インタールード:聖剣泥棒と紛い物の聖女(後編)
少女は、走った。
少年のおかげで体力が回復していて、水分も補給出来、気力の漲ったおかげで走れていた。
上手く演技出来ていただろうか。
疲労も気持ちも限界で今にも押しつぶされそうで……何にでも縋りたいという気持ちを上手く隠せただろうか。
そんな事を思いながら、少女は走る。
楽しかった。
初めて、同い年の子と何のしがらみもなく話せた。
偽りしかない演技をしながらであったが、それでも、心の底から楽しいと思えた。
罵倒された。
悪い事を言えば、叱られる。
その当たり前を経験出来なかった少女は、少年の罵倒、悪口が宝物になった。
生まれて初めて、自分をちゃんと見て叱ってくれた。
それは、少女の人生において最大の幸福だった。
少女は走っていた。
何かに追いかけられるのを知りながら。
一体何においかけられているのか。
少女は考える。
まず、一番嬉しいケース。
先ほど会った少年が自分に劣情をぶつけ犯そうと追って来ている。
そうだったら、本当に嬉しい。
恩に報いる方法を持たない少女にとって、少年が僅かでも満足してくれるのなら自分の貞操などどうでも良いとさえ考えていた。
だが、その可能性は悲しい程に低い。
なにせ、追い掛ける足音は子供の物ではなく、そもそも一人の足音でもないのだから。
続いてのマシなケース。
盗賊が追いかけて来る場合。
女性としての尊厳を全て奪われ、奴隷として売られるという物。
まあ、これは悲劇ではあるが、大した事はない。
少女一人、自身の不幸で完結する話なのだから。
もしそうだと確定したら、少女は足を止めても良い。
その不幸で人生を終わらせても、納得出来る。
だが――。
「プロジェクトネームイエセラル補足! どうしますか!?」
そんな声がすぐ後ろから聞こえ、そのマシな可能性さえ消え最悪なケースだけが残った。
教会の追手が追いかけて来ているという最悪のケースが。
死ぬのは良い。
酷い目に合うのも我慢する。
だけど……不幸が連鎖するのだけは嫌だった。
自分の所為で見知らぬ大勢の誰かが不幸になる事。
それだけは、避けたい。
だから、少女は走った。
無駄だとわかっていても、それでも、必死に足掻いていた。
仮初で偽物であっても、少女は――□□として生み出されたのだから――。
だけど、今まで運動さえ碌にした事がない籠の鳥であった少女が大勢の大人から逃げる事など出来る訳がなく……。
走っていた少女は腕を引っ張られて引き留められる。
腕に、強い痛みを覚えた。
「い、痛っ!」
「見つけましたよ。イエセラル様。散々手間をかけさせましたね」
少女は必死に腕を引っ張り、逃げようとする。
そんな少女に怒りを覚え、男は少女の頬を思いっきり殴りつけた。
平手や手加減ではなく、物に当るかのように拳で。
ごっと、鈍い音が響き、強い痛みと恐怖で少女は動けなくなる。
「……ちっ。うぜぇな。……あいつらはお楽しみ目当てだったらしいがこんなガキじゃ……まあ良い。あいつらにゃ死体でもやらせたら満足するだろう」
そう言葉にし、男は、少女の首を掴み上げた。
片手なのに、万力かの様な力が少女の首襲い掛かる。
それは息を止めるのではなく、首をへし折るつもりだと少女でさえ理解出来た。
逃げないと――。
そう、頭では少女はわかっている。
自分の死体が一体どんな悪事に使われるかわからないが、多くの犠牲者が出る事はわかっている。
だから、逃げないといけない。
その為に、教会の地下から逃げてきたのだから。
だから逃げないといけないのに……体が動かない。
物理的にも、精神的にも。
少女には、支えるべき精神の支柱と言われる物はない。
ここに来るまでのとうの昔に、心は折れていた。
だから、この終わりはもう決まった事であって……。
「必殺聖剣アタック!」
