不正解
「ねぇ」
暗い。暗い部屋にボクの声が響く。
返事がないなぁなんて思いながらポタポタと前髪から雫が落ちているのを見つめていたら、視界がグラリと傾いた。
パサッと軽い音を立ててシーツに沈み込む身体。
「ねぇってば」
今度はもう少し大きな声で。
けれど、相手からの返事はない。
いつもはすぐに返事が返ってくるのに。
(仕方ないなぁ)
ボクは優しいとよく言われる。彼女も言っていた。
褒められた時のことを思いだすとつい頬が緩んでしまうんだから、自分でも単純だなぁと思う。
ごまかすようにゴシゴシと頬を袖口を拭いながらノソノソと起き上がる。
身体が重い。だるい。
おかしいなぁ運動なんてしたっけかなぁなんていうボクの独り言にも返事はない。
とりあえず、キッチンに行ってみる。
暗く、シンとした静けさはさっきの部屋と変わらない。
壁に掛けてある時計は午前2時を指していた。
ふいにピチャンと水音がして、そちらに目を向ける。
赤い。
赤い水がシンクを汚していた。
昨日彼女が綺麗にしていたのにもう汚れてしまったようだ。
と、水の中にプカプカと浮かぶ針と糸。
『ゴミはきちんとゴミ箱に捨てるのよ』
彼女の言葉を思い出す。それらを掴みゴミ箱に投げ入れる。
自分でゴミを捨てたなんて言ったらきっと彼女は褒めてくれるだろう。
(ボクこんなに早起きしたの初めてだ)
ぐぅぅとまぬけな音が鳴る。なんだか少し恥ずかしくてお腹をさする。
彼女の作った朝ごはんを食べなければボクの1日ははじまらない。
少し早いけれど、彼女を起こさなければ。
怒るかもしれない。けれどきっと嫌とは言わないはずだ。
ゆったりとした足取りで彼女の部屋の扉を開ける。
入った瞬間ツンとした匂いが鼻についた。何度嗅いでも慣れることはない。
きっとずっと慣れないかもしれないけれど、彼女は笑って許してくれるだろう。
「ねぇ」
ベットに乗りこんもりと盛り上がった布団をユサユサとゆする。
ねぇ起きてよ暗い部屋の中にはボクの声だけが響いた。
返事はない。
今度はもう少し強めにゆすってみるが、結果は同じ。
仕方ないなぁ、お寝坊さんなんだからなんて甘い声を出しながら布団をガバッとめくる。
けれどそこにいたのは、彼女が大好きなクマのぬいぐるみ。
「あれ、おかしいなぁ」
首を傾げながらベットから降りる。
と、足の裏にぐにゃりとした感覚。何かを踏んでいた。
暗闇の中で必死に目を凝らしてみるが、よく見えない。
手で掴むと、窓のほうに照らしてみる。
月明りで照らされたそれは、彼女だった。
なんだここにいたのボク探しちゃったよ。
少しいじけた声で言えば、彼女はごめんねと目だけで笑ったので優しいボクはいいよと囁く。
なんていったって月明りで光る彼女はとてもとても綺麗で。
単純なボクはそれだけで気分がよくなってしまう。
と、彼女の頬が赤黒く汚れていることに気付いた。
「ねぇほっぺたどうしたの、汚れてるよ」
ゴシゴシと袖口で拭ってやれば、彼女が小さく笑った。
あなたがやったんじゃない私もう口も聞けないのよひどいわ
力が入らない様子の彼女はくたりとボクに寄りかかる。
あぁなんて可愛いんだろう。
なんだか少し甘い気持ちがせり上がってきて、彼女の少し歪な唇を指で優しくなぞる。
不思議そうな顔をする彼女にゆっくりと顔を近づけてちゅっと軽く口付けると身体がピクリと跳ねた。
どうしたの?意地悪するみたいに顔を覗き込む。
と、彼女は途端に顔を歪めて
あぁもう私あなたの名前を呼ぶこともできないのよ
あなたの愛に喘ぐ(こたえる)こともできないわ
なんて言って泣くものだから、僕は慰めるようにキスを何度もした。
固い糸の感触なんて彼女のモノだと思ったら何の違和感もない。
ずっとずっと変わらないボクだけの愛しい彼女。
「ボクはキミの全てを愛してるんだよ」
大丈夫だよ。だから。
唇のその先。
甘くボクの名前を生み出す穴が固く閉じられていても。
その穴を閉じたのがボクだったとしても。
どうしてなんて言って泣かないで。
(そんなこといったってもうどうしようもないんだよだってボクはキミがだいすきなんだ)