ユーグ村にてⅠ
「ユーグ、村?」
朽ちた木の板に書かれたその村の名前を読み上げた薫は、信じられないと大きく目を見開く。
嘔吐したことによって瞳に涙が滲んだが、その滲んだ視線の先にあるのは、看板に書かれた今まで見たことのない文字。見ようによっては図形のように見えなくもないそれは、不思議なことに自然とそこに書かれていることを理解することが出来た。
「ユーグ村って、えっ、なんで?」
事態が全く飲み込めず、混乱したようにグルグルと思考が巡る。
その間にも辺りに漂う異臭は薄まるどころか、僅かに腐臭も混じったものへと変わりつつある。
薫は再び込み上げてきそうになるのを必死に堪えると、ゆっくりと立ち上がってフラフラとした足取りで歩き出す。
目的があったわけではない。ただこの凄惨な状況と耐え難い臭いが立ち込めるこの場から少しでも離れたいという一心で薫は歩き続けた。
そしていつしか村から少し離れた小高い丘を見つけ、その上で薫は倒れるように大の字に寝転がった。
ここまでは異臭も届かず、その代わり周囲には生い茂る草花から放たれる青臭い匂いが漂っていた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
息も荒々しく、薫は額に浮かんだ玉のような汗を袖で拭う。袖口が顔の前を過ぎる瞬間、僅かではあるが村で嗅いだ臭いが鼻を突き、薫は表情を歪める。
「な、んで、こんな……」
乱れた呼吸は未だ整わず、その状態で声を出したせいか胸が苦しくなる。だが今の薫にそれを気にする余裕はなかった。
何か声に出しておかないと、まともに考えることも出来ず、パニックを起こしてしまいそうだった。
(部屋にいたのに。ゲームしてただけなのに。なんでユーグ村? ロスト・ファンタジア? なんで人が死んで。 そもそもあれは人? 夢? 夢ならなんで息が苦しい? 気持ち悪い。吐きたい。嫌な臭い。意味が分からない。誰か教えて。ここはどこ。なんで自分が。なんで、なんで、なんで──)
「あぁぁぁぁっ‼︎」
普段出したことのない荒々しい声を上げながら、額に当てていた手を思い切り地面に叩き付ける。予想以上に力を込めすぎたのか、叩きつけた部分の手の皮が剥けて血が滲み出てしまい、ジンジンとした痛みが走る。
しかしその痛みのおかげか、濁流のように湧き上がってきた思考が一気に霧散し、薫はふぅっと一呼吸置いて先ほどより冷静に考えることが出来るようになっていた。
「はぁ、はぁ、ふぅ……」
呼吸を整えながら起き上がる。
薫はまず、自分の置かれている状況について考えることにした。
自分がこの状況に陥る前、確実に覚えているのは自室で『L・F』をプレイしていたこと。そして『ユーグ村襲撃イベント』をプレイしている最中に寝落ちしてしまったということ。
眠る間際までやっていたゲームのことが夢に反映してしまった……つまりこれは夢である可能性もあるが、手の痛みや胸に未だ込み上げてくる不快感は、これが決して夢ではないと訴えてくる。
そうなると、一気に考えが現実離れするがもう一つ可能性がある。あの村の名前が『ユーグ村』であることから考えられるように、この世界は『L・F』の世界なのではないか、という可能性。
そう考えると、あの村の惨状にも納得がいく。あれは『ユーグ村襲撃イベント』なのだ。
「でも、まさか。そんなことあるわけ……」
しかし如何にここがゲームの世界とするのが一番辻褄が合うと言っても、薫はそれを手放しで歓迎できる余裕も、受け入れる素直さも持ち合わせてはいなかった。
ゲームの世界に入る、などといったのはアニメや漫画、小説の中だけのもの。いくらゲーマーの薫でもそこの分別はあるため、その可能性だけは到底信じることが出来ない。それにもし『L・F』の世界であれば、当然魔族や魔物といった存在もいるわけで、あの惨状を引き起こした存在がいる世界であって欲しくないという、薫の願望がその可能性を否定していた。
「アレがあれば怖くないんだけどな……」
そう言って思い浮かべるのは、『L・F』のゲームにおいて入手できる装備アイテム『覇王の黒衣』。
ゲームの中でも最高難度を誇ると言われている、『世界征服エンド』を見ることで入手できるクリア特典アイテムだ。
その効果は絶大で、グラフィック上は黒色の外套のような見た目をしたそれは、一定以下のダメージを物理・魔法関係なしに全て無効化してくれるという、序盤から終盤までまさに覇王プレイをすることが出来る、ゲーム中最強防具の一つである。
それ故に『世界征服エンド』はそれこそ何十回と周回したプレイヤーが漸くクリアできる難易度が設定されていて、薫も入手することが出来たのはごく最近のこと。
それでも『覇王の黒衣』の恩恵を受けたプレイは爽快感のあるもので、薫のお気に入りでもあった。
「覇王の黒衣さえあればなぁ……なんて」
バサッ。
何気なしに呟いた薫を、何かが覆う。
いきなり視界が黒一色となり、薫は慌てて自身に降りかかってきた物を払い除ける。
「な、なんっ、えっ?」