そんな叫び声と共に、男の脳天に鞘in聖剣が叩きつけられる。
勇者以外では使えないただの鉄の塊。
だが、ただの鈍器ではあっても金属製の模様やら細工からで意外と痛かったらしく、男は少女から手を放し頭を抑えだした。
何がどうなっているのか、現状が理解出来ず茫然とする少女。
そんな少女の手を、少年は握った。
さきほどと違い、優しく、慈しむ様に握られた手を、少女は暖かいと感じた。
「走れ!」
少女は、言われるがままに走った。
心は折れ、疲労も溜まっているのに、何故か、その足が軽く感じた。
背後の気配は十人程。
それも強い殺意を持って。
しっかりと訓練された殺し屋らしき男達。
彼らから疲れは残り、足もつれる少女の手を引き少年が逃げる事など不可能である。
そのはずなのに、アルムは彼らに追いつかれず走れていた。
木々の隙間を抜け、草木生い茂る森の中を上手く逃げられていた。
少年だけなら、まあそれが出来る可能性はある。
未熟とは言え少年は盗賊を自称する程度には能力があるから。
だが、少女は違う。
何一つ訓練をしていないただの少女が、長期間足場の悪い森の中を走り続ける事など出来る訳がない。
そのはずなのに……男達は少年少女にまだ追いつけない。
セラフィムは静かに、少女、セラの様子を探った。
不思議な事に、セラが足を踏み下ろすとその一瞬だけ、草木や根が避け走りやすい足場へとなっている。
当然、セラが何か能力を使った様子はない。
まるで、草木がセラを助けようとしているかの様だった。
その少女、セラから漏れ出るその白き力はセラフィムにとって非常になじみ深い物であった。
――あー、何と言うか……過去の経験から事情が予想出来るなぁ……。
人間の、いや教会の愚かさを思い浮かべながらセラフィムはそんな事を考える。
かつて、セラフィムが経験したそれ。
人工聖女、人造聖女と呼ばれる類。
長い歴史の中で教会はそんな愚かな事に手を染めた事は一度や二度ではなかった。
おそらくだが、今回のこの子もそれに相当する何かだろうとセラフィムは当たりを付けた。
「逃げて……下さい! ……私を、置いて……」
セラは切れ苦しそうな息の中そう叫んだ。
ただ、巻き込みたくないが為に。
自分にとって唯一幸福な想い出である少年の無事を願って。
「もう手遅れだし、逃げる位なら最初から手を出さねーよ馬鹿。いや馬鹿は俺か」
そんな軽口を混ぜながら、アルムはセラの手を引いた。
その手は、そう大きくない。
だけど、セラにとってその手は世界で一番大きい手だった。。
唯一、無償で差し出された手が小さい訳がなかった。
アルムは走った。
セラの手を引き、必死に、必死に走った。
本当に、必死であった。
どこを走っているのかさえ忘れる程に。
だからこそ、それが明暗の差を分けた。
アルムの足が自然と止まる。
目の前に広がる崖の所為で、止まる事しか出来なかった。
サモリア二子山の方に、まっすぐ走ってしまっていた。
その間に崖がある事を、アルムは知っていたはずなのに。
アルムはセラの手を引き、方角を変え走ろうとする。
だが、その先から別の男が姿を見せる。
アルムに対し、下卑た笑みを向けながら。
反対方向にも、既に追手が来ていて、そして追い掛けていた折っても追いつく、三方を塞がれる。
気づけば、アルムとセラは背後の崖以外完全に道を塞がれていた。
「こ……この人は関係ないんです! この人だけは逃がして下さい!」
男達に囲まれて、セラが最初に放った言葉がそれ。
セラは、アルムの事を最優先に考えた。
それは決して罪悪感からというだけではなく、自分の為でもある。
だが……。
「目撃者は皆消す決まりとなっていますので無理です。イエセラル様、貴方の所為でこいつは死ぬ……いいえ、死ぬよりも辛い目に合うんですよ」
そう男は言った後、周囲の男にこう告げた。
