綺麗な終わりを迎える為に
己の為すべき事は、総て終わった。
ラグナは日に日にその実感を強めていた。
マリアベル唯一の欠点であった兵器の、それも兵器として合理的かつ残虐な……所謂嫌われている物。
誰かが手を汚さなければ作れない、そんな血塗られた歴史の一ページ。
その一旦を己が担えたというだけで、皇帝クロスの経歴を汚さず己が手を汚せた事を、ラグナは誇りに思っていた。
人間の世界を統一した事よりも、よほど……。
彼の人生はクロスへの恩返しの為にあり、それ以外の事に彼は興味がなかった。
何故そこまで……と他者は思うだろう。
だが、むしろラグナとしては逆である。
彼が自分を目覚めさせてくれたのだから、彼の為に生きるのは当然の事であった。
ネフィリンという名前であった頃、幼少期の記憶。
その中に、少年を見ている者はいなかった。
親しい物は皆、彼ではなく背負うべき国を見た。
親しき者な滅んだ国を復興させる柱として、敵対国家は滅ぼすべき亡国の忘れ形見として。
母親でさえ、親子の愛ではなく栄光の国家復権という夢を息子に押し付けた。
唯一の母親の最後の教育によって、怯える事しか出来ない子供が誕生した。
独りの人間が、それも幼子が抱えられる様な物ではない重たい荷物を背負って、必死に隠しながら生きるだけの、哀れな生贄が。
だから……だからこそ、ラグナはネフィリン時代のクロスとの想い出は、どれも大切な物だった。
悔しい想いをしたし、ムカつくとも思った。
だけどそれでも、クロスだけはネフィリンをずっと見ていてくれた。
複雑な事情があると予想が付きながらも、ただの子供として愛してくれた。
つまり……ラグナが本当の意味で愛された初めての記憶が、クロスとの想い出であった。
それだけではない。
それだけではない宝物も、沢山もらった。
そう長く一緒に居た訳じゃないのに、沢山沢山……。
例えば……ラグナはかつてクロスに泣かされた記憶がある。
それこそが、ラグナにとって原初の思い出。
過ちを正してもらった尊き消える事なき記憶だった。
ネフィリンはただの子供ではあったが、無能ではなかった。
いやむしろその逆で、あまりにも有能で会った位だ。
具体的に言えば、過去に孤児院を追い出された事がある。
あまりにも有能過ぎて、子供も大人も彼を人間扱いしなかったからだ。
それはまだ、彼が単なる子供でいられた可能性があった時。
誰にも王子であるとバレてはならないと怯えながらでも、それでもまだ人の善意を信じていた。
孤児として、単なる子供として少年はそこにいた。
最初の孤児院にて彼は、院に寄贈されている総ての書物、およそ三百冊を一月程で読み上げ理解してしまった。
大半は幼稚な絵本だった。
そこまでは、大人は微笑ましい物を見ていた。
幼いなりに読み書きが理解出来て、この子はとても頭が良い子だと。
若干難しい小説になった辺りで大人達が小さな疑問を覚え、子供達は尊敬のまなざしを向けた。
そうして、読みだした本が外国の学術書であった時に……彼を見る目は、人ではなく魔物を見るそれとなっていた。
しかもそれは、わざわざ貴族が孤児を馬鹿にする為に寄贈した、絶対に理解出来ないはずの物だった。
疑惑が疑惑を生み、大人が異物として見た時……子供達はどれほど残酷に成れるか。
ルールである大人が排除を許容した時、善悪知らぬ子供はどれほど容易く手を悪に染められるか。
恐怖による暴力の果てに追い出された彼は、二度と同じ事をしなかった。
人は未知なる者に怯えると理解したからだ。
だけど……少年の内心はそこで決まってしまった。
『人間は皆、自分よりも愚かなんだ。僕は自分が思うよりも特別だったんだ』
こうして少年ネフィリンは、常に人を見下す様になってしまいました。
背負っている荷物によって生まれた、己が特別であるという選民思想が成長した結果とも言えるだろう。
そしてそれを、少年は悪い事と考えなかった。
悪い事だと思う程、彼は大人ではなかった。
自分は特別なのだから、見下すのは当然であるとまで思っていた。
そして、その気持ちを見抜かれる事も少なくなかった。
まあ、そりゃあそうだろう。
子供の侮辱的な眼差しなんてのは、大人からしたらこれほどわかりやすい物はない。
ネフィリンはそれを隠そうともしなかったのだから尚の事である。
