ローダンセの花束を
ただ可哀想な人だと思った。
平民出身の彼は、毎日毎日ひどい虐めまがいの行為を受けていた。それでいて、彼に王立学術院に入学を決意させた想い人にその淡い気持ちは届かない。
自分と彼女とそれ以外、そんな彼の狭い世界が彼に対して優しいかというと、もちろんそんなはずはない。
それでもじっと耐え続けるその鼠色の目のなんて哀しく深いことか。
◆
「隣、いい?」
無言で頷くハーディスの横に座る。実際テスト前の図書室は混み合っていて、彼の横ぐらいしか席が空いている場所はなかった。
厚い本と睨み合っている横顔を盗み見ると、いつものように世界はみんな敵みたいな顔をして眉間に皺を寄せている。
彼は、私がいつも隣に座っていることに気づいているのだろうか。そこは気付いてほしいところだが、相手はライラさんしか目に入らない男、ダン・ハーディスである。きっと気付かずにいるに違いない。
机の上に視線を戻し、私はそっと羊皮紙を開いた。
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「おはよう」
朝食をとりに食堂へと向かう途中、見慣れた黒髪を見かけた私は声をかけた。まさか自分が声をかけられるとは思わなかったのだろう、少し目を見開いた彼は、あぁ、と小さな返事をした。今日も相変わらず生気のない顔をしている。食堂の隅っこのテーブルに座った彼の目は、届かぬ想い人を追いかけていた。私は彼が席に座ったのを見届けるとテーブルの大皿に山積みに置いてあるトマトを取った。
◆
「……大丈夫?」
次に見かけたダン・ハーディスは、泥だらけのローブを乱雑に手に持ち、疲れ切った顔をしていた。あらかた、貴族のぼんぼん達に何かを仕掛けられたといったところだろう。
怒りと気怠さが入り混じったような濃い灰色の目は、それらを押し殺そうと必死だ。出してしまえば楽だというのに、それをしないのは想い人のためか。
私の問いかけにはまたあぁ、と答えただけだった。私は彼の後姿をじっと見送ることしかできなかった。
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「貴方の名前はなんていうの?」
とうとうあぁ、以外の言葉を聞きたいがために不毛な質問をしてしまった。長期休暇中の図書室は閑散としており、思いのほか声が響く。平民出身の根暗ないじめられっこ、ダン・ハーディス。彼の名前なんて学術院では有名すぎるものだし、今さら聞くまでもない。彼は、私の唐突な質問にやっぱり訝しげな顔をした。それでも小さく自分の名前を呟いた彼に、少し嬉しくなった。
◆
「Mr.ハーディス、貴方の進路は?」
廊下ですれ違った彼を引き留めると、私はそう尋ねた。王立学術院では入学してから三年を数えた年に、進路が分かれる。選択肢は普通科、実践科、研究科、特別科の四つ。私は去年から研究科に在籍していて、魔法に関する研究の腕を見込まれて入学した彼も研究科にくるものだと思っていた。しかし、彼は果てし無く低い声で実践科だと告げた。
しばらくしてから、私はやっとその理由に気がついた。
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「残念だったわね」
返す必要のない言葉に、彼は決して応えない。彼は雨の降り出しそうな重い雲の下、中庭にいた。ちらりとこちらを見やった灰色の目は濁っていた。やっぱり望み通りには行かず、彼は研究科に在籍することになった。全ての科は棟が離れている上、それぞれ寮も異なっているので交流はほぼない。特に実践科は遠い。つまり、ライラさんは、遠い。
本当になにもかもが可哀想な人。
◆
「ごめんなさい」
最後に私が彼と交わした言葉は謝罪だった。風の噂で、卒業と同時にライラさんが結婚したことを聞いた。思わずダン、と声をかけると彼は激昂した。名前を呼ぶな、私の名前はライラのためだけにあるのだ、と。曇天と同じ色をした目からは、まるで雨のように透明な雫が流れ出した。
私は去って行く彼の後ろ姿をただ見つめることしかできなかった。彼の世界の定員は変わらず二人だけ。
同情が、いつから愛になったかなんて分からない。彼にローダンセを一輪渡したとしたら、いったいどんな顔をするのだろうか。