メディール(前編)
無気力症候群の様な激しい虚脱感に苛まれながら、クロスは目を覚ます。
彼が最初に見た物は、こちらを心配そうに見つめるメリーとステラの姿。
そのお陰だろう。
少しだけ、元気が出た様な気がした。
「おはよう」
空元気を振り絞り、軽く微笑みクロスはそう声をかける。
彼女達は二人共苦笑する様な笑顔を浮かべた。
「おはようクロス。もうお昼だけどね」
ステラの言葉にクロスは窓から外に目を向けた。
「確かに太陽さんは大分高いねぇ。というかここどこ?」
「リブロの城下町だよ」
「また随分変な所で……いや、そうじゃない。変な所じゃないと駄目な理由があって……それ以前に俺が思う以上に状況が……。……一体何があった? メディは?」
嫌な予感に襲われながら、クロスは必死に思考を張り巡らせながら尋ねる。
メリーとステラは困った顔で見合い、そして……。
「説明の前に、付いて来て。実際に見た方が早い。ああ、でもその前に一つだけ、良い?」
メリーはクロスにそう尋ねた。
「何?」
「クロスが倒れてから、今日で丁度一月だよ。気絶した程度だと思ってるだろうから、先にそれだけは言っとくね」
そう言葉にしてから、メリーはステラと共に部屋の外に出て行った。
違和感の正体とけだるさのその理由が、何となくクロスは分かった様な気がした。
それはすぐ隣の部屋だった。
そこには、確かにメディールがにいた。
ただし――宙に浮かぶ緑色の球体の中に入った状態で。
そこにメディールがいる。
そのはずなのに、メディールの存在を視界以外に感じる事が出来なかった。
部屋の中で、ソフィアが、じっと彼女を見つめ続けている。
虚無と落胆が籠った瞳を向け、まるで祈るかの様に。
「……一体、何が……」
その様子を見て、クロスは何も理解出来ない。
ただ一つわかる事は、想像以上に厄介な事が起きているという事だけだった。
「封印……ですよ」
ソフィアはメディールから目を離さず、そう呟いた。
「封印ってのは一体……」
「その理由はクロスさんも良くわかっているのでは?」
「いや……あれはただの暴走で。だから何も――」
ソフィアはクロスの方に目を向け、じっと、見つめて来た。
「本当に、そう思いますか?」
「それは……」
「メディールさんの様子は、本当に、暴走の様でしたか?」
問い詰める様なソフィアの声に、クロスは何の反論も出来なかった。
あれは、違う。
そうじゃない。
あの時のメディールの様子は暴走とかそういう物ではなく、もっと根本的な物で……あれこそがメディールの本性の様で……。
「メディールさんは、自分で自分を封印しました。その真実に気づいて――」
「真実って一体……」
「……私が話しても宜しいですか?」
ソフィアの言葉にステラとメリーは頷いた。
「私が話そうかと思ったけど、たぶんあんたの方が当事者に近いから良いんじゃない」
メリーの言葉にソフィアは頷いた。
「ありがとうございます。そうですね……どこから話しましょうか……」
ソフィアは過去を振り返るかのように、そっと目を閉じ息を吸った。
ソフィアはずっと、メディールからそれを奪い続けていた。
感情の様でもあるが感情とは異なり、なくなっても気づいてさえいなかった。
魔力や気力といったエネルギーの様に力とする事は出来なくとも、それ自体に何等かの力を持っていた。
人には本来ある物に近く、だけど人が持っていない物。
それが何となるのか、簒奪を続けているソフィアでさえ理解していない。
言葉にするなら、『劣情』というのが近いだろう。
常人なら百回は発狂する程鮮烈で、それでいて純粋。
それが真っ当な物ではないと知り、そしてそれをメディールは抱える事が出来ない。
だから、ソフィアはメディールからそれを奪い続けた。
メディールが真っ当に生きる事が出来る様にする為に。
そして同時に、ソフィアは普通の人では発狂するようなその感情に心地よさを覚えていた。
人という物全てに価値を感じなくなる程壊れていたソフィアの心は、それによって支えられていた。
では、その劣情と称する感情の正体は一体何だったのか。
この人では絶対に持て余すこれは一体どういう意図があり生まれたのか。
答えはそう難しい事ではなかった。
メディールは生まれてからすぐとある儀式の生贄にされた。
その儀式がどういう物なのか、一体何があったのか今では知る術はない。
なにせ儀式に関わったメディールの親族はもう誰も生き残っていないのだから。
彼らは魔導を志し、魔導に目覚め、魔導に堕ちた。
人としての感性を全て捨て、彼らは深淵を見つめ続けた。
そんな彼らだからこそ、そんな狂った発想となったのだろう。
生贄とする為だけに赤子を作る、生贄とするのに適した赤子を生み出すなんて発想は。
そうしてメディールは生まれてすぐ儀式の生贄とされた。
だがその儀式は彼らにとっては最悪な形で失敗した。
彼らの想定と異なり、生贄のメディールだけが生き残り、それ以外の皆が代わりに死んだ。
直接儀式に関わっていない者も含め、全員。
赤子一人を生かす為の犠牲として、一族そのものが代償と化した。
その上でメディールもまた無事とはいかず、呪われその肉体は変質した。
故に、彼女の幼少時は悲惨極まりない物であった。
変質して人ではなくなり、家族もいない。
そんな彼女を助けようと思う者は誰もいなかった。
彼女は化物だった。
だけど、悲しい事に、心だけは人間のままであった。
そんなメディールの受けた原初の呪い。
