『それって、自己満足だよね』 前編
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本当にうれしくて、調子に乗って更新です。しかも、熱く語りすぎて長くなりました。
『それって自己満足だよね』
殴ってもいいか?
これは、殴ってもいいよね?
あんたに、私の何がわかるっ!
私の仕事の何がわかるっ!
私は向かいに座っている女から目を離すことができない。
手にしていたグラスが滑り落ち、半分ほどになっていた梅サワーが少しこぼれ、手首を濡らした。
その冷たさに、私はふと我にかえる。
テーブルの脇にあったおしぼりで、手をぬぐい、私は大きく息を吐く。
ダメだ、ここでもめてはダメだ。
自分に言い聞かせる。
長男の保育園の役員に見事に当選した4月、私はこのくじ運の悪さを呪った。
親睦会という名の飲み会は、駅前の居酒屋で行われ、真っ赤な顔をして唐揚げの分厚い衣を箸でチマチマ剥がしている、目の前の女は、長男と同じパンダ組の母親。
住宅ローンをガッチリ組んで購入した一戸建て。
まだ30年以上ローンは残っている。これからも住み続けるこの地区でトラブルをおこすことは避けなければならない。
私だけではないのだ、小学校、中学校と子供は同級生となる。
私は聞こえなかったフリをして、曖昧に笑い、グラスを一気に傾ける。
乱れる心を少しでも落ち着かせようと、こっそりと瞳を閉じて、ゆっくりと息を吸って、細く吐き出す。
おそらく、久しぶりのアルコールでどれだけ失礼な言葉を吐いたのかわかっていないのだ。
酒の席は無礼講だと、自分に言い聞かせる。
すると、女は続けて言う。
『子供の一番大事なときに夜勤でお母さんがいないのってかわいそうよね』
ハハハハハハ……はぁ?!
グラスから手を離していてよかった。もし、持ったままなら、ぶっかけていた。
私と女の間に唐揚げの大皿があってよかった。もし、何もなければ、掴みかかっていた。
決めた、この女、潰す……。
「あら?グラスが空ですよ?何か飲まれますか?」
私はニッコリと微笑み、メニューを差し出す。
「うふふ、この吟醸酒、すごく美味しいですよ?私、飲みますけど、ぜひ飲んでみてくださいよぅ」
私は有無を言わさず、冷でオーダーする。
ワークライフバランスという言葉を耳にするようになってから、ずいぶんと経つ。
私の勤務する市民病院でも、その言葉は広く知られ、部分休業や夜勤免除が認められている。
子供の年齢制限があり、もちろん給与はカットされる。
しょせん、絵に描いた餅だ。
終業時刻を定時前で申請し、許可されても、仕事が終わらなければ、帰ることなどできない。
夜勤の回数が減るとはいえ、週に一度、もしくは二度あるのだから。
私の息子は五歳、娘は二歳だ。
看護学校を卒業してから、市民病院に就職し、結婚し、そして二度の出産、育児休暇を経ても、私は働き続けた。
それは家族の援助があるからこそだ。夫だけでなく、私の両親は自宅の近くに住んでおり、主に母親が協力をしてくれている。
残業で保育園のお迎えが間に合わないとき、子供が保育園で熱を出して、急に呼び出されたとき、いつも母親が助けてくれている。
日、日、日、日、準、準、休……
深夜勤務が免除されている私のありふれた勤務。
毎日、日勤が続くと、それはそれで大変だったりするのだ。
怒濤の勢いで、仕事を終わらせる。ちんたら仕事をして、ダラダラ残業することなど、決してない。
お昼休憩もそこそこに、急変と緊急入院がないことを祈りながら病棟を走り回るのだ。
やり残したことがないか、抜けているところはないか、きっちり確認して、私はダッシュで帰る。
保育園に着くと、息子と娘のほかに子供たちは誰もいない。
照明が半分、落とされた静かな保育園、先生も帰る用意を済ませて、ひっそりと待っている。
「すみません、遅くなりました」
「お疲れ様です」
先生は嫌な顔をせずに、ニコリと頬を緩めるけれど、手にはしっかりとカバンを握っている。
息子の手を引き、娘を抱っこして、車に乗せて、家に帰る。
すぐに食事の支度をし、子供たちに食べさせる。足にまとわりつく娘を蹴り飛ばさないように気を付けて、茶碗を洗い、保育園での出来事を話す息子に相づちを打つ。
お風呂を沸かし、保育園の荷物を片付け、明日の用意をする。
三人でお風呂に入り、子供たちを寝かしつけるころに、夫が帰宅する。
バタンっ!
玄関のドアが閉まる音が暗く静かな寝室に響く。
ーーもうっ!今、寝そうだったのに!
