プロローグ
視界はほとんど白で埋めつくされていた。強い風が吹き飛ばしてくる雪片が今降っているものなのか、巻き上げられているだけなのか判別がつかない。時折目を開けていられなくなって、立ち止まらざるを得なくなる。足下を確かめようにも、やはり真っ白で段差を見極めるのも容易ではない。麓の方では道の脇にそびえる木々が風雪をある程度遮ってくれていたのだが、ここまで登ってきてしまうと辺りに生えているのは低木ばかりで、今は分厚い雪の下敷きになっている。風は容赦なく吹きつけてくるばかりか、階段状になっているはずの足下の道さえも吹き溜まった雪で見分けられなくしている。
そんな道とも呼べないような道をゆくのは、分厚い防寒着に埋もれてしまいそうな小さい影。綿入りのフードはその頭をすっぽり覆ってなお余っているようなありさまで、さぞ視界を狭めているだろうと推察される。ごついブーツに収まっている足も小さいのだろうし、こんな悪路をゆくのにはなんとも心許ない。
ふいにカラン、と音を立てたのは手元の金属でできた箱のようなもの。それは変わった形のランタンだった。ガラスの窓がついていて、中をのぞくことができる。そこには小さな蝋燭がちろちろと燃えている。しかしよくよく見ると、蝋燭は二本立てられているようだ。もう一本の方は火が消えていて、燃えている方よりもいささか太い。厳しい道をゆくその小さな影はそれを後生大事というように、時折風から守るように胸元に抱えた。そしてフードに埋もれている小さな頭を上げて、行く先を確かめた。その顔は、まだ幼さの残る少女のものだった。
少女が頭を上げて確かめたのは、道の先に待ち構えている小さな建屋だった。周りの全てがそうであるように雪の中に埋もれてしまいそうなものの、そこだけはどこか神聖な空気に包まれている。それもそのはずで、この建屋は遥か昔に建てられた祠なのだ。
この祠こそが、少女がこんな場所まで登ってきた理由。
少女はある重要な役目を果たすために、風雪舞うこの急峻な山道を必死の思いで登ってきた。それは、長く病に伏せているこの国の皇子に関わるものだ。皇子には兄弟がおらず、万が一このまま亡くなられてしまえば後継者がいなくなってしまうため、その容体は国の重大事となっている。そこで皇子の側近たちは、身辺の世話係をしていた少女をこの祠へ向かわせることにした。金属のランタンの中に、自分の命に見立てた火のついた蝋燭と、命を永らえさせたいと願う者に見立てた火の消えた蝋燭を立てて、山の上の祠を詣でる。祠の中には「命の灯」と呼ばれる、永遠に消えないとされる火が燃え続けている。その火を消えている蝋燭に分けていただくことで、その者の命を繋ぐことができる。それは古く伝わるまじないの一種だった。側近たちは少女に言う。帰り着くまで、自分の蝋燭の火を消してはならない。また自分の火を皇子の蝋燭に分けてはならない。そうしてしまうと、少女の命がついえてしまうから。必ず祠の火をこの蝋燭に分けいただいて帰って来るように。
少女は言いつけられたことを守り、ついに祠へとたどり着いた。結界を示す石の門をくぐると、祠のいかにも堅牢な扉が目の前に現れた。ずっとランタンの持ち手を握っていた右手はうまく動かせなくなっているので、左手だけで扉を開ける。分厚い手袋に阻まれながらも、取手を握って強く引く。
ギィ……という低い音を立てて扉はゆっくりと開いた。ところが。
「……なんで」
少女は思わず呟いた。そこで燃え続けているはずの火は、消えていた。
雪片を含む風は変わらず吹き続けている。防寒着でも防ぎきれない寒さで、身体の至るところがかじかんでほとんど感覚がなくなっている。既に限界に近く、ただ役目を果たす一心でここまでやってきた少女は途方に暮れた。これでは火を分けいただいて帰ることができない。
もううまく働かない頭でぼんやり考えたことは、この場でたったひとつ燃えている火のことだ。それは旅立つときから持ってきた、自分の命と見立てた蝋燭の火。
――皇子の御命は国の重大事。
――必ず祠の火をこの蝋燭に分けいただいて帰るように。
どうあがいても、祠の火を分けていただくことはできない。ならば蝋燭に火を渡せるのはこの自分の蝋燭しかない。
実ははじめからこうなるように仕組まれていたのではないか、という思いが頭を一瞬かすめたが、それについて深く考えるには疲労が勝りすぎていた。それに。
「あなた様の御命は、国の要です」
世話係として、床に伏した皇子を誰よりも側で見てきた。皇子の命を惜しむ思いは、おそらく誰よりも強い。
震える手で、少女はランタンをそっと開けた。分厚い手袋は外し、中の蝋燭を掴む。普通なら火傷で手を引っ込めてしまいそうなものだが、もはや感覚がないために躊躇はなかった。少女が気を遣ったのは、間違っても風で火が消えないようにということだけ。そして徐に消えている蝋燭に火を移した。ぼぅ、と蝋燭から小さく火があがるのを見届けて、少女はその場で力尽きた。
吹き続けている風が少女の身体の上にも雪を吹きつけ、周りの景色と同様に白く染めかえていった。