『どうせこいつらも無駄な説教をするんだ』
『お前が悪いお前が悪いと排除するだろう』
『ああ、馬鹿しかいなくて辛い』
『どうしてこいつらこんな事も出来ないのか』
『何故無能程怒鳴るのだろうかね』
そう、それが当たり前の事だった。
何度も何度も孤児院を追い出されて、住み込みの仕事も追い出されて、色々な場所を転々として……。
でも、それは自分が悪いからではない。
人と自分が違うというのは、ネフィリンにとって、単なる常識で――。
ある日、その事で同い年位の子供と喧嘩した事があった。
見下す目が気に入らないとか言って、殴られた。
相手を悪者にする為に、ネフィリンはわざと殴り返さず、それどころか強く痛がるフリをした。
そして、それを目撃したクロスは――。
『てめぇらに違いなんざねぇよ。ガキとガキが粋がってる時点でどっちも単なるガキじゃねぇか』
そう言って被害者も加害者も馬鹿にして、彼は笑った。
どっちも馬鹿だと決めつけて、馬鹿にするような笑みを浮かべて、わざと子供達を怒らせて。
……そしてそんな不機嫌なんて同じ気持ちを共有した二人を街に引き連れて、こっそりとお菓子を買ってくれた。
独りでも物足りない様な小さなお菓子を。
だけど、孤児院ではとても食べられない少しだけ贅沢なお菓子を。
『ほれ、分け合え』
その言葉を聞いて、ネフィリンは菓子を見る。
切れ目は二つ入っていて、半分こには出来そうにない。
だから三つのうち一つだけを取って、二つを子供に渡した。
自分の方が出来るから、こいつに譲ってやろうと考えて。
そうして渡したお菓子を子供は驚いた眼で見た後……ぐっと我慢した顔で、半分に折って、残った一つをこっちに返してきた。
『殴った俺の方が悪かったから』
少年の行動にネフィリンは驚いた後、首を横に振る。
受け取れなかった。
何故かわからないけど、受け取ったら負けな気がしたからだ。
素直に謝られた事が何故かとても痛かった。
殴られた事よりも何倍も。
ネフィリンに断れた後その後少年は……本当に悔しそうに、残った一つをクロスに渡した。
どうしてそうしたのか、クロスは少年に尋ねた。
そして、少年は答えた。
『だって俺達、同じだから。同じじゃないと不公平じゃん』
その言葉を聞いて、ネフィリンは何故か涙が零れた。
馬鹿に一緒と言われて……それだけの事なのに、何故か泣く事を我慢出来なかった。
何てことはない。
この中で誰よりも馬鹿だったのは、自分だった。
クロスはわざと馬鹿をやってそれを教えようとした。
子供は己が馬鹿であるとわかった上で、悔しい気持ちを抱えながら我慢して、正しい事を言って謝罪した。
馬鹿な自分を、子供は受け入れられた。
受け入れられなかったのは、ネフィリンだけ。
己は、最初から最後まで、ただ見下していただけだった。
ただマウントを取って、孤独を慰めていただけであって……本当は、特別になんてなりたくなかった。
特別だなんて、思いたくなくて……本当は……。
子供の想いがつまった、小さなお菓子の一切れ。
平等の為に二人の子供が我慢した尊きそれを、雑にさっさと口に入れた後……。
『ふははははは! お前らガキと違う所を見せてやるよ。これが大人の力だ!』
そう言って、クロスは大量の同じ菓子を二人の子供にバラまいた。
平等とかそういう物がどうでも良くなる位に、大量に……。
頭が良いから、わかってしまうのだ。
クロスは最初からこうするつもりだったって。
自分達だけじゃなくて、孤児院の子供全員分になる様に。
ネフィリンが遠慮して二つ子供に渡して、それを子供が受け取らなくて、そしてクロスに一つを渡すところまで、全部想定内。
子供に菓子を渡された時悔しかったあの気持ち。
負けた様な気がしたあの気持ち。
それは特別な物じゃなくて、横の子供も同じ気持ちだった。
だから、隣の子供と、自分は同じだったのだ。
自分は、特別じゃなかった。
『どうして全部同じ奴なんだよ……』
泣きながらお菓子を食べながら、ネフィリンは呟く。
それは単なる悔し紛れの言葉で、本当はただただ、嬉しかった。
自分をただの子供扱いしてくれる事が、隣の子と同じだって言ってくれた事が。
だけど、恥ずかしくて言えなかった。
