廃棄物(後編)
憎しみしか、彼女にはなかった。
いや、きっとそうじゃない。
彼女は零ではなく憎しみや怒りがある。
だからきっと、彼女には何かがあった。
全てがあったはずなのだ。
これまで生きて来たその意味が、過程と結果が。
だけど、奪われた。
記憶という名の『全て』を奪われた彼女にとってこの世界は、ただただ苦痛なだけの物だった。
幸せも不幸も、達成も挫折も、過程も結果も全て奪われた。
彼女は今抱えている己の感情が何かさえ判別がついていない。
この胸から沸き上がる感情がポジティブな物なのかネガティブな物なのか、それさえも判別がつかない。
大本を失ったから、感情は理解出来ず、感情の行き場もまたどこにもない。
故に彼女には奪われたという事実に対しての復讐心しか存在せず、そしてそれ故に――。
「単純なのよ! あんたの怒りは!」
ナルアは叫び、カウンターをその憎悪に染まる顔面に叩き込んだ。
ナルアはずっと『ひねくれやさぐれめんどくさドラゴンっ子』と付き合い続けて来たのだ。
この程度の怒りを元とする攻撃など予測に容易い。
そもそもの話だが、元々ドラゴンの動きそのものが単調なのに怒りで更に単調になって、その上で人生経験が薄い。
そんな相手の攻撃ならば、ナルアはタイミングなどコンマ単位で合わせられる。
問題は、完璧に合わせたカウンターであっても御しきれないという事。
ドラゴンとはそういう存在であるからだ。
一方的有利でかつ完璧に相手の力を受け流したカンター。
それにも関わらず、殴った腕がぽっきり折れてボロボロである。
そのその痛みを隠しながら修復し、ナルアは笑ってみせた。
それはただの見栄。
だが、それを見栄であると見抜けない程度には、記憶を持たない彼女は浅かった。
一瞬、ほんの一瞬だが、彼女はたじろぎ攻撃の手を緩めてしまった。
あれだけ殴っても壊れていない。
完璧に反撃さえしてきた。
もしかして、自分の攻撃は効いていないんじゃないだろうか。
その不安を、一瞬でも彼女は抱えてしまった。
真っ当な経験のあるドラゴンだったらそんな悩みは持たない。
自分の攻撃に自信を持つのは当然の事であり、またドラゴンの攻撃は概念的な攻撃でもある為無傷で済ませる事など出来る訳がないからだ。
実際ナルアもただのやせ我慢であり、肉体修復の魔力ももう底に等しい。
だけど、彼女はその『真っ当』を知らない。
彼女にとって今この状況は、これまで経験した事のない『未知』であった。
未知が故に立ち止まる事は当然であるだろう。
そしてその当然は、ナルアが策により招き寄せた当然である。
この唯一のチャンスを生み出す為に。
彼女が気を抜いたその一瞬。
その一瞬のうちにナルアは彼女の傍まで移動して、そんなナルアを彼女は追い払う様に慌てて殴り飛ばした。
ナルアは避けもしない。
いや、避ける余裕さえなかった。
わかりやすいテレフォンパンチがナルアの肩に直撃し、砕く感触を彼女の腕に伝えながら、ナルアはゴミ屑の様に地面に転がっていく。
今までで一番気の抜いたパンチだったのに、これまでで最も手応えのある一撃だった。
「……あれ?」
拍子抜けしながら、自分の腕を見る。
なんだ、やっぱり効いていたんじゃないか。
効かなかったかもという不安は解消され、己の力に自信をとりもどした彼女はナルアにトドメを刺さんと近づこうとする。
だが、足が動かなかった。
捕まれているかの様に足はその場を離れず、動く代わりに鋭く小さな痛みが走った。
静かに、自分の足元を見る。
緑色の蔦の様な物が両足に絡みついていた。
そしてそのすぐ傍には、咲き誇る一凛の真っ赤な薔薇。
足に絡みつくそれは『茨』だった。
