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『ニ人の思考』

作者: Sady

『二人の思考』


人は皆、違う思考を持っている。人は皆、違う価値観を持っている。生まれてきた赤子はこの世の何も知らず、生きていく上で知識、経験、思考様式、価値観を身につける。親による教育、学校による教育、友人から学ぶこと、様々な場面から人は所謂「成長」をとげ、自我を創り上げる。個体としての人間は何も持たず、ただ動く心臓を入れておく箱である。そのため、人は一人では生きることはできず、他者に帰属することでしか生きてはいけない。しかし、他者との問題で人は人であることを嫌い、人を憎む。そうして社会は創られ、地球は形を変えていく。


その変化の最中に在る二人。

樋口都ヒグチミヤコ女性、二十一歳

橋本心ハシモトココロ男性、二十三歳


彼らにとっての思考や価値観はどの様なものでありどの様な体験から構築されていったのだろうか。一つ目の議題は、「大人とは何を意味するのか。」である。


都にとっての大人とは何だろうか。

「うーん、難しい質問ですね。そんなこと考えたこともなかったです。なんだろう。働いて、稼いだお金で生活をすることですかね。あ、あと、自分のことをちゃんと決められる人。他何かあるかな…なんかしっかりと子供に指導できる人って大人!て感じがしますよね。ははは。なんか、子供がいるお父さんは大人って感じますね…」


都は北海道出身東京育ちの大学三年生である。就職活動前ということもあり、何かと不安を抱えている、経営学部生である。将来に役立てられる勉強を大学でしたいということで、某大学の経営学部に入学した。「経験」ということもあり、大学の二回生の頃には、友達と二人でカフェを一度開いたこともある。その時に、経営の難しさについて学び、学びと現場の乖離を理解したという。


そんな都は、一九九五年に北海道で生まれた。自然豊かな土地柄で牧場まで徒歩五分の所にある広大な敷地を有する一軒家に家族三人で暮らしていた。自然に囲まれて幼少期を過ごしたことから、虫にはめっぽう強い。しかし、転勤族であった父親の仕事上、都は小学四年生の頃に東京へ引っ越すことになった。慣れない東京生活に都は常に自然を求めていた。休みになると親は都を広い自然の味わえる都内の公園に連れて行くのだが、都は北海道の自然の味を知ってしまっているせいか、全く満足しない。都にとって東京は不便な街だった。


そんな過去を持つ都は、都内の大手企業に就職をして数年の社会経験と知識を身につけ、北海道で会社を立ち上げ大自然に帰るという目論見があった。そのために、大学のうちに一度、起業の経験をしたのである。


都にとっての「大人」とは、やはり経営学を学ぶ就活生ことから、経済的な自立に大きく焦点を当てている。また、女性ということから、親になった時に子への指導などを考え、学びを教える者として「大人」という定義をつけた。都自身、「責任主体こそが大人である」という様なことを言いたい気持ちはあったが、社会学や哲学について知識がない分、あまり触れるのが恐れ多かったのだ。


一方、心にとっての「大人」とは何なのか。

「大人ですか…大きい人とか…(周りが静まりかえる)…んーなんですかね。やはり、責任主体という言葉で自分自身の限界性を説き、冒険しない「人」のことですかね。子供の頃ってほら色々と冒険心があって、探検とかしましたよね。特に男の子とかは。小屋なんかに小さい穴があったら覗いてみて、ネズミの住処かなーとか言ったりして。他にも、蟻の行列に砂で積土めの壁を作ってどうなるかとかみてみたり、悪いことしたなって思って、その分近くにあったら甘い餌を巣の近くに置いてあげるとか。あと、大人になると将来の夢は何ですかと聞かれると、おそらく鼻で笑いますよね。子供の頃はやりたい事や好きなことを眼を輝かせて言うじゃないですか。それが叶うとか叶わないとか、自分との距離なんてどうでもいいんですよ。そういう所に、自分の周りに「できま線」ていう線を引くんですよね。それが自分の考える大人ですかね…はい。」


橋本心の視点はやはり、現実的というより、そうではない視点、つまり、人間的な社会学的な視点をとる。そんな心は社会人一年目の新入社員である。大学の頃には社会学や、地域学などを学んでいた。大学になるまでは、一切勉強してこなかったのだが、入学して、授業の面白さに気づき、そこからどっぷりと勉強にハマった。そして、大学四年生の頃には「現代社会における社会規範形成は如何になされているのかー「普通」という概念に焦点を当ててー」という卒業論文を提出し、優秀者として選ばれた経歴を持つ。

そんな心は一九九三年に京都府で生まれた。二人兄弟の弟である心はいつも、兄の後ろについて行く金魚の糞であった。高校生の頃には部活にのめり込み、気がつくと、卒業であった。そして、大学をどうするとなった時に、推薦で東京の大学に入学した。大学に入学するまで、本を読みきった経験がない心にとって大学の授業は大変であった。しかし、有名な社会学の教授に講義をしてもらうことで、勉強が自らの問題と繋がっていることを教えられ、そこから自己研究の一環としての学びが始まった。心は「学び」という新しい扉を開いたのである。それ以降、本を開けると、知識や内容でヒタヒタになった活字が学びの面白さを知らなかった心のスポンジに吸収され身体全体に浸透し、ヘモグロビンを通して指先にまで行き渡った。


