最後の希望8
ふわりふわりと、クロスは自分が浮いているのを知覚する。
暖かい液体に包まれて、心地よさを感じ続ける。
苦しくもなく、ただ幸せだけが揺蕩う世界。
それはまるで、母の胎内の様で。
そんな安らぎしかない世界で、ぱちりとした刺激が急に送り込まれる。
何もしたくない、ただこの中に居続けたいと思うクロスに対し、送り込まれる刺激は……希望。
貴方が必要ですという、声だった。
自分を必要とする強い意思。
弟子だと名乗る少年の声に引っ張られ、クロスは揺蕩う世界から目覚めた。
気付いたら、クロスは何故かテーブルに着いていた。
花園の中にあるテラスにある、白いテーブルと椅子。
自分にはあまりに不釣り合いだなと思いながら、クロスは対面を見る。
そこには、女性が優雅に座っていた。
紫がかった白い髪をした、ロングヘア―の女性。
見覚えがある様な、見覚えがない様な。
そんな彼女は美しい所作で紅茶を口に含み、カップをソーサーに置いて、微笑みかけた。
「おはようございます」
「あ、お、おはよう」
クロスは慌て、そう返事をする。
その様子を、女性は楽しそうに見つめた。
クロスは、自他共に認める女性好きである。
可愛い子を見ると口説きたくなるし、笑って欲しくなる。
何なら一緒にデートをして、その後のお楽しみも期待する。
とても賢者という言葉が似あう様な、立派な人物ではなく、ただの軟派男である。
そのはずなのに……何故か、クロスはその女性には、全く性的興奮を覚えなかった。
間違いなく、美しい。
高嶺の花と言っても良いだろう。
だが、高嶺の花程度でクロスが興味を失うはずがない。
クロスが諦めた女性なんてのは、クロスの知る限りで最も良い女である、メディール、メリー、ソフィアの三人位だ。
その絶世の美女であるはずの正面の女性を見ても一切ドキドキせず、むしろ安らぎを覚えていた。
「……まだ、寝ぼけている様ですわね」
そう言って、女性は揶揄う様に笑った。
居心地悪そうに、クロスは後頭部を掻く。
その仕草を見て、女性はまた笑った。
「……まあ、もう少し仕返しをしたいところですが……一つ目の鍵が頑張ったんですから、二つ目の私も少しは気合を入れないと……」
「鍵? 一体何の話だ? そもそも、君は一体誰だ?」
「まあ、話すのは簡単です。ただ、話すだけでは足りません。寝坊助さんを叩き起こさないといけませんので。ですので……クロスさん、お手を拝借しても宜しいですか?」
そう言葉にし、女性はその手をクロスに差し出す。
まるで、ダンスにでも誘う様に。
訳がわからないまま、クロスは、そっとその手を取る。
やはり、手を振れあっても、一切感情の高ぶりはなかった。
直後、触れ合った手から、まるで雷の様な衝撃と共に情報が一気に流れ込んでくる。
記録としては、知っていた。
全てを忘れた後、エリーから聞かされたからだ。
だが、記憶としては忘れていた。
その忘れていた記憶が、濁流の様に押し寄せクロスの脳に叩き込まれる強制的に取り戻させられる。
女性の園、学園、仮想人格……。
そして、クロスは思い出した。
ここにいるはずのない、彼女の名前を。
「レイア。レイア・エーデルグレイス……」
「ええ。レイアですわ。クロスお兄様」
そう言葉にし、レイアはニヤリと邪悪さ溢れる意地悪な笑みを浮かべた。
レイアという存在は、クロスが変転した姿である。
クロスという存在を隠す為に、魂事女性となり紛れ込んだ姿。
つまり、クロスの偽物であり、今生きている訳がない存在。
という事は……。
「ここは、俺の記憶の中か」
テンパりながらも必死に情報を整理し、クロスはそう呟く。
そんなクロスとは対照的に、レイアはのほほんと紅茶を口に含み、そして……。
「回答は合っています。ですが、式はまるで違いますね。お兄様、今私を自分の中にいる偽物と定義したでしょう?」
「ああ。そうした」
「でしたら、訂正しましょう。私はちゃんと生きています。魂だけではなく、肉体を持って」
「……そう、なのか?」
その言葉に、クロスは同意出来ない。
自分の罪悪感が作った偽物であるという意識が、クロスから離れなかったから。
「……忌々しい事に、貴方方が帰った後日に私は私として生を受けました。お兄様が捨てた記憶と、お母様が捨てた瞳から私は生まれたと言っても良いでしょう。本来ならもっと大切な事を話すべきなのですが……今この時だけは時間の概念なんてありません。少しは、交流を楽しみましょうかね」
そう言って、レイアは自分の事情を説明しだした。
母、アラヤユイは元々自分を作る予定だった。