絡みつく茨を強引に千切ろうと足を動かした瞬間、反抗するかの様に薔薇の足元から無数の茨が襲い掛かって来た。
「なっ!?」
茨は触手の様に彼女の四肢に絡みつき、拘束しながら体を空へと持ち上げる。
それでも尚茨の増殖する速度は落ちる事がなく、そのまま勢いよく上空に持ち上げられていった。
もしも一般的なドラゴンだったら、薔薇を見た瞬間に全力で攻撃し粉砕するか、全力でその場から離脱しただろう。
吸血鬼を相手にして訳わからない現象が起きた場合は厄介な血液魔法を使われた可能性が高いからだ。
だから、それを彼女の敗北というのは少々哀れに思える。
記憶がないという背後事情をナルアが読み切ったが故の、ナルアの作戦勝ちと呼ぶべきだ。
とは言え、これはまだ勝利ではない。
勝利ではないのだが……ナルアが一仕事達成した事だけは、間違いのな事実であった。
赤い血の翼を生やし、ナルアは空を舞い彼女を追いかける。
奇しくも、最初と状況が逆転していた。
掴まれ吹き飛ばされるという状況が。
そうして彼女を黒壁に叩きつけ、彼女が怒りのまま茨を破ろうとしたその瞬間……。
「排除! 急いで!」
ナルアは慌て叫ぶ。
それと同時に、彼女を背にする黒壁が、彼女事ぽいっと外界に押し出された。
一凛の薔薇を主軸とするその魔法はナルアの一族代々継承されてきた魔法である。
だけど、この魔法を彼女の一族は好まない。
何なら次代には引きつかずナルアの代で最後にする予定でさえある。
それが生み出された理由は、偉大なるピュアブラッドに薔薇を愛する者がいたから。
元々赤い薔薇は吸血魔法と限りなく相性が良い為、非常に使い勝手が良く便利な魔法となった。
それが好まれない理由は、偉大なるピュアブラッドは真に薔薇を愛するから。
赤い薔薇は愛でる物であり、血塗られる物ではない。
そう、彼の偉大なるピュアブラッドは敵の血で穢れた己の庭園を見ながら、自嘲気味に呟いた。
それ以来、この魔法は生み出された事さえ恥ずべきものという共通認識をナルアの一族は持った。
つまるところ、使う事そのものが一族の恥。
それを使わざるを得ない程に、ナルアは追い込まれていた。
とは言え……これで成った。
追い込まれても、限界でも、ナルアは己の己の役目を全うとした。
黒壁が閉じ直す前に共に外に出て、ナルアはそのまま腰を抜かすかの様に地面に座り込んだ。
優雅さの欠片も残っていない状態だが、不思議と満足感があった。
もはや立ち上がる余力さえなく、そして相手は無傷ですぐ傍にいる。
だけど、ナルアは何も怖くなかった。
ナルアは笑った。
笑って、ただ一言呟いた。
「仕事の時間よ、フィナ」
ずっと、ずっと見ていた。
ずっと待っていた。
ナルアがボロボロになるのを拳を握りしめながら、ずっと我慢して、割れんばかりの勢いで歯を食いしばって……。
そしてその我慢は解き放たれる。
黒壁の天井からフィナはまっすぐ落下し、そしてそのまま拳を敵に叩き込んだ。
フィナの降り注ぐ拳に迎撃する彼女の拳が激突し、衝撃波が生み出され大地が砕け握りこぶし大の石が周囲に無数に吹き飛んだ。
互いに精々五割程度。
それでもこの影響である。
だから、フィナを戦わせる為には外に出す必要があった。
対単体戦力最高峰のフィナを戦える状況にする事が、ナルアのお仕事だった。
一端彼女から離れたフィナにナルアは声をかけた。
「良く我慢したわね。偉いわよ、フィナ」
「うん! ナルアの事信じてるから!」
「それもそれで良くないけど……まあ良いわ。前よりはまだマシな顔つきしてるから。……五分よ。それまで粘れるわね?」
「うん!」
「良し、あんたを見せつけてあげなさい」
「はい!」