『そりゃ悪かったなクソガキ。だったら明日は全員に違う菓子振舞ってやんよ。だから今日の事は俺達だけの内緒な』
そう言って笑うクロスの顔。
あれこそがラグナにとっての原風景で、救世主の顔であった。
だから、もう良かった。
あの思い出の恩を返せたから、もう、どうでも。
現在バッカニアは戦時中であり資源に余裕はない。
そして優先度合いは兵器のみであるラグナより万能のマリアベルの方にある。
特に、マリアベルが現在とんでもない発明をしているなんて噂がある以上そのリソースは全てそちらに回すべきだ。
幸いな事に、ラグナ側の兵器開発は一区切りついた状態でもあった。
だからラグナは、最期にするべき事を実行しに来ていた。
己の死に場所を探すという、最期の御恩奉仕の為に。
わりかしどうでも良い戦線の一つ、そこにいるラグナ達の元に、多数の天使が接近していた。
はっきり言えば、戦略的価値は薄い。
ここを抜かれたところでバッカニアに被害は出ないだろう。
だが、ここを死守すればバッカニアに十数時間の猶予が生まれる。
大した事の出来る時間ではないが、酷使されている一流戦力群に若干の休憩時間を与える程度は出来るだろう。
であるならば……十分だった。
王位を託し、銃器技術を捧げ、出がらしになった。
そんな出がらしの老体を捧げた結果ちょっとした休憩時間が得られるのなら、もう十分だった。
「お前達は……」
ラグナは直属の部下の方を見る。
彼らは十分に働いてくれた。
自分と違ってここで使い捨てるにはまだ惜しい。
彼らはまだ若く、未来がある。
だというのに、彼らもまた命を捨てるつもりであった。
もったいないとは思うが……言っても無駄な事だとラグナは理解出来ている。
ラグナを見る彼らの目は、ラグナがクロスを見るそれと同じだからだ。
夢を見せてしまったのだ。
であるなら……言うべき事は『帰れ』ではない。
「貴様らの命、私が貰い受ける。共に逝こうではないか!」
それこそが、最高の鼓舞。
最高の名誉。
故に、死地に赴くであろうのに歓喜の喝采が轟く。
その為だけに、彼らは生きて来たのだか――。
「盛り上がってるところ悪いけど、私ヒロイックなのって嫌いなの」
そんな声が、空から聞こえる。
彼女の事を知らない者はいない。
『メディール』
皇帝の嫁の一人、魔導深淵の潜り手、少年の性癖歪め女……。
ふわふわした布製の黒い服の下のグラマラスなボディによって何人の男の子が見えないエロスに惑わされたのかわからない位である。
しかも、本人にその自覚はなく、子供好きだから尚質が悪い。
彼女がここに居る訳がない人材である。
ラグナは独断専行でここに来ている為知っている者はおらず、メディールは現在別の戦場にて戦っているはずだからだ。
とは言え……わかっている事はある。
遠くから、大量の天使がこちらに来ている。
どうでも良い場所だから、彼らにとってはお菓子程度の気持ちで占拠に来たのだろう。
本来ならあれだけの天使を相手にすれば、相打ちとなる可能性は限りなく高い。
そう、本来なら……。
恐れる気持ちなど、この場の誰も微塵も持っていない。
戦場とは思えない程に、皆気が抜けていた。
死に場所を失ったと、誰もが理解している。
あの天使の大軍なんかよりも、メディールの方がよほど恐ろしい存在だからだ。
正直、これからの事を考えたら天使に同情さえ覚える。
「やれやれ。また死にぞこなってしまいました」
「あらそう。そりゃ残念ね。まあ、そういう事ならもうしばらく馬車馬の様に働いて頂戴。私の愛しいあの人の為に」
「仰せのままに――感謝します」
「ふん。いらないわよそんなの。……あの人に憧れたお前は戦場で死ぬな。どうせ短い余生だろう。あの人に笑顔を向けながら逝け」
そう、ぶっきらぼうに呟く。
正直に言えば、ここで自分達が犠牲になる方が、バッカニアの状況的には都合が良い。
自分達の命よりも、メディールの疲労回復の方が今や価値は高いのだから。
それでも助けに来たのだから、何とも優しい人である。
あの方の嫁に相応しいと感じる位に……。
「命令変更です。申し訳ないですがもうしばらく、私に従ってお仕事をして下さい。私があの故郷で生を全うとするまで、貴方達は私の部下です」
部下達にそう言って柔和な笑みを浮かべ、彼は剣を抜いた。
ありがとうございました。




