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『それって、自己満足だよね』後編

「……どうして?」


「俺だって、必死に帰ってきて、家事だって育児だってやってるだろ」


「そんなのお互い様でしょ?私だって同じよ」


 玄関の脇の空の缶ビールの詰まった指定ゴミ袋を見る。

 夜勤に出かける前に、わざわざまとめてそこにおいておいたのだ。

 朝、彼が出すのを忘れないように。



「ゴミ捨て忘れてたくらいで、イライラするなよ」


「資源ゴミは月に二回しかないの。ちゃんと出さないと空き缶だらけになるでしょっ!」


「わかってるって言ってるだろ?そういうお前だって、靴下を裏返しに脱ぐのやめろって何回言ってもやめないじゃないか!」


「五本指ソックスは脱ぎにくいのよ!」


「じゃあ、普通の靴下にしろよ?」


「普通の靴下じゃ、足が臭くなるのよ。九時間も十時間も同じ靴はいて、走り回ってるのよ?仕方ないじゃない。裏返しでも、きれいになるわよ。日本の洗剤は優秀なの!なめんじゃないわよ、洗剤!」


「干すときに丸くなってるのが嫌なんだよ」


「わかった!私の靴下は金輪際、洗ってもらわなくていいっ!」




 全く、くだらない。

 本当にくだらない。



 わかっているのだ。

 夫は家事も育児も十分にやってくれている。夫の協力があるからこそ、仕事ができているとわかってはいるのだ。


 イライラをぶつけてしまうのは、きっと彼に甘えているからだろう。


 彼は最後には必ず許してくれるのだから。







 緊急入院も急変もない(今のところ)準夜勤務。

 フォローを必要としないメンバーでの勤務は精神的負担も軽い。


 だからきっと、私の気持ちが少しこぼれていたのかもしれない。



 消灯時刻を過ぎて、照明の半分消されたナースステーション。並ぶパソコンの前で大きくため息をついてしまった。


 隣の席で、人差し指でキーボードを叩いていた伊藤さんがふと顔を上げる。


「どうしたの、斉藤ちゃん?体調よくないの?」


 髪に白いものが混じり、にこりと微笑むと目元と口元にシワのよる伊藤さんに私はホッとしてしまう。

 急性期病院で交代勤務を結婚しても子供が生まれても続けている肩からは、甘えてもいいような、優しさがにじんでいる。



「……伊藤さんは仕事、どうして続けてるんですか?」


「え?あぁ、うちはさ、旦那が自営やってるんだよね。今ではなんとかなってるけど、子供が小さいときはホントに仕事なくて、私が働かないとやっていけなかったのよ。しかも、下が思いがけず出来ちゃったじゃない?まだまだお金かかるし、辞めるに辞められないわ」


「伊藤さんの息子さんっていくつでしたっけ?」


「まだ、一番下は高1なのよっ!」


「ええ?そうでしたっけ?もっと大きくなかったですか?」


「上はね、もう二十とっくに過ぎてるんだけどね。38のときにポッカリできちゃって、まさかと思ったわ。あの子が成人するころには、私、定年なのよ。旦那の仕事だって、今は何とかなってるけど、いつ何があるかわからないじゃない?怖くて辞められないわ」


「そうなんですか」


 働く理由のはっきりしている伊藤さんをうらやましいと思う。

 私の働く理由は、自己満足なのだから。




「……斉藤ちゃん、辞めたいの?」


「……なんですかね、まわりに申し訳ないっていうか、何でこんなに必死に働いてるんだろうって、思っちゃうんですよね」


「まぁ、そんなときもあるよね。斉藤ちゃんはさ、子供がまだ、小さいから余計にそう思うんだよ、きっと。大変なときって過ぎてしまえば、一瞬だよ。意外と何とかなるよ」


「はあ」


「でもねぇ、斉藤ちゃんの旦那さんってちゃんと働いてるんでしょ?だったらガツガツ働かなくても食べては行けるだろうしね。有り難いことに、看護師の仕事っていろいろな働き方ができるから、この病院に固着することはないのかもね」