やはり、大学生の頃に社会規範が如何に構築されていくのかを学んでいたことから、都とは全く違う視点を取っていた。同じ文字なのにも関わらず考え方が違い定義も全くもって違っていた。ここからも思考様式や、これまでの生活が社会環境が自我を形成しているということが分かるのではないだろうか。


では、二つ目の議題は「友達」という言葉についてである。


都は考えることなく「友達とは」についてつらつらと話し出した。「友達はやっぱり、困っている時、辛い時に助けてくれる人ですかね。恋愛相談に乗ってくれたり、将来の夢について語り合ったり…友達がいないとやっぱり生きていけないです。就活の不安とかも無くすために友達と一緒に進めようて言ってますし。あ、カフェを一緒にしたのも友達とでしたし。将棋で言うところの金とか銀とかですかね。一緒に守って一緒に戦って。それが私に取っての友達です。」


やはり、都は女の子である。物凄く女の子。「女の子の定義とは」と聞かれると少し黙り込んでしまうが、女の子である。自己のマイナスをプラスに、プラスをよりプラスに変化させるのが都のいう友達である。個は非常に脆い。崩れやすい存在である。王も一人では闘えない。まさに都の述べることである。それに例えが面白い。


次に心にとっての「友達」とは何なのか。

「何でしょうね…友の複数形ですかね…(周りが静まりかえる)…何ですかね。難しい質問ですね。やっぱり高め合い学び合う存在ですかね。友達から学ぶことは非常に多いですよ。小学校の頃だったら、中指立てることが悪いことだとか、親指を突き出してそれを下にかざすと「死ねー」っていう意味があることも友達から学びましたね。中学生になると、エッチなことは、親に聞くことはタブーなんで全ての知識は友達から教えてもらいましたね。高校になったら部活に集中してるんですけど、終わったら、彼女と最近どうなのかみたいな、エロ〜い話もいっぱいしてましたね。笑いあってましたね。結果「友達」て何なんですかねー。「関連し合う他者との学び合い」とかですかね。やっぱり自己成長には必需なんですよね。特に幼い頃は。小学校の時とかは、友達多かったんですけどね、今はよく会う友達となると一人二人ですね。学びあうとかはしないですよね。週に一度呑みに行くだけですね。そこで会社の愚痴言って。恥ずかしいものですよ。何でだろうなー。」


やはり男と女の違いは見えてくる。エロい話や、悪口などは女性も小学校や中学校で学ぶだろう。しかし、ここでは出てこなかった。女性の性のタブーは未だに解消されていない。いや、されなくても良い事なのか。差があるという点においては差別なのか。つまり、心にとっての「友達」とは、学び会う帯同者であるという事である。社会環境の違いや経験の違いだけでなく性別の差が社会規範の差を創り出すということも明らかとなった。


三つ目の議題は、「幸せ」とは何か。

都の考える「幸せ」とは何なのか。「幸せていうのは、自分の存在が認められた時に感じますね。承認欲求が満たされた時に幸せが生まれるんですよねたぶん。じゃあ、幸せって何なんだろう。良い事ってことは間違いないですよね。あ、でも、人が幸せになった時に誰かが不幸になるって聞いたこともあるな…幸せは…んー難しいですね。心底から出る「笑顔」ですかね。幸せの定義はわかりません。けど、幸せイコール心底から出る笑顔っていうことは言えますかね。なんか答えになってなくてすいません…」


やはり、難しい質問だっただろうか。だが、幸せが笑顔をもたらし、笑顔がある内面には幸せを感じるということについて述べていたことから、分かっているけど浮き彫りにできない感じであろうか。ここにこの議論の意味が見えてきたのである。幸せとは小学生の低学年で習う感じなのにも関わらず大学生には定義することができない。おそらく人それぞれであるため定義しにくいということもあるだろう。


では続いて心にとっての「幸せ」とは何なのか。

「魚とか貝とかウニとかって海の幸って言いますよね。何かきっと関連しますよね。満足している状態ということですかね。自分が満足していることには幸せを感じるって感じです。山に登っている最中は幸せとは感じないですよね、だけど、頂上に着いたらうわー幸せだーてなりますよね。そんな感じです。となると、「君に幸あれ」って意味不明になっちゃいますよね。言葉の意味って難しいですよね…痛いとこつくなーて感じです。」


心は例えて定義をすることが多い。特に社会との関わりにおける例えが多い様に思える。やはり、物事の見方の差が大きく分かれるところであろう。だが、双方、プラスなことだという共通認識はあった。


続いて、四つ目の議題は、「芸術とは」です。

都にとっての芸術とは何なのか。「数字にも芸術があるという人はいると思うんですけど、やっぱり私にとっては、数字にないところに芸術はあると思いますね。じゃあ何なのかっていうことなんですけど、一に一を足すと五にも六にもマイナス八十になることですかね。絵画とか例えばモネとかみた時、同じ量と同じ種類の絵の具やペンを用意してやるって言われてもモネの絵は描けないですよね。美しいと感じる裏側には芸術は潜んでるのじゃないですかね。何かを極めるて感じですよね。でもよくわかりません。」


