してないだろう。

これから先、何度も、僕は、あの地獄のような苦しみを、思い出すに違いない。

それが、僕が支払うと決めた、代償なのだから。


だが、それでいい。

僕の隣には、彼女がいる。

彼女の温もりと、彼女の笑顔がある。


それさえあれば、僕は、どんな過去も、背負って、生きていける。

僕たちは、もう、止まった時間の中にはいない。

色褪せた「昨日」を繰り返すこともない。


僕たちの前には、どこまでも続く、「明日」という名の、新しい道が、広がっているのだから。



エピローグ


季節は巡り、何度目かの夏がやってきた。

あの、終わらない夏を乗り越えてから、僕、水野蒼は、月白零と共に、当たり前の、しかし何よりも尊い日々を過ごしている。


零は、大学を卒業し、町の小さな図書館で働き始めた。子供たちに絵本を読んで聞かせたり、古い資料を整理したりしている彼女の姿は、町の風景にすっかり溶け込んでいる。時折、彼女は「なんだか、この匂い、すごく懐かしい気がするの」と、古い本の匂いを嗅いで、遠い目をする。それが、僕たちだけの秘密の、過去の残滓なのだろう。


僕は、大学を卒業した後、この町に戻ってきた。写真の専門学校に入り直し、今は町の風景や、そこで暮らす人々を撮り続けている。僕がレンズを向けるものは、あの頃のような「退屈」なものではない。それは、零が教えてくれた、「色」に満ちた、この世界の欠片たちだ。光の当たり方一つで、表情を変える海の青。雨上がりの、濃い土の匂いがする緑。そして、何よりも、零の、絶えず変化し続ける、豊かな感情の色。


僕の腕に残る、あの夜の傷跡は、もう、ほとんど目立たなくなっている。だが、心に刻まれたループの記憶は、鮮明なまま、僕の中に生き続けている。零と初めて出会った灯台。二人でラムネを飲んだ商店街のベンチ。線香花火の儚い光。彼女が狂気に陥った夜の恐怖。そして、彼女の魂との対話。その全てが、僕という人間を形作っている、大切な一部だ。


時々、唐突に、あの夏の苦しみが、フラッシュバックのように蘇ることがある。胸が締め付けられ、息が苦しくなる。だが、そんな時、僕は必ず、隣にいる零の手を取る。彼女の、温かく、柔らかな手が、僕の心を、静かに落ち着かせてくれる。


「大丈夫?」

彼女は、何も知らないはずなのに、いつも優しく、そう尋ねる。


「ああ」

僕は、頷く。

「大丈夫。零がいるから」


彼女は、僕の過去を知らない。

僕が、どれほど彼女を失うことを恐れ、どれほど絶望し、どれほど身勝手だったかを知らない。

それでも、彼女は、僕の隣にいてくれる。

それが、僕がこのループで得た、唯一にして、最大の宝物だ。


夏祭りの夜が来ると、僕たちは二人で、あのクスノキの下を訪れる。もう、賑やかな提灯も、祭囃子もない。ただ、静かな夜の闇の中で、僕たちは、あの場所に、線香花火を灯す。


ぱち、ぱちぱち、と、小さな火花が弾ける。

その光は、もう、過去への未練や、未来への不安を象徴するものではない。

それは、僕たちが共に乗り越えた、あの夏への鎮魂歌。

そして、これから始まる、無数の「明日」への、静かな、祈りの光だ。


ラムネを飲むと、今でも少しだけ、切ない味がする。

でも、それは、もう、終わってしまった時間への哀愁ではない。

それは、積み重ねられなかった思い出たちの、かすかな名残。

そして、これから、二人で、たくさんの新しい思い出を作っていくことへの、静かな、喜びの味だ。


僕たちの夏は、一度終わった。

だが、今、僕たちは、何度でも、新しい夏を、始めていくことができる。

二人で。

共に。


この、終わらない夏を、生き抜いた二人だけの、秘密の夏を。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