それこそ、クロスがあの場所に訪れるもっと昔から。
クロスという存在からレイアという存在のコアを抉り、それを独立させ生み出す。
その目的は、今この時の為。
クロスという存在の目を正しく覚まさせ、レンフィールドと同じ場所に引き上げる為だけに、レイアはここに生まれた。
一つ目の鍵は、魂の繋がりによりクロスを目覚めさせる為。
だが、それだけではまだ足りない。
魂の家族としての繋がりは埋まっても、肉体としての家族の繋がりは埋まらない。
それが、二つ目の鍵の役割。
肉体の繋がり、家族の繋がりとしてクロスという存在を補強する事がレイアの役割だった。
「まあ、お兄様を目覚めさせるだけだったら、道具としてただ作れば良いのに、お母様は人が良いですから、レイアという存在を作って、娘として引き取りましたと。まったくあの方は黒幕を名乗る割に情を捨てられないのですから。というのが、私の事情ですが、何か質問は御座いますか?」
「……一つ、良いか?」
「ええ。どうぞ」
「どうして、俺の事をお兄様って呼ぶんだ?」
「あら。当たり前すぎて説明するのをすっかり忘れておりましたわ。失敬」
レイアはくすくす笑いながらそう呟き、微笑んだ。
「まあ、そう難しい話では御座いません。本来ならばお兄様の記憶から私は生まれたので、お父様と呼ぶべきなのですが……貴方を父と呼ぶのは違う様な気がしまして――」
何となくそう思っただけだが、今はそれが正しい事だとレイアは理解する。
クロスという存在から、レイアは父性を感じた事も求めた事もない。
そもそも、それを受け取るべき存在は別にいる。
「――いえ、もう一つ、シンプルな理由がありましたわ。私は、貴方に家族の情を感じています。お兄様だなって直感で思いました。それが答えでは、駄目ですか?」
楽しそうに、軽い口調で、レイアはそう言葉にする。
だが、その言葉には一切の裏はない。
本当に、シンプルすぎる話。
レイアは、クロスを兄であると感じている。
小難しい言葉なんて関係なく、それが、答え。
そしてその答えに、クロスは納得する。
性的興奮を覚えないのに、愛情が沸きあがってくるこの気持ち。
それは確かに、兄妹と呼ぶ関係に相応しいと――。
「………………」
クロスは、無言になった。
まるで何かを考えているかのように、しばらく無言となり――。
「お兄様がどうしても嫌というのでしたら、お父様でも宜しいですが?」
「嫌なんて言う訳がないだろうマイシスター。さあおいで抱きしめてあげよう」
そう言って、クロスは手を開き抱っこする姿勢に入った。
「こう見えて慎み深い性質なんですの。例えお兄様でも男性には、みだりに接触するつもりはございませんわ」
そう、冷たくあしらった。
「男性には?」
レイアはぴくっと動いた後、そっと目を反らす。
その態度から、クロスはあり得ない程高速で察する事が出来た。
兄だからこそ、自分と似ているからこそ、クロスは未来予知レベルで、それに気づいてしまった。
「えと、レイア。一つ尋ねるんだけど」
「お断りします」
「お断りさせません。……女性とのみだりな接触は、どうなのかな?」
「黙秘します」
「……何体位に、手を出した?」
「…………それは、同級生の中で、という意味でしょうか?」
わざわざ区間を限定してくる辺りで、クロスはそれを理解出来た。
学園という環境で、どういう風にレイアが生きていたかを。
そして……悪い意味で自分に似た肉食獣であると――
「そう言うところは似なくても良いのに……。いや、俺は前世も今世も口だけだけど……」
「ええ、知っておりますわ。お兄様が口だけヘタレであるのはこれでもかと良ーく、知っております。ですがお兄様、もしお兄様が、若く美しい、花の様な女性に囲まれて、割とガードが緩くてこちらをうっとりと見てきて……何もせずに立ち去れますか?」
「無理ですね。理性で抑えられる自信がありません」
「ええ、そう言う事ですわ。お兄様」
「あー……理解したくないけど理解出来ちゃうなぁ」
「ええ。私達兄妹ですから」
そう言って、レイアは微笑む。
失恋の悲しみを癒す為。
その部分がある事を、クロスは察しているし察せられている事をレイアも気づいている。
記憶を返してもらったのだから、知らない訳がない。
クロスがレイアとして振舞っていた時に生じた、その記憶。
クロスではなく、レイアとして生まれた最初の感情。
エリーへの恋心。
お互いわかっていても、それを口に出す事だけは許されない。
それが触れてはいけない部分である事位は、両者共に理解出来ていた。
少しの談笑と、紅茶を楽しんでから、クロスは本題を尋ねた。