「そうですよね……」

 やっぱり私は自己満足なのだろう。



「うふふ、相談する相手、間違えてるけどね」


「え?」


「まずは、旦那でしょ?」


「そうですね……」




 仕事を終えて、車を降りる。

 午前2時を過ぎた住宅街は静まり返っていて、人の気配だけでなく、生き物の気配さえも感じない。


 門灯がぽっかりと照らす玄関ドアをそっとあけて、家の中に入る。

 暗い室内は静かで自分の足音が響く。子供たちと夫はとっくに眠っているのだろう。


 リビングの灯りをつけると、ソファーの上には洗濯したのか、してないのか、さっぱりわからない衣類が散らばっており、ダイニングテーブルには、食べこぼした跡とこぼれた牛乳の跡、その横にはブロックとフリフリのエプロンドレスを着た小さなネズミの人形が転がっている。


 シンクの中には、洗い桶に浸かった茶碗がそのままになっていた。


 私は手にしていたカバンを椅子において、片付けるために上着を脱いだ。



 パリっ


 足で踏みつけたのは、床に落ちていたビスケットの欠片だったけれども、砕けたのはビスケットだけじゃないのかもしれない。


 私は大きくため息を吐き、ゴミ箱に足を乗せて、縁でビスケットを落とした。








 幼い頃から住み続けた実家、軋む門扉さえも手に馴染んでいる。

 居間の奥の台所に立つ、母の背中が少し小さく丸く感じたのは、つい最近のこと。

 小さな孫たちの世話をすることは楽ではないだろう。



「母さん、この間は助かった。風邪、うつらなかった?」


「あぁ、大丈夫だよ。もう元気になったかい?」


「うん、まだ鼻水はでてるけどね。保育園行ったよ」


 振り向いた母の目は何かを捕らえたようで、すっと細められる。きっと、一目みただけで、私の瞳の奥の心の角までわかってしまうのだろう。


「……どうかしたかい?」


「あぁ、私、もう仕事、辞めようかと思って。なんかもうね、しんどくなっちゃった。まわりに迷惑かけて、子供に淋しい思いさせて、一生懸命、仕事して。……なんだか、自己満足なのかなって」