元気で明るく真っすぐに。
それは昔のフィナよりも気持ちの良い返事だった。
拳と拳、爪と爪、龍と龍。
それは極めて原始的で、だけど最も純粋な力の勝負だった。
だからこそ、その差は如実に現われる。
彼女にとってはそれは間違いなく初めての経験だった。
自分よりも純粋なパワーを持つ相手というのは。
フィリーナ・アースグラン。
世界で最も傲慢で、そしてそれを許すしかない種族、ドラゴン。
その頂点である五龍に少女はかつて名を連ねていた。
己が相応しくないとその名を返上したが、実力は変わっていない。
彼女は今も五龍に匹敵するだけの実力を持っている。
特に、純粋たる腕力という意味で言えば彼女は現五龍を越えている。
そんなフィナを相手にしているから、彼女は困惑する。
間違いなく、初めての経験だった。
自分よりも力の強い相手と戦い、そしてそれなのに自分の方が強いという状況が。
力が強ければ最強であると考えていた彼女にとって未知でかつ理解出来ない現象だった。
ぶつかりあう拳と拳。
互いを傷つけあう爪。
一歩も引かない戦いとも喧嘩とも違うドラゴン同士特有のノーガードの一騎打ち。
そうして徐々にフィナの方が負傷していくその状況に彼女は困惑するが、フィナとナルアは納得しかない。
別に特別な事はない。
単純に、彼女の方が強いからだ。
フィナは腕力こそ最強でそれ故に五龍になったが、腕力以外は特に秀でていない。
総合力で劣れば敗北するのは必然であった。
彼女に名前はない。
彼女に記憶はない。
逆に言えば、記憶や名を失っても尚それだけの力を持っているという事。
そうなると、彼女の正体も自然と判明するはずなのだが……わかる訳がない。
彼女は、アリスの玩具でしかないのだから。
何かの役割の為に造られた訳でも、実験の為に生み出された訳でもない。
居る事その物に理由がなく居たからついでに利用するか程度位の価値しかない。
そんな彼女の真実をアリス以外が知る事は不可能に近いと言えるだろう。
「殺すんだ。勝つんだ。そうでないと……そうでないと私は……」
「そうでないと、どうなるの?」
殺し合いをしているとはとても思えない顔で、フィナは尋ねた。
――こういう時、何も考えてないお子様は強いわね
情報を得る為一言一句必死に考えていたナルアはそっと苦笑した。
「……取り戻すのよ。奪われた過去を」
「だったらどうしてそんな顔してるの? そんな辛そうな顔を」
「……意味がないからよ。……それでも、私にはそれしかないの。それしか……それしか!」
叫び、ふりかざすその右拳をフィナは受け止める。
彼女は直後に反対の左腕を振るう。
彼女の左腕は巨大で雄々しい龍の物となっていた。
部分変化。
それを予測出来る訳がない。
なにしろ彼女本人さえ予測出来なかった事なのだから。
魔力が低下したが故に表に出た本質であるが故に本人も予測しておらず、それ故にフィナにも対策する時間さえなかった。
鋭き爪はフィナの右腕にまっすぐ振り下ろされる。
確実に、右腕は奪われるだろう。
だが逆に言えば狙いのついていないそれは右腕しか奪わない。
そうして悩んで、フィナは右腕を庇い、命の危機でもある急所の背中でその爪を受けた。
「フィナ!?」
想定していない動きにナルアは叫び声をあげる。
そりゃあそうだ。
自分の命を捨てようとするなんてナルアは予想さえしていなかった。
今フィナが生きているのも本当に、単なる偶然の産物でしかない。
それでもフィナは、右腕を残したかった。
両腕を残す事は役目を果たすのにとてもとても重要な事であった。
「へへ……五分、粘ったよ?」
背中はボロボロで、痛みで脂汗が酷く顔が歪んでいて、それでもフィナは笑ってナルアにそう伝えた。