「ターゲットは殺しても良いが出来るだけ綺麗な状態にしろ。再利用出来るらしいからな。代わりに巻き込まれの方は好きにしろ。犯そうと殺そうとどう楽しもうとどうでも良い」
その言葉の直後、アルムに様々な感情がぶつけられる。
その感情は、概ね劣情と呼ばれる物だった。
「この中には色々な人がいるんですよ。少年を汚す事が大好きな奴とか、肉を切り刻む事に絶頂を覚える奴とか。まあ、何をするにしても出来るだけ死なない様にしてくれると思いますよ? その方が楽しいらしいですから」
男は淡々と、事実だけを口にする。
その方が、少年が苦しみ、恐れ、少女が後悔するとわかるから。
わざわざ少女一人を追いかける事になったその集団のリーダーの、ちょっとした嫌がらせと仕返しである。
セラの目は、恐怖一色に染まっていた。
全てが裏目。
逃げた事も、アルムも巻き込んだ事も、このまま殺されてしまう事も。
そうさせない為だったのに、全てが裏目に出ていた。
このまま、全てを、世界を恨んでしまいたい。
だが、それが出来る程少女の心は強くなく、ただ、怯えて震える事しか出来なかった。
そんなセラの手を、アルムは握った。
「大丈夫」
何も大丈夫ではない。
だが、それでも、アルムはそう言葉にし、まっすぐ前を男達を見ている。
怯えも竦みもせず、力強い瞳のまま。
アルム、一切諦めていなかった。
『――あーあー本当。しょうがないなぁ。まあ、百分の一程度はその心を認めてあげましょうかねぇ』
「……え? 女の人の声? え? どこから……」
セラは小声で聞こえる女性の声に驚ききょろきょろと周囲を見る。
だが、女性らしき姿はどこにもなかった。
『そっちの子も、まあ……仮初の力だけど、まあ百歩譲って認めてあげてもいいですかねぇ。……んじゃまあ、二人合わせたら百分の一人前程度には扱ってあげましょう。さあセラ嬢。そっちの子と一緒に、私を持ちなさい』
「……え? どういう事です? へ? え?」
混乱しおろおろするセラ。
その様子をセラフィムの声が聞こえない周囲の男達は気でも狂ったかと首を傾げ怪しんで見た。
「セラ。手を貸して」
そう言って、アルムはセラと共に剣を握った。
一つの剣を、二人で持つ。
それは、酷く不格好な様子だった。
「なんだあの剣。やけに綺麗な……儀礼剣? 魔法能力持ちか?」
少しだけ緊張した様子で、男は部下達に注意する様ハンドサインを送る。
彼らは子供相手に愉しむ外道ではあるが、子供相手でも油断はしない位のプロであった。
『しょうがない。本当にしょうがない緊急処置ですからね。全くもう……さあ。願いなさい。その願いが正しい物なら、私が力を貸す事も吝かじゃあありませんから』
どこか楽しげにセラフィムはそう告げる。
その言葉に従い、二人は、強く願った。
心の底から、ただ一つだけを。
『セラを助けたい』
『アルムの無事を』
心の願いは、決して偽れない。
どれほど醜かろうと、どれほど酷かろうと、それがそのまま事実となる。
その心の底からの願いが……自分ではなく相手を助ける事。
しかも、何故かわからないが二人でお互いを思いやるという状況。
今日初めて会ったというにもかかわらず。
『ああ。全く――。愚かとしか言えません。全くもって本当、なんて馬鹿なんでしょうね……。こんなんだから……だから人間は大好きなんですよ本当! 擬似契約開始! 両名合わさった場合に限りマスター代理とし権限を限定付与! さあマスター代理。狙いは定めてあげます。術式も私が使います。その敵意を……いえ、心からの願い、その気持ちをぶつけてあげなさい!』
セラフィムの言葉に合わせ、アルムとセラは吼えた。
ただ、相手の幸せだけを願って。
聖剣は強く輝き、無数の光の矢が放たれる。
矢と言っても恐ろしく大きく、巨大なバリスタの様な矢。