「そんで、結局これって今どういう状況なんだ? 俺は一体どうなって、何をすれば良いんだ?」
「そう――ですね。一つ目の鍵により、お兄様は目覚めました。ですが、まだ足りません。まだ、何も見えていませんもの」
「何が?」
「戦うべき相手が」
今のクロスは、本当に目を覚ましただけ。
それだけな為に、被食者という状況に変わりはない。
力も、記憶も、肉体も食われ、その上相手の姿さえ認識出来ていない。
敵はすぐ傍にいるのに、あまりにも巨大過ぎて見えていなかった。
「まあ、お兄様が小さいという風にも言えますが」
「ちっさくないぞ!」
唐突に叫ぶクロス。
それにきょとんとした後、レイアは意味を理解して紅茶を噴き出し、真っ赤になってカップをクロスに投げつけた。
磁器製のはずのカップはクロスの頭に当たっても割れず、変わりに中の赤い液体をクロスは浴びた。
「……ぬるい」
「知りません! 話を戻します! 私の、二つ目の鍵の役割は、同じ土台に引き上げる事。強く認識する事です」
「認識? 何を?」
「ここは貴方の中だという事をです」
「……そう、言われても……」
美しい庭園にお洒落なテーブル。
似合わないオブ似合わない。
この場に最もふさわしくないとも言えた。
「こうなっているのは、私の影響ですわ。つまり、部外者の私の影響がこれだけ出てしまう出る程、お兄様の影響力が弱いという事です。なので、思い出して下さい」
「……何を?」
「お兄様が一番、やりたい事を」
「……さっきのお前の話聞いた上でそう言われても、さっきのあの事しか思えねーぞ。学園で、女の子とっかえひっかえとか羨ましすぎて血の涙を流しそう」
「私は溜飲が下がる様な気持ちですわ。でも、それが本当にお兄様の願いですか?」
「んー。そう言われても……」
クロスは自分の事を、過去の事を思い出す。
願いと言われても……。
急に、ちくりと肩に痛みが走るりクロスはそっと肩に触れてみる。
肩に、まるで刺された様な傷が生まれ、衣服に鮮血に染まっていく。
強い、焼けつく様な痛みが走る。
だけど、大した事はない。
その痛みは、慣れた痛みだったから。
「……いや、俺はどうして、痛みに慣れる程戦った。……どうして、俺は体を食われた。……いや、そうじゃない。そうじゃないんだ。……俺は俺だけじゃなくて……」
肩の痛みが、現実を引き寄せる。
どうして戦っていたか。
そんなもの、不幸を見たくないからに決まっている。
「だから……だからこそ、俺はあいつと一緒になって……」
じりじりと、痛みが広がり、同時に何かが、自分に流れ込む。
まるで風船に空気を入れるかのように色々な物が入り、そして今まで自分の物ではなかった世界が、自分の元に戻って来る。
庭園が消え、テーブルや椅子が消え、レイア以外全てが消えて空の世界へと戻る。
空白しかない、本来の精神世界に。
「……もう一歩ですわね。では……改めて自己紹介を」
レイアはスカートを軽く持ち、お嬢様らしく頭を下げた。
「私の名前はレイア。レイア・リヴァイブ。私は、今日、プレゼントを持ってまいりました」
何故かわからない。
わからないが……そのファミリーネームは、やけになじみ深かった。
「プレゼント?」
「ええ。お兄様に、このファミリーネームをお返ししますわ」
そう言って、レイアは微笑んだ。
「……返す?」
「ええ。これは、近い未来にお兄様が名乗るはずだった名前。それを私が勝手に借りて先に使わせていただいたのですわ。ですので、お返しします。蘇る者、という意味を持った、この名前を。……ああ、お兄様の自己紹介は必要ありません。ちゃんと、あちらの世界で出会った時にお願いしますわ」
そう言って、レイアは消えた。
いや、消えたのではなく、レイアを感知できない程、クロスの存在が膨れ上がった。
クロス・リヴァイブ。
全てを失って尚、蘇る者
二度命を失っても、まだ、諦めない者。
賢者ではなく、ただの、大馬鹿野郎の象徴。
クロスはファミリーネームを受け取ってから、自分が急速に大きくなる様な感覚に囚われる。
いや、実際はそう感じるだけでただ己を取り戻しているだけ。
精神の世界で奪われていた物を奪い返し、支配権を取り戻し、記憶を取り戻し……。
そしてようやく、気が付いた。
敵はすぐそばにずっといたのに、見えていなかっただけだと。
敵と同じ大きさになれて、ようやく、クロスはその姿を肉眼で確認出来た。
片角を持った、半鬼半魔の魔物。
見覚えしかないその体を持つ魔物、先代魔王レンフィールドの姿を。
ありがとうございました。