「……帰ったら思いっ切り説教するからね! 覚悟しなさい!」
本気で、本気で怒りながら、ナルアは五分魔力をかけ続けたそれをフィナの方に射出した。
それは言葉にするのはとても困難な、そんな不思議な形状をしていた。
長さはおよそ三メートルとかなり大きく、反面平たい形状をしている。
半月状に近い形で、材質は石のみ。
酷く不格好で、不細工な鼠色の何か。
そんな見た目だから、それが『剣』であると理解出来る物はそういないだろう。
石だけで構築された無骨すぎるそれは、石器時代とか原始時代とかそういう言葉さえ彷彿とさせる。
ただ、それしかなかったのだ。
フィナがまとも振れる武器が。
「……何で石?」
彼女は当たり前の疑問を尋ねた。
それが剣である事は認識出来ていないが、持ち手のある近接武器である事は理解出来た。
であるならば、鉄でない事は当然の疑問だろう。
「ん? これしかないのよ。軽すぎて」
フィナは当然の様に質問に答えた。
フィナはドラゴンとしての誇りを失った。
そんな彼女でも、これは数少ない誇りを持てる要素であったからだ。
だからフィナは、これに関してだけは決して偽りを述べない。
「チョウジュウセキ? とかそんな名前だったかな」
ナルアに任せきりだからそれはフィナも良くわかっていない。
フィナがわかっている事は、これが鉄よりも遥かに重たいという事だけである。
ここでドラゴンの生態について振り返ってみよう。
ドラゴンというのは己の誇りを武器とし戦う。
肉体そのものがデザイアに等しく完成されており、本能レベルで闘争を望む為種族全体が生まれついての戦いの天才であるとも言える。
実際、生まれた瞬間に赤子の龍同士で殺し合いをしたというのは時折ある話で、しかもそれは龍にとってはほんわかエピソードとして語り継がれたりする。
生まれ持っての天賦の才。
その反面、ドラゴンは戦いに関しては学びが少ない。
闘争の為に技術を身に着けるという発想さえ持たない。
戦闘技術という物は、特に代々受け継ぎし剣術や魔法の類はドラゴンにとっては自分達を倒す為に磨き上げてくれた弱者の牙である。
倒される事を夢見る事はあれど自分がそれを使うという発想は基本ない。
ではもし……もしもドラゴンである事の誇りを全て捨て、何かの戦闘技術を極めんとするドラゴンが出たとしよう。
答えはどうなるかと言えば――弱体化するだけである。
龍にとって誇りとはそのまま強さであるからだ。
そしてその代わりに技術を得ようとしても、龍は戦闘技術を容易く身に着ける事が出来ない。
極まった種族であるが故に、他種族以上に技術を学ぶ事が苦手であるからだ。
要するに、存在が強大過ぎる故に龍は『不器用』なのだ。
だから、更にもう一つの『もし』が必要となる。
もしも……龍さえも学べる程入門が容易い戦闘技術があれば、一体どうなるか。
答えが、これ。
師はパルスピカ。
覚えた技はただ一つ。
流派は――剣聖一刀流、その始まりの剣。
フィナは自分の体よりも遥かに大きな剣を振り上げ、まっすぐ、両手で振り下ろした。
それは酷く不器用で不格好で、お世辞にも完成度が高いとは言えない。
だが、それでもその一撃は間違いなく、剣技であった。
こん棒の様に扱っている訳でもなければ見様見真似の偽物でもない。
世界最強の力を持つフィナによる、斬る為の本当の剣技。
パルスピカが伝えた父の剣を、自分にとって最も振りやすい形、つまり基礎の斬撃をフィナは納めていた。
<世界最強の力><初歩中の初歩の剣><超重力による高圧縮巨石剣>
合わせ、乗算されるその威力は大地さえも砕いた。
ありがとうございました。