 私は母の顔を見ることができなくて、クッションフロアの床の模様を爪先でなぞる。


「奈津……」


「母さんにも、迷惑かけっぱなしだし、もう私、十分頑張ったから、もういい」

 心配そうな声にやっぱり私は母の顔を見ることができない。


「……そう」


「うん、子供たちにもね、淋しい思いさせてるし、孝司にも迷惑かけてるし……」


「奈津、お母さんはね。迷惑なんて思ったことなんてないよ、孫はかわいいし、娘に恩を売ってると思えばなんてことないよ。ちゃんと返してくれるんでしょ?」

 おどけた声に私は顔をあげる。すると、母はクイッと口角を上げる。


「いっぱい作ったからね。もって帰ってよ」ニコニコと微笑みながら、タッパーに詰めたおかずをわたしてくれる。



 ーーあぁ、かなわないな。



 実家と自宅は車で5分の距離、そこに家を建てることを決めたとき、母はにこりと微笑んで、

 確か、「ありがとう」と言った。


 どうして、今まで忘れていたのだろう。



 私は老いていくだろう両親の世話をする覚悟がある。

 それを言葉にしたことはないが、母はそれを当たり前に思える人ではない。



 孫の面倒をみることで、娘を助けることで、母の未来の負担が軽くなるなら、それも親孝行なのかもしれない。







「ママ!ぼく、ほいくえんでキラキラーってしたよ!」

 日が傾いた夕方の保育園に迎えに行くと、いっぱいの笑顔で走って飛び付いてくる息子。


 カピカピに乾いている鼻下の鼻水、給食で食べたらしいポークビーンズのケチャップがこびりついた口もと、私はたくさん楽しんだらしい彼の顔を見つめ、楽しい気持ちになる。


 おしりの重いらしい娘はのんびりと歩いて、ずるずるとカバンを引っ張ってくる。

「ママ、おむかえはやいっ!もっとあそぶ!」

 カバンをおいて、くるりと向きを変えて部屋に入っていってしまう。


 ーー楽しそうでなによりです。









「ただいま〜」


「「パパ〜!」」


 夫の帰宅とともに、玄関に走っていく子供たちの背中をキッチンから眺める。


 テーブルにお皿を並べながら、私が家にいれば、毎晩家族で食卓を囲むことが出来るんだなと思った。





 子供たちを寝かし付け、たいてい一緒に眠ってしまうのだけれど、私は暗い寝室から這い出て、リビングの夫の背中に話しかけた。


「パパ、私、仕事辞めるわ」


「あぁ、いいよ」


 夫は至って、軽く答える。

 まるで『明日の晩御飯、ハンバーグでいい?』とでも聞いたみたいだった。


 私は拍子抜けして何も言えないでいると、彼はこちらを見ることもなく、パソコンに向かっている。


「どうした?急に?」

 やはり、モニターから視線を離すことなく、右手はマウスを握ったままだ。



「あ、あぁ、うん。なんかね、もう、みんなに迷惑かけてさ……。パパにだって、早く帰ってきてもらったり、家のこともしてもらったりするし。子供たち、保育園に預けて、夜も働いて、なんか……、可哀想じゃない?子供たち?」


「……全国の保育園児に謝れ」

 くるりと椅子を回転させて、彼は少し見上げ、口を引き結んでいる。

 私は彼の言葉の意味をつかみかねた。


「は?」


「……保育園に行ってる子供は可哀想で、行かないで母親に育てられてる子供は可哀想じゃないってことか?なんだそれ?普通に失礼だ。俺も保育園に行ってたけど、俺も可哀想なのか?」


「……」


「全国の保育園児と保育園卒園児に謝れ」


 夫の真剣な眼差しを受けて、私は素直に言葉をつなぐ。


「……そうだね、ゴメン」



「よし!まあ、許してやろう。……どうかしたか?誰かに何か言われたか?」

 私はわかりやすいのだろうか、思いはどこからこぼれてしまうのだろうか。



「……嫌になったのよ、ただそれだけ」


「仕事が?」


「全部よ。なんだかくたびれちゃって」


「はあ、五本指靴下くらい洗ってやるぞ?」


「そんなんじゃないって。……なんか自己満足なのかなぁって思って。私のわがままで仕事続けてきて、まわりに迷惑かけてるのかなぁって」


「なんだそれ?自己満足って?……お前、バカなんじゃねえ?」


「私のことお前って言わないで!」


「……そこかよ?」


「嫌だもん」


「奈津、働く嫁はいい嫁だ。労働して納税して、少子化の改善にも貢献してる。胸を張れ!日本に一番貢献してる。うん、間違いない!自己満足って?別にいいじゃん?仕事に満足できるなんて有難いことじゃね?」


「孝司……」


「誰に何言われたのか知らんけど、奈津は毎日、頑張ってる。それは間違いないし、俺は迷惑じゃないし、まぁ、正直、大変だけどな。子供たちだって保育園行ってるから可哀想なんておかしいし、実際楽しそうだしな。寂しく思うことはあるかもしれないし、ないかもしれない。そんなのわからないからな、わかったときに対処すればいいと思う。奈津、俺も頑張ってるから、コレ買っていい?」



 パソコンのモニターには、テカテカと光る時計が映る。

 角の方に小さく示された数字を私は見逃さない。



「……バカなんじゃない」


「えー、いいじゃん。俺も頑張ってるんだし」


「私、辞めるって言ってるでしょ?!」


「なおさら、辞める前にな?もう、買えなくなるし?……ダメかな。よし、じゃあ、こっちにするわ」


 ポチポチとマウスを動かし、ピカピカと光る時計が映る。


 さっきのテカテカの時計ほどではないが、ピカピカの時計も十分、あり得ない数字が並んでいる。


「……ないって」


「これのレディースモデルもあるぞ?」


 ポチポチとマウスが動き、キラキラと光るけれど、とてもスッキリとして上品な時計が映る。


「……いいかも」


「これが、セットだとこんなに割引される!」


「……」


「もうすぐ、ボーナスだしな?いいだろ?」

 ニッコリと微笑む彼。


 ーーあぁ、かなわないな。




 バカなのは、きっと私。

 上手いこと交渉してくる彼にいつもうなずいてしまうのだから。








 クレジットカードの明細を見て震えるのはもう少し後のこと。



 あいつ!

 私のカードを使いやがったな!!!


 チクショウ!

 辞めるに辞められない!



 自己満足でいい。


 自己満足の何が悪い!



ママさんナースは本当にすごいです。

しかも、みなさん技術も知識も意識も高い!


日本で一番、頑張っていると私は思います。


今もどこかで働くママさんナースに愛を!!

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