1945年8月5日
広島市では、ここ最近アメリカによる空爆などが、来なくなってきたため、広島は、アメリカの標的から外れたのだ、という噂が流れていた。桐原将二郎もその噂を信じている人の一人だった。
「将二郎!さっさと準備せんか!」
声を大きくして呼びかけているのは、将二郎の幼馴染の、林協子である。
「ちぃとぐらい待て。そげなに急いでどうしよる。」
今日は学校が休みになり、協子とともに山に行くのだ。言い出したのは協子で、「なぜ山に行く」と聞いたところ、「つべこべ言わんとついてこい」、とはやされたからである。
「それにしても暑いのう。」
将二郎はふとこぼした。今年は今までと比べて、特に暑かった。いま着ているこの服も、全て脱いでさっぱりしたいものだと、将二郎は思う。
戦争はまだ続いており、東京や大阪などの大都市は、アメリカからの空襲で焼け野原になっているという噂だ。新聞などは、日本が優勢であるなどと報じているが、そうでないことは、15の将二郎でもわかることだった。
「何でこげなに暑い日に山に行くんじゃ?」
「とやかく言うな!黙ってついて来んか!」
少々言い方がきついのが協子の悪いところであり、それが協子というものだった。そしてそれが将二郎の協子の好きな部分だった。
将二郎と協子は、二歳からの知り合いで、家族ぐるみで仲が良かった。協子は将二郎に好意を持ったことはないが、将二郎は、数年前から協子に密かに好意を寄せていた。協子自身はそれに気づいてはいないようでそれが将二郎の救いだった。
協子は元々顔も悪くなく、あと数年もすればさらに美人になるだろうと、将二郎の母からよく言われていた。性格も少しきついながらも心優しい部分もあり、周りからも人気があり、男子も好意を寄せている者も少なくはなかった。将二郎は自らが協子と幼馴染ということで、少し優越感を抱いていた。
準備ができると、協子は走り出す。なぜか協子はどんな時も、歩くのではなく走る。体力をつけたいのはわからなくもないが、自分を置いていくのはやめてくれ。と将二郎はいつも思う。
しばらく経って、協子が振り返り、将二郎に言った。
「早うせんか。将二郎、お前いつも歩いとるのう。」
「協子が走っとるんじゃろう。歩くのは普通じゃ。」
ぜえぜえ言いながら将二郎は言った。協子は「うるさい!」と言って、そっぽを向いた。
険しい道だ。草履の中に、熱い砂が入り込む。日差しも強く差す。もう地獄のような灼熱だ。空を見ても、雲一つない晴天だ。せめて雲で太陽が隠れれば、少しぐらいは涼しくなるのだろうか。
協子が急に止まった。なんだろうと将二郎は思う。協子が振り向くと、
「ちぃと疲れたから、休憩にするぞ。」
なんだ、疲れてるんじゃないか。将二郎はそう思った。
その場に座り込むと、持ってきている風呂敷を広げ、おにぎりを手に取って食べる。
「ここからの景色でも、よく町が見えるのう。」
将二郎が、呟いた。
「そうじゃろうが、上まで行くともっとよく見える。前にさち枝ちゃんと登ったんじゃ。こげなに時間はかからんかったがのう。」
そう言って協子が、ニヤッっとして将二郎のほうを向く。その仕草が、将二郎は好きだった。
「どうせわしは体力がないわい。」
「そうじゃない。将二郎は歩いとるけぇ、時間がかかるんじゃ。」
「藤川は走ったんか。」
「もちろん。ちゃんとついてきたわ。」
協子は、持ってきていた水筒のお茶を、ごくごくと勢いよく飲むと、立ち上がり、
「よしっ!行くぞ将二郎!」
と言って立ち上がった。将二郎は慌てて立ち上がる。
「ちぃとぐらい待ってくれんかのう…」
という将二郎のつぶやきも協子には届かなかった。
やっと頂上に着いた。協子は、ふうっと息を吐くと、大きく伸びをした。その後ろで、ぜぇぜぇと将二郎がついていった。
「ほれ、見てみぃ将二郎。ここからじゃとよう町が見えるじゃろう。」
将二郎が顔を上げた。すると、眼下には、広い自分たちの住む町が見下ろせた。その景色は、まるで、風景画のような、ただの景色なのに、「美しい」と感じるほどだった。
「きれいじゃ…」
将二郎はつぶやいた。協子は、その言葉に反応した。
「将二郎もそう思うとるんか。あたしも初めてここに来たとき、きれいじゃのう、と思うたんじゃ。将二郎も同じようなこと思うとったとはな。」
そう言って協子は、にいっと笑みを浮かべた。将二郎はどきっとした。
その顔はいかん。可愛すぎる。
将二郎は、少し目を逸らして、
「な、なんでこげなところにわしを連れてきたんじゃ。」
と協子に聞いた。
「そんなもん、どうでもええじゃろう。連れてきたかったから連れてきたんじゃ。」
「なんじゃそりゃあ。」
「いつあたしらが空爆で死ぬかわからんじゃろう?その前に将二郎と一緒に来たかったんじゃ。」
協子がそう言うと、将二郎は俯いた。最近は空爆が来なくなって、この国が戦争をしていることなどとうに忘れてしまっていた。明日、もしかしたら、この油断している広島市民たちを狙って、攻撃が来るかもしれない。今、こうして協子と一緒にいるのはとても貴重なことなのだと、将二郎は思った。
そう思うと将二郎は、考えるよりも先に、口から言葉が出ていた。
「協子、お前が好きじゃ。」
と同時に、
「あ!協子じゃ!ほれ言うたろう。協子はここにおるって。」
という声が後ろから聞こえた。将二郎の声は、それにかき消された。
現れたのは協子の姉の、サチだった。隣には、弟の慶一もいた。
「協子、お母が呼んどったけぇ、早ぉ戻り。ちゅうか、あんたお母に何も言わんと出たんか。捜しちょったぞ。」
「忘れちょったわ。すぐ帰るけぇ。」
サチは、将二郎の方を見ると、
「あら、将ちゃんやないか。悪いのう。協子がお母に何も言わんき。一緒に帰る?」
「大丈夫です。わしはもうちょいここにおりますけぇ、先に帰っちょいてください。」
「あ、そう。ほんじゃあ、先帰るなぁ。」
協子たちは、山を降りていった。
将二郎はその場に座り、上手くいかんのう。と思いながら、遠くの地平線をぼーっと眺めていた。
その景色が、間もなく消え失せることも知らないまま───
続く…