その矢は男達に当ると男達の体を貫通せずに押す様な形となり、宙に浮かし、背中に木を叩きつける。
そしてさらに矢は形状を変え、気絶し意識なき男達を木にぐるぐるにしばりつける。
男達に絡みつく白い光のロープは、そのまま植物の蔓へ姿を変え男達は皆それぞれ木の中に埋まる様な形となっていた。
わずか一瞬。
それだけで、全部が、終わっていた。
「……殺した、のか?」
アルムの質問にセラフィムは否定した。
『まさか。殺すべく時に殺す必要はあるでしょう。でも、今はその時じゃあありません。無意味な殺生はしませんよ』
アルムとセラの美しい決意を汚す事を、セラフィムがする訳がなかった。
「そう……か。ありがとう。聖剣様」
『ええ、ええ。存分に褒め称えて下さいよ。相当無茶したんですから』
そう、セラフィムは言葉にする。
実際、セラフィムは相当以上の無茶をした。
ただの子供で、しかも二人一組を代理とは言え勇者に指定する。
それは聖剣としての自己否定に繋がり、己の存在意義を根本から崩す事に近い。
セラフィムの選択は決して少なくない消滅の可能性を含んでいた。
それでも今消えていないのは、セラフィムの強い意思の力。
美しい物を守りたいと願うセラフィムの心の力、ただそれだけが誰も消えず不幸に立ち向かえた理由だった。
セラは茫然としながら、ぺたりと地面に座り込む。
緊張が解けたのと、訳がわからなすぎて腰が抜けていた。
「……もう、訳がわかりません。でも、たぶん、助かったんですよね?」
そう言って、セラはアルムを見上げた。
「――おう。この場はまあ、助かったと思って良いだろうな」
「そう、ですか。……本当に、ありがとうございます」
「良いさ。それに、まだ終わりじゃない」
そう言葉にし、アルムは手を差しだした。
「終わりじゃ、ないですか?」
「おう。まあ一連托生って言うか……ほら、あれだ。セラが本当の意味で安全になるまで助けるよ。まあうっとおしいかもしれないけどさ」
「うっとおしい訳……ありません」
そう言って、セラはその手をそっと握る。
セラにとってその手は、誰よりも頼りになる手だった。
「でも……これ以上迷惑をかけるのは、辛いです。私、何も返せません……」
「良いさ。返せなくても。いや、全部終わったら、笑ってくれないか?」
「笑って、ですか?」
「おう! 心の底から笑顔になって、一言ありがとうって言ってくれ。それだけで十分、十分……俺は頑張る気になるからさ」
「……ふふ。なんですかそれは。もう……」
冗談だと思い、セラはくすりと微笑む。
まさかそれが、アルムの本当の本心だと思う訳がない。
そんなセラの笑顔を見て、アルムも微笑んだ。
「……にしても、そっちの方が自然だな」
セラを立たせながらアルムはそう言葉にした。
「そっちの方、とは?」
「話し方や態度」
「あれは……巻き込んだら悪いと思って……出来るだけ悪い人を演じようと……」
アルムは茫然とした表情をセラに向けた。
「――え? あれ、悪い人のフリだったの?」
「はい。嫌な人になって、出来るだけ距離を置こうと。あの時は大変失礼しました。酷い事を沢山言って……」
そう真顔で謝り頭を下げるセラ。
それがあまりにも予想外で、あまりにも面白くて……アルムは、腹の底から大きな笑い声を出した。
「……え? 私何か変な事言いました?」
そう呟き、おろおろしながら首を傾げるセラ。
そんな二人の様子を、空気を読んでセラフィムは黙り見守った。
これから二人には大変な試練が襲い掛かる。
それはもうどうしようもない事である。
だからこそ、今この時位は平穏を――。
セラから事情も聴かず、自己紹介もせず、セラフィムはこの今を懐かしむ様な気持ちで、静かに二人が静かになるその時を待っていた。
ありがとうございました。
幕間終わり、次の更新から本編に戻ります。




