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晩夏の黎明

──これから夏が死んでゆくのだと思うと、不意に僕の心臓は、堪らないほどの寂寥(せきりょう)の感に締め付けられた。瞳に晩夏の黎明(れいめい)を焼き付けながら、そのまま手持ちの日記帳を開く。まだ何も書き込まれていないそこに、僕はシャープペンの芯を軽く乗せた。



『都会の喧噪には、ほとほと飽き果てた。そうしてコンクリートに毒された自然の表皮、継ぎ接ぎのフィルムのごとく訪れては去りゆく四季の一片──露往き霜来ると言えども、これほど雑然とした無秩序に身を置いていては、心に余裕など持てない。


──だから、存在しないあの夏に、焦がれているのだ。縁無しの紺青の空、ただ立ち昇るだけの入道雲、アスファルトに揺らぐ夏陽炎、降り注ぐような蝉時雨──その悠然さに、僕は、きっと。


そのために僕は、手を伸ばして、背伸びをしたのだ。自分の夢想する夏というものの断片に、ほんの少しだけでも触れたいから。虚像の夏を、ほんの少しだけでも鮮明に映し出したいから。これは誰のためでもなくて、僕自身のためでしかない。それならばいっそ、喧噪な都会から悠々しい田舎に逃げてみたかった。』



そこまで筆を走らせて、句点の結びから芯を離す。書き始めの文章は、一頁の半分ほどを埋めていた。残る半分は、まだ清廉無垢な面持ちをして飄々と澄ましているように見える。けれどそれも、やがて僕のエゴに侵されてしまうのだろう。頁の隅に落ちている枝葉の影はやはり、軽風に悠然と吹かれているきりだった。


──その一刹那に、紙に擦れていたシャープペンの芯の音が、裾が奏でていた衣擦れの音が、ピタリと止んだ。けれど、僕の頭の中では、まだその余韻が残っている。書き終えた句点の結びの音ですらも、何となく覚えていた。あれはエゴイズムの音がした。


そうして涼風(すずかぜ)が、その音を柔らかに描き消していく。髪の合間を、耳を、頬を、指先で撫でるようにして、また去っていく。皮膚の上をわずかに残った清涼の気は、やや傾きかけてきた落陽の熱気にさえ融和していた。それでも盛夏には及ばない。やはり、これから夏は死んでゆくのだ──涼風はその遺骸だった。


矢庭に日記帳から顔を上げる。今まで縮こまっていた僕の影法師がふっと動き出して、何かを凝視しているらしい。それは眼前に広がっている稲田だった。煌びやかな黄金で頭を垂れている稲穂が、淡みを帯びて白みがかった薄藍の空に映えている。そうして、遥か向こうの小さな鉄塔は、昊天(こうてん)を突き抜けていた。


陽線に焼けたアスファルトからは、()せ返るような埃っぽさが立ち込めている。それと綯い交ぜになって、日記帳の紙の匂いだとか、あの稲穂の匂いだとかが僕の鼻腔にまで漂流してきた。まるで──と言ってしまえばそれまでの、まさに夏らしい夏だった。



「……あっ」



アスファルトの道路を隔てた、砂利混じりの畔の脇に、曼珠沙華がたった一輪だけ咲いている。殆ど稲穂に隠れてしまっているようで、控えめとも儚げとも──どちらかといえば、すぐに手折られてしまいそうな路傍の花みたく、それでも凛としていた。だから僕はいま気付けたし、今まで気付けなかったのかもしれない。


真っ直ぐに伸びた茎の先端からは、紅の花弁が妖艶にその腕を開いている。誰かを誘い込んでいるような佇まい──それが、もしかしたら僕かもしれないような気がして、何とも言えない心地がした。また吹き抜けた涼風に(なび)いた散形花序の花弁は、どこかに哀愁と郷愁とを秘めている。それが隠し切れずに横溢(おういつ)していた。


──シャープペンを握る指に力を込める。


『僕は虚像の夏に焦がれているけれど、暮れにふらりと訪れては消えゆくあの曼珠沙華だけは、少しだけ、嫌いだ。』


ただ浮かみ現れた言葉を、そのまま書き綴ってゆく。惰性で剥き出しにしたエゴイズムが、日記帳の下半分を染めていった。また心臓が締め付けられるように痛い。とめどない哀愁と郷愁が、一挙にして僕に何かを訴えかけてくる──結びの一文でさえも。


『──曼珠沙華は、あの子の好きな花だから。』

皆様、お初にお目にかかります。『鏡鑑の夏と、曼珠沙華』の作者である水無月彩椰と申します。


本作は、田舎の郷愁と夏の哀愁をテーマに執筆致しました。その一端でも感じ取ってくだされば、作者冥利に尽きます。今後とも宜しくお願い申し上げます。


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