払われた物は、ゆっくりと薫の前に落ちる。
薫はそっと手を伸ばしてそれを持ち上げると、じっくりと確認する。
一見すると黒一色に染められた布のようなそれは、よく見ればその色の下に薄っすらと幾何学模様のような複雑な図形が幾つも描かれており、前の部分で留められるようにと留め具が付けられている。
その見た目に、薫は唖然とする。
「これ……覇王の黒衣?」
見間違えるはずもない。
画面越しに食い入るように見ていた『L・F』最強装備が、薫の手の中で確かな存在感を放っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
丘の上で、薫は腕を組んで考えていた。
そんな薫の前には多くのアイテムが散乱していた。赤い液体の入った小瓶、青い液体の入った小瓶、金貨、虹色に輝く鉱石、古びた本。それに派手に装飾のされた幅広の剣や先端に宝石のような輝く石が付けられた杖、穂先が炎のように揺らめいた形状をしている槍、淡く輝く鎧といった武器や防具までもが無造作に散乱している。
そのどれもが、薫にとっては見覚えのある物たちであった。
「『傾国の狐面』」
薫がそう呟いて目の前へ手を伸ばす。
するとまるで空間が裂けたかのように薫の手がその中に消える。そしてすぐに引き抜いた薫の手には、狐のお面が握られていた。
『傾国の狐面』はその名のとおり狐を模したお面であるが『L・F』におけるクリア特典アイテムの一つであり、その効果は『殆どの状態異常無効』にするというもの。それが今は薫の手に収まっていた。
悟ったような表情を浮かべた薫は、その視線を目の前の散乱しているアイテム達に向ける。
『傾国の狐面』だけではない。
薫の前に散乱しているアイテム達は全て『L・F』において薫が入手していたアイテム達だ。『上級回復ポーション』『上級魔力回復ポーション』『ユグドラシル金貨』『聖剣エクスカリバー』……そのどれもが薫が『L・F』のグラフィックで見てきたままの姿をしていた。
『覇王の黒衣』が薫の前に現れてから、薫は様々なことを試した。
そして分かったことは『L・F』で実際に自分が入手したアイテムを思い浮かべることで手元に呼び出すことが出来ることだった。
薫が入手していないアイテムは、例えそのアイテムの名前を知っていたとしても現れることはなく、また一つしか持っていないものを更に呼び出そうとしても現れない。完全に薫がプレイしている『L・F』の状態に準拠しているのだ。
それはつまり、この世界が薫のプレイしている『L・F』と同じ世界である可能性が非常に高いことを意味していた。
まだ『L・Fのアイテムを使える薫が別の世界に来た』という可能性もないわけではないが、『ユーグ村襲撃イベント』というゲームとの共通点もあることから、前者の方が可能性が高いのは間違いなかった。
薫はジャージの上から『覇王の黒衣』を纏い、『傾国の狐面』を被る。
手持ちのアイテムの中でも特に防御に秀でたその二つを身に付けた薫は、黒尽くめにマスク装備という、傍から見れば完全に不審者の出で立ちをしていたが、今はそのことを指摘する者は誰もいない。
薫は散乱しているアイテムの中から先端に宝石の付いた杖、『聖樹の杖』だけを持つと残りのアイテムは消えるように念じる。
すると散乱していたアイテムが一瞬で消滅する。
「……認める、しかないか」
どこか諦めたように呟いた薫は大きな溜め息を吐く。
最初のように混乱から取り乱しかけたりすることはなかったが、それでも大声で叫んで自身の現状を嘆きたい気持ちはある。
だけどそれをしないのは、やったところで事態が変わることがないということを理解したからにならない。
「『下位回復』」
手に持つ『聖樹の杖』を僅かに掲げ、先程叩きつけて血が出た手に向けて『L・F』の回復魔法を唱えてみる。一瞬、薫の身体が淡い光に包まれたかと思うと、手の傷は跡もなく消えて無くなっていた。
「ははっ。やっぱり普通に魔法が使えるや」
理屈は分からない。魔法の理論だとか法則なんかがあるのかもしれないが、それらを全く理解することなく、まるで呼吸をするかのように当然に魔法を使うことが出来る自分に、薫はもう乾いた笑いを浮かべることしか出来なかった。
だが、魔法が使えることが分かったことで、薫の中に僅かではあるが余裕が生まれたのも事実だった。
──キャアァァァァッ‼︎
「なにっ⁉︎」
突如村の方から聞こえてきた悲鳴に、薫はバッと立ち上がる。
今度は意識して村の方へ聞き耳を立てていると、またしても女性の悲鳴が響く。今度はそれに加え、男性の声も聞こえてくる。
(まさか生き残りがいた……?)
ゲームでは主人公が村に戻ってきてから物語が始まるので、その頃には村に生き残りはいない。しかし薫がいるこの世界はゲームではなく、紛れもない現実。
村に襲撃を逃れた生き残りがいる可能性もゼロではない。
「くそっ‼︎」
駆け出す薫。
狐面に隠されていたが、その表情には先ほど村で見せたような怯えはなかった。