その正体こそが、今回の騒動のきっかけである。
人でも魔物でもない姿に変えられたメディールは、一体何になり果てていたのか。
結論で言えば――淫魔。
メディールの肉体は、サキュバスのそれと同じ性質を帯びている。
それも、今を生きる紛い物であるサキュバスではなく、遠い昔に魔王国を滅亡間近にまで追い込み、それ故に根絶された、原初の種族である本物の方の。
「遥か昔、サキュバスという種族は魔王国を簒奪し暴虐の限りを尽くしました。だから、サキュバスという種族はそれ以外全ての魔物によって絶滅させられました。ですが……殺せなかったんです」
「殺せない?」
「はい。ドラゴンは別ですが、それ以外の強大な種族という物は、生死感さえおかしくなります。極端に死に辛くなるんです。何体かのサキュバスも吸い殺し過ぎた故にその様になって……だから――封印するしかありませんでした」
「それが、一体何の関係が……」
「端的に申しますと……メディールさんの家族が行った儀式は、封印されたサキュバスがいるあちら側への扉の様な物だったのでしょう。そしてその扉の先に生贄として送られたメディールさんは……」
ファミリーネームも失った為、呪われたと考えていた。
だけど、そうじゃない。
呪われたのは家族の方で、メディールのそれは決して呪いではない。
それは……ただの変質化。
メディールは人という脆弱な身で、そのゲートの向こう側の影響を強く受けてしまい……変わり果てた。
そして、そのソフィアとメディール自身の無意識が抑え込んでいた物は、クロスがメディールの壁を打ち壊してしまった為に、崩壊し流れ出した。
「……じゃあ、俺の所為で……」
クロスの言葉にソフィアは首を横に振った。
「いいえ。元々時間の問題でした。ただそれがあまり好ましくないタイミングで起きたというだけで……」
そう、状況は最悪だった。
クロスが昏睡して一月。
一か月もアリスに猶予を与えてしまった。
その間に状況は動き、魔王国対連合国の戦火も広がりつつある。
その上で、最大範囲であり対魔法使いの要であるメディールの自主封印。
状況は徐々に、だけど確実に最悪に近づきつつあった。
「どうすれば良い?」
クロスは誰にでもなく、そう呟く。
尋ねるというよりは、自分に言い聞かせる様に。
「どうしたいのか教えて下さい。クロスさん自身が、どうしたいのかを……」
ソフィアの言葉は突き放す様に冷たい。
だけど、そうじゃないという事はわかっている。
それは、クロスなら正しい答えが導きだせるという、そんな期待の言葉であった。
クロスは天井を見て、一息。
そして、まるで母親の胎内かの様に球体の中に丸丸メディールを見る。
答えなんて、最初から決まっていた。
「俺の優先順位は、いつだって皆だ。メディを起こす。多少のリスクは無視しても」
そうクロスは言葉にする。
やるべき事が幾つもある中、クロスはそう決断する。
その瞬間、クロスは見逃さなかった。
ソフィアがほっとしたのか小さく安堵の息を吐く、その瞬間を――。
微睡みの中、彼女はいた。
汚泥の様な劣情とかきむしる様な性衝動が籠った空間の中に。
そんな空間が、心地よいと感じてしまっていた。
ついに、メディールは知ってしまった。
自分の起源を、自分の中身を。
見て見ぬふりをしていた、己の浅ましさを。
この場所は本来、常人ならば誰も来る事が来れない。
外宇宙よりも完全に遮断された空間、要するにここは小さな別の世界である。
ではどうしてメディールがそんな場所に入れたのか、封印状態に成れたのかと言えば……ここに親がいるからに他ならない。
メディールを生贄に捧げた愚かな親ではなく、種族的な親。
つまり、サキュバスとしてのメディールの祖となる存在を、ここは閉じ込めていた。
置いて来た肉体と同様に、メディールは微笑み微睡みの中に沈んでいた。
肉体と精神を切り離し、自らを封印状態とし祖の元に向かった彼女の精神は、肉体と同じ様に、母体に包まれた赤子の様に。
メディールは自らを封印状態とし精神をこちらに送り込んだ。
封印状態となる祖の元にその繋がりを利用し空間に潜り込んだ。
どうしてかと言われたら……逃げ場が、欲しかったからだ。
クロスに自分の本性を見られた。
知られた。
浅ましい女と思われた。
それだけじゃなく、その浅ましさと下劣さでクロスを殺しかけた。
乙女である彼女にとってそれは、その自己嫌悪は、生きる理由を殺すのに十分だった。
死にたかった。
逃げたかった。
クロスにこんな自分を見られたくなかった。
そんな気持ちで、彼女はより汚染され生きている事の出来ないサキュバスが封印された空間の中に自らを封じた。
確かに、メディールの目論見通り、その中に居ればどんな生物だって生きている事が出来ない。
数万という歳月によりその封印空間はサキュバスの影響が色濃く出ている。
一瞬出て来ただけでクロスを吸い殺しかけたメディールの何億倍も濃い濃度で凝縮されている。
男であれば一瞬で衰弱死し、女であっても数時間も持たず発狂し吸い殺される。
サキュバスであるメディールでさえも、この中での長期滞在は叶わないだろう。
そんな場所にいるはずなのに……メディールは、安らかな笑顔で微睡み眠っていた。
赤い半透明の球体の中で丸まって、幸せそうに。
その様子を、彼女は見つめていた。
微笑む様に、慈しむ様に、護ろうとする様に……。
その顔はまるで我が子に向ける物の様だった。
ありがとうございました。




