第三部 チェーホフの銃とトロープ
ではあるトロープを異化するにはどうすればいいのか。
自覚的な方法も無自覚的な方法もあります。
自覚的にやるには多数の作品の摂取とその分析によるトロープの自明化、自覚化が必要です。
無意識的にやるにはかなり独特な視点が必要です。
どちらも簡単なことではないですが、それをやって初めて受け手に新鮮な驚きを提供できるわけです。
ところで、チェーホフの銃という考え方があります。
>ストーリーに持ち込まれたものは、すべて後段の展開の中で使わなければならず、そうならないものはそもそも取り上げてはならないのだ(Wikipedia)
ということです。
ストーリーの中で銃が登場人物によって言及されたり取り扱われたりしたら、それは後の展開で発砲されなければ、観客は混乱してしまう、という原理に基づきます。
合理性のある考え方です。
しかしこれは無自覚なトロープの異化とは相性が悪いですね。
必然性という言葉があります。
これは創作の世界で編集者から発せられる時、このような意味で使われます。
「このキャラクターが〇〇である/ない必然性はありますか?」
あえて一般的トロープから外れる「必然性」はあるのかと問われるわけです。
トロープの異化に自覚的なら、説明できるでしょう。
しかし無自覚的なら?
なかなか難しいものがあります。
そもそも商業主義は検閲に他なりません。
「受け手に受け入れられるかどうか」を基準に表現を寄り分け、摘出除去する。
検閲以外のなんでしょう。
チェーホフの原理は好きに趣味で創作している人間を縛らずに、商業市場の中で活躍する作家をしばるわけですから、商業主義による検閲と言えるわけです。
もちろん出版社の人間は、企画として作家の作品にお金を出して流通の助けをする投資側の立場ですから、商業的要請から口を出す権利は当然あります。
しかし無自覚なトロープの異化を予め潰してしまったら、そこに新たな創作の可能性はありません。
他の検閲、ポリティカルコレクトネスについても話しましょう。
次です。