5話 救世主と厄災
「直接迎えにいけなくてごめんなさいね。」
シレーヌさんは慈愛に満ちた暖かな眼差しをかえでに向けてくる。
先ほどまで浮かべていた捕食者の瞳が嘘の様に、形を潜めていた。
「ぁ…いえ、大丈夫…です。」
まるで蛇に睨まれたカエルの様に、その場に立ち尽くしていた楓だったが、シレーヌさん本人から声をかけられた。
うまく音を紡ぐ事ができない喉から、やっとの事で小さな声を絞り出し、返答を返す。
「来てもらって早々で申し訳ないけれど…あなた、一体何故あの時間にあんな場所にいたの?」
「えっと……。」
『どうしてあんな場所にいたのか』……それは楓自身だって知りたかった。
他にも、ここは何処なのか?あなた達は誰なのか?…あの夢は何だったのか…。
一体何から聞いていけば良いのか分からないほどには、楓はこの場所の事を知らなかった。
「…わかりません…気がついたらあの場所にいて…それで…。」
「……。」
シン…と静まりかえった部屋の中に、楓の声だけが広がる。
(あの場所で…私は…)
…昨夜の記憶が蘇ってくる。
(追いかけられて、走れなくなって、その先で…。)
万が一、シレーヌさんが楓を助けてくれなければ…あの時、あの場所で死んでいただろう。
そんな最悪な未来を想像する内に、楓の顔色はだんだん悪くなっていく。
みるみる内に顔色が青白くなっていく様を見た赤いフードの女の子が、楓がいつ倒れても良い様に、すぐ近くに寄って声をかける。
「大丈夫?!」
「…ぁ。」
あの夜の事を、鮮明に思い出してしまった。
真っ暗で自分の手すら見えないと思っていたあの夜。あれはただ混乱して、目の前が見えなくなっていただけ。
(あの時見た男…あいつは…。)
あいつは『笑っていた』。あくまで笑い声は出さず、ただただ終始、楓を追いかけている最中も、その笑みを張り付けたまま…。
あれは『楽しんでいた』んだ。
死ぬか生きるか、恐怖に駆られて必死に逃げる楓の姿を見て、まるでゲームか何かで遊んでいるかの様に…。
口角を上げ、いっそ不気味なまでに清々しい笑みを浮かべたあの男…。
思い出したくもない…死にかけた出来事を思い出した途端、楓はフッと意識を落とした。
最後に楓が目にしたもの、それは…突然意識を落とした楓に呼びかけている赤いフードの少女と…『妙に落ち着いて、倒れ行く楓を見つめている』シレーヌさんだった。
ーーーーーー
ーーーーーー
ーーーーーー
「ん……あれ…ここは…確か‥。」
ようやく意識を取り戻した時、楓の視界に広がったものは…薄暗い暗闇だった。
しかし何処か、この場所には見覚えがあった。懐かしい…というより、ここ最近訪れた覚えがある様な…ないような気がする。
うーん…と頭を捻って、記憶の箱の中からこの場所の事を思い出そうと考えていると‥。
「おやおや…またやって来てしまったのかい?」
聞き覚えのある声が聞こえて来た。
鈴を転がすような澄んだ声は、楓の耳に心地よく入ってくる。
(…あぁ、あの時の夢の人。)
ようやくこの場所が何処だか、記憶の奥底から引っ張り出してこれた。
ここは、楓が気絶した…正確には気絶させられた時の夢だ。
まさかこんな短い期間に、また同じ夢を見るなんて思ってなかったが‥。
「えっと…こんにちは?」
「ふふ…こんにちは。」
穏やかに返事を返す声の持ち主の姿は、前回同様、相変わらず見えない。
しかし、想像の範疇でしかないが…多分、この人は優しい人なんじゃないか、と思った。
だって、こんなにも優しい声色の人なのだ、きっと優しいに違いない。
「本来なら生者は来れないはずなんだけれども…やはり…君は少し、普通とは違う様だね。」
声の持ち主はボソリ…と、楓に聞こえないくらい小さな声で独り言を呟く。
「ふふふ‥。」と、柔らかく…そして怪しげな笑みを浮かべる。
しかし、そんな声の持ち主の様子にも気づかず、楓は声の持ち主に疑問を投げかける。
「こ、ここは何処なの?…あなたは誰なの?」
「そう焦らずとも大丈夫。」
矢継ぎ早に質問をする楓に、声の持ち主は落ち着く様諭す。
流石に一変に質問しすぎた事に気づいた楓は、ちょっと深呼吸をした後、一番聞きたい質問を再度投げかける。
「あなたは誰?」
「ふむ…そういえば名乗っていなかったね。…ボクの名前はソフォス。今はただ、それだけ覚えておけば良いさ。」
「ソフォス……あなたは以前ここであった時、その…『アリス』だとか『騎士』だとか…私にはよく分からない質問をしていたけれど‥…。」
「あれはどういう事?」と楓が聞くよりも早く、ソフォスと名乗った声の持ち主は言葉を掛ける。
「あの質問の意図が知りたい…そうだろう?」
「えぇ…一体何が言いたかったのか、私には全く分からないの。」
思い出すはあの時ソフォスに投げかけられた質問…『君は迷い込んだ『アリス』なのか、この世界に生きる無数の『住民』なのか、それとも…『王を守る騎士』なのか』
ソフォスはあの時、私の『本質』を知りたいと言っていた。でも…
(この質問が…一体どうやって私の本質に結びつくのかしら?)
まるで心理テストでもやっているみたいな、不思議な気持ちにさらされる。
本当に…何が言いたいのやら‥。
「あぁ…困惑させてしまっていたかい?……ボクが聞きたいのはただ一つさ。」
そう言って、ソフォスは一度、言葉を紡ぐのを止めた。
そして、長い時間が経った様な感覚がした後…ソフォスはゆっくりと、音を風に載せる様に優しく呟く。
「君がこの世界における『救世主』となるのか…それとも『厄災』となるのか…それだけが知りたい。」