都にとっての芸術とは、数字にないところにあると言いつつも、数字では理解不可能なところに芸術が潜むという。面白い思考様式である。この裏側にはやはり、経営では表せない視点があるのだろうか。


では次に心にとっての「芸術」とは何か。

「芸術とは、子供のことですね。子供は皆芸術家です。絵が上手い下手という考えじゃなくてですよ。画用紙に黒いクレヨンでぐるぐるの丸を描いた時に、何を描いたのと聞いたことがあるんですけど、「太陽!」と真っ直ぐな眼をして言われたことがあるんです。そんな事考えますか。私には残念ながら考えられませんね。だけど、もしかすると、ピカソとかダリとかなら考えるかもしれませんよね。もしかしたら思考様式が子供のまま技術を上達させるという点に芸術があるのではないですかね。音楽でいうなら、無邪気で良いと思うんですよ、子供みたいに。子供の弾くピアノと大人の弾くピアノ比べた時に、私は子供の弾くピアノの方が聴いてられるんですよね。そこに技術云々はないんです。いかに自己表現をするのか。そこが子供の方が強いんですよ。訴えかけがストレートなんですよね。しかも感情が全て乗せられていて、なんか、サーモンとかクリームチーズとか色々乗せてクラッカーを食べている感じですね。感情の豊かさって子供の方が多いと思うんですけど、そこが芸術家としての必要条件なのかなと…充分条件ではないですけど。」


心の視点にはいつだって子供という存在が見え隠れする。子供の視点が重要で分かっているのにも関わらず自分から無くなっていることへの後悔、羨む気持ちからだろうか。しかし、発送は面白い。子供の感じ方は大人になっても必要であろう。しかし、皆子供なら社会は上手く行かない。色は出るだろうがまとまりをみせなくなる。そういった面で子供の視点は蔓過ぎたら少し恐ろしい。しかし、そっちの社会は望まれるべきである。やはり、芸術とは言われた時には、絵画や音楽が出てきた。これが代表的な芸術だということと考えていることもまた他者との関わりによって身についた考えであろう。学びや教育の中で、陶器における美が語られなかった人々には、その美しさや芸術性は分からない。


次は最後の議題です。「普通」とは何かについて。都にとっての「普通」とは何なのか。「私を中心にした時に、円を描くようにして回った時に触れる範囲ですかね。あの、コンパスの針を自分とした時に、手が届く範囲です。つまり、自分の知識の範囲内で自分が手を差し伸べれる範囲というか。キモい脂ぎってるオヤジは手が差し伸べれないので普通じゃない。私にとっては異常。というか気持ちが悪い。他はいつも通りとかですかね。一年間の歩いた歩数を日にちごとに記すとして、その一年間の平均が普通ってなって、平均の周りは許容範囲、やけど、それより多かったり少なかったりすると、普通じゃないて感じです。伝わりますかね。」


都へ質問を重ねることに議論が深くなり考えが深まっていき、内容の濃い答えが返ってくる。スロースターターなのかもしれない。手が伸ばせる範囲内が「普通」面白い。キモいオヤジは普通じゃない。確かにそうかもしれない。女子大生にとっての一番の敵かもしれない。という時、敵が「普通」じゃないもの、味方が「普通」と取ることもできるのか。


心における「普通」とは何か。

「普通ですか〜嫌な質問ですね。大学で学んだことなしで語っても良いですか。ちょっと面倒になるので。私にとっての普通ってのは、知識の範囲内にあると思っていて、前提にそれを知っているということ。んーあとはやっぱり自分の物の見方は自分にしかできないから、やっぱり自分を中心に考えた時に、自分の考えが他の人の考えと重なり合った部分とかですかね。単体で見るというより、長い眼で見るというか、総体として見るみたいな。経験の総体の上での分かり合える範囲とかですかね。んーまとまらないです。」


心は、大学でこのような事を学んでいることから期待したがあまり面白い答えは返ってこなかった。しかし、やはり知識の総体としてみた時の許容範囲として「普通」を取り上げているという点では、都と等しい部分ではある。


ここで質問は終えられた。都と心の考える言葉の定義は全く違った部分も同じ部分もあった。同じ言葉なのに、違う価値観や考え方をしている部分が多くあることには気づかれたであろう。このような同じ言葉に集約されているがその言葉の中には蠢く有機体が存在する。いつの日かその言葉という檻から脱する事を求めて。これまで、様々や文豪によって言葉は解き放たれていった。それを文字や言葉たちは求めている。


しかし、一つの言葉に複数の意味内容が集約されているのが現実である。これが世界だと気付いた時、社会規範の土台である言葉の信憑性は揺らぐ。



言葉は思考を超越することはできない。

しかし、言葉は思考をも巻き込む力を持っている。

言葉とはそういう不思議な生命体なのである。


そして、そんな私は言葉に恋をする。

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