パチリと目を開けた二人は、起き上がり玄関へ走っていく。
「パパ〜、お帰り」
「なんだ、まだ起きてたのか?明日の朝、起きれないぞ?」
夫は頬を緩めながら、娘を抱き上げ、息子の頭を撫でる。
「そんなの、わかってる。今にも寝そうだったの」
「あぁ、そうか悪い悪い、もう寝てるかと思ってた」
だったら、もっと静かに帰ってきたらいいのに。私は子供たちを寝かしつけることを諦め、オモチャやダイレクトメール、プリントが散らばるダイニングテーブルを片付けることにした。
明日の朝は、きっとグズるんだろうな。
足の裏に貼りついたカリカリの米粒を取って、私はこっそりため息を吐く。
「すみません、点滴、代わってもらってもいいですか?」
ガックリと肩を落としたスタッフが声をかけてくる。
「うん、いいよ。こっちお願いするね」
私は一体、いつから頼まれる側に回ったのだろうか。
出来ない処置も少なくなった。
どうするべきか判断に迷うことも、少なくなった。
「若林さんのドレーンの色がおかしいんですけど、ちょっと見てもらってもいいですか?」
不安げなスタッフから声をかけられる。
若林さん(仮)のもとに行き、吻合部ドレーンを見てみる。
「術後、何日目?」
「四日です」
「他の症状は?熱はある?ちょっとお腹を見せてくださいね」
お腹はぽわりと柔らかい、押しても痛みはない。
ドレーンの色は、やや膿瘍。
「熱は36.8です」
「主治医は誰だった?外来?手術?とりあえず、記録だけして、見かけたら報告しておく?病棟にいる先生にちらっと話してみてもいいかな」
「多分、ラパ下の胆摘に入ってます」
「じゃ、昼頃には病棟に来るね」
「はい」
「若林さん、傷のところの管から出てきている汁が少し気になるので、先生にお話しておきますね」
ニコリと微笑むけれども、心配そうな若林さんの表情は緩まない。
けれども、何も言わずに退席することはできない。患者さんみんなが順調に経過すればいいのにと、本当に思う。
私のしていることなど、本当に微々たるものだ。
……何かの役に立っているのだろうか。私でなければならないことなど、何もない。
プルルルルルルル
ナースステーションの電話はよく鳴る。
外来や他のナースステーションからの内線、そして外線から……。
「斉藤さん、電話です。保育園から……」
嫌な予感が胸をよぎる、申し訳なさそうな目をしたスタッフから受話器を受けとる。
「あ、……ありがとう」
あぁ、朝は何ともなかったのに。
パンダ組の息子の担任の先生からの連絡だった。
「斉藤さん、息子さんですか?」
「うん、熱を出したみたい。ばあちゃんに連絡するわ」
「帰ってくださいって言えなくて、すみません」
「うん、いいの。大丈夫だから、でも今日はパッと帰らせてもらうね」
「はい、この感じだと、早く終わりそうですね」
夫に連絡をしておく、息子が熱を出したこと、もしかすると、娘のお迎えを頼むかもしれないこと。
予定通りにコトが運ばないことなど、日常茶飯事なのだから。
足がだるい。
トイレにいきたい。
喉が乾いた。
お腹が空いた。
私は廊下を早足で進み、ロッカーに向かう。
帰る予定の時刻はとうに過ぎた。
「斉藤さーん、整形の緊急入院をとるね」師長さんのにっこりと笑う顔を見て、私は残業を確信し、夫にお迎えを頼んだ。
81才の女性、自宅の玄関にて転倒。
救急車で来院、右大腿骨頚部骨折、手術目的で入院となった。
「またっ!何でまた整形なんですか?ここは外科なのに」
「しかたないよ、整形、ベッドいっぱいなんでしょ?牽引できるベッド、整形から借りてきておいてね、入院は私がとるから」
「えっ?ダメですって、お子さん熱があるんですよね。早く帰ってあげないと」
「頑張って早く終わらせよう?手伝ってね」
どう考えても、私以外に入院をとれるスタッフはいない。
そういうことが、わかるようになったころには、仕事がたくさん回ってくる。
ふうっと大きく伸びをして、カルテの用意をする。
ERからストレッチャーで運ばれてきた渡辺さん(仮)は、体動時の骨折部の痛みが強く、大きな声を上げている。
「痛いっ!痛いっ!もっと、そっと!」
ストレッチャーからベッドに移動するために体に触れなければならないが、渡辺さんは痛みに顔を歪める。
「ゆっくり行きますよ、一、ニの、三!」
整形病棟から借りてきたベッドで牽引をして、足が変形しないようにクッションで固定する。
本人、およびご家族さんから、連絡先の確認、入院までの経過、今までの入院歴や手術歴、内服薬の確認をする。
安静度や疼痛時の指示、輸液指示の確認をしようにも主治医は手術中。
やっとのことで捕まえた主治医は「俺もまだ診てない」と半ギレ。
ベッド上で動けない渡辺さんからのナースコールは頻回だ。
私は走る。
他に空いている部屋がなかった、ナースステーションから渡辺さんの部屋は遠い。
長い廊下をいったい何往復したのだろうか。
トイレにいきたいなと思ってから、軽く二時間は経っている。
「斉藤さん、後は私がやりますから、ほんとにもう帰ってください」
その声に甘えて、私はやったことやってないことを申し送る。
「ゴメンね、深夜なのに」
「大丈夫です、ハイ」
私は車を走らせて、息子を迎えに実家へと急ぐ。
娘は夫が迎えに行って、すでに帰宅しているはずだ。
「母さん、ほんとにごめんね。あの子、大丈夫だった?」
「あぁ、遅かったね?」
「帰りがけに緊急入院があって、帰れなかったわ。母さんまた、パートを休ませてしまったね。ほんとにごめんね。調子はどうかな?」
「もういいよ。さっき一度起きてきて、トイレに行ってお茶を飲んで、また寝たよ。明日も仕事でしょ?お母さん、明日もパートお休みするって店長に言ってきたから、もう、このまま預かるよ」
リビングの横の和室に敷かれた布団が小さく膨らんでいる。
赤い顔をしてはいるものの、よく眠っている。そっとおでこに触れると、とても熱い。
身動ぎをすることもなく眠る息子を抱き抱え、車のチャイルドシートに乗せれば、目を覚ましてしまうだろう。
そして、明日も仕事だ。休めはしない。
息子にも、母親にも、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
ーーゴメン、本当にゴメン。
私はいったい、何のために働いているのだろうか。
これは、
自己満足なのだろうか。
あぁ、もう、仕事、辞めよう。
後編に続きます。