『ナースと結婚するの夢なんすよね』
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調子に乗って更新してみました。
『俺、ナースと結婚するの夢なんだよね』
口に含んでいたジンジャーエールを飲み下し損ねて、鼻がツンと痛む。吹き出さなかった私を誰かほめてほしい。
目の前の男は小鼻をこれでもかと膨らませ、うっとりと空を見つめている。
ぼんやりと誰に伝えるわけでもなく、ポツリとつぶやく、
『いいよなぁ、優しいし、稼ぎはいいし、病気のときも頼りになるし、親が何かあったときも……』
何を言ってくれちゃってるのかしら?
そんなもの、白衣着用時限定なんだよっ!!
たいして広くはない店内、後ろを通りかかった店員を呼び止め、焼酎の梅割りを注文する。
車は居酒屋の駐車場において、タクシーで帰ることにした。アルコールでも飲まなきゃ、苛立ちをごまかすことなどできはしない。
せっかくの休みをこんなことに使ってしまった自分に腹が立つ。
夜勤明けの更衣室で久しぶりに顔を合わせた後輩の誘いを受けたのは先週末。
ひどく身体が重く、眠気と疲労で冷静な判断が出来ない状態であったのだけれども、
気安く同意した私がバカだった。
駅前の居酒屋で、大振りな唐揚げにかじりつき、生ビールを飲む後輩の知人男性は、夢の実現のためにこの場にいるらしい。
二十代半ばを過ぎて、贅沢は言ってられないとはわかってはいる。
けれども、
私はあんたの夢を叶えてやる気はないっ!断じてないっ!
日、早、休、日、深、休、早、日、深……。
何てことないありふれた勤務。
用事のない休みの一日を家でまったりのんびりと過ごす(しかも、前日は準夜じゃない)
朝、起きて洗濯機を回す、朝日を浴びて、はためく洗濯物たち。部屋を片付け、掃除機をかける。濃いブラウンのフローリングにふわふわと浮かんでいた綿ぼこりをすっかり吸い込むと、なんとも充実感が満ちる。
スーパーに行き、食材を買い込み、冷蔵庫を野菜や玉子、肉などの調理せねば食べられないものでいっぱいにする。
フンフンと鼻歌なんぞ歌いながら、キッチンに立って、カレーなんて作るとそれだけで、満足だったりする。
真っ白な炊きたてのご飯にトロリとルーをかける。
おお、完璧。
そして、食べ終わって気付くのだ。誰がこんなに食べるんだ?と……。
まぁ、なんとかなるかな、なるよね……。
なるわけがない。
朝起きて、夜寝る。
そんな暮らしが続くわけもなく、仕事を終えて帰宅してから、キッチンに立つ余力があるわけもなく、鍋の中のカレーだけでなく、冷蔵庫の食材も、あっという間にその消費期限を過ぎる。
帰宅して部屋のドアを開けて、鼻をつく異臭。そのもとはキッチンのコンロの鍋、カレーだったそれはとても食べものとは思えない臭いを放つ。
ため息混じりに片付けたときに、ふと頭をよぎる冷蔵庫の食材たち。
オレンジの光に照らされたそれらはすでに事切れている。
ほうれん草は液化し、何も変わりがないように見える玉子も、絹ごし豆腐も、パッケージに記された期限は過ぎている。
奥の方からは、黒く縮んだニンジン、ひょろりと芽を出した玉ねぎ、ビニール袋の中からは茶色く変色して半分溶けたキャベツ……。
ちらりと見た開封後のドレッシングの期限に至っては「今、平成何年?」という状態。
今度のごみの日に、ちゃんと捨てようと思って、私はまた冷蔵庫にしまうのだ。
ごみの日である火曜日は、深夜勤務だ。出勤前の夜中に出すのは憚られ、出すべき朝にはいない。
こうしてまた、冷蔵庫の食材はそのままになってしまう。
いつだってそうだ。人らしい暮らしに憧れて、自炊を試みる。
三度の食事どころか、朝起きて夜寝ることのない暮らし、食材を買い込んでも、結局、腐らせてしまう。
そんなことでいっこうに家事スキルは上がらない。
いつもだるい身体をなだめて、職場である市民病院に車を走らせる。
私の勤める外科病棟では、準夜勤務は16時30分から1時15分まで、16時くらいには病棟に行き、カルテを読み情報収集することが暗黙の了解だ。というか、読まなければ仕事にならない。
16時30分から、日勤さんの申し送りを受けて、
いざっ、出陣!
要注意の患者さんから、優先順位を考えて、熱や血圧を測り、ドレーンの排液のチェック、その患者さんに必要な観察を行う。
その間も鳴り止まないナースコール。
夕食の配膳と下膳、配薬に配茶、食事の介助に、トイレ介助。点滴の交換に体位変換、オムツ交換とやるべきことは、はいて捨てるようにある。
布団くらい自分でかけてくれと、思ってしまうが、言葉にも態度にも出してはならない。
駆けずり回るようにして、仕事をこなさなければ、時間内に終わらない。
詰所から聞こえるモニターのアラーム音。
心当たりがある私は慌てて詰所に戻り、モニターの前に立つ。
落ち着いていた血中酸素濃度(SpO2)が低下している。
ーーあぁ、やっぱり今日かな。
浜田さん(仮)は、ターミナル期の患者さんだ。
病気は省略。疼痛コントロールをしながら、緩和ケアを専門とする病院へ転院するために、受け入れ先を探している最中だった。いわゆる、転院待ち。
深夜帯から意識レベルが低下、朝になってから家族が呼ばれた。
日勤帯で、酸素投与開始、呼吸状態は落ち着いているが、予断を許さない。
もちろん、一番に様子を見に行った。
ーーあぁ、ヤバい。
バイタルサインに問題はなくても、なんとなくわかるようになってしまう。
何がどうと問われても明確な答えは出せない、でもいつのころからか、患者さんの命が長くないことに気付くようになる。
そのことがわかるようになるころには、心を揺らすことはなくなっていたりする。
ただ、仕事を終わらすための算段をするだけだ。
私は浜田さんの死がもうすぐそこまで来ていると思ったのだ。
だから尚更、通常業務を素早く終わらせてしまいたかった。
死を予感して、「忙しくなるな」と思うだけの自分は、きっと少しおかしいのだろう。
部屋に行って、酸素の量を増やす。
リザーバーマスクで八リットル、それで値はやっと90台。
高く響くアラーム音を解除して、息を詰めた家族に一言二言、声をかけて退室する。
パソコンの前に座り、電子カルテに入力をしていく。
今のうちにできることはやっておかなくてはならない。
一緒に勤務している伊藤さんが受話器を叩きつけ、ため息を吐いた。
「ごめん、断りきれなかった……。大腿骨の頸部骨折が来るわ」
ーー終わった。今日の残業確定。
患者さんのトイレ介助ばっかりで、自分の膀胱はパンパン。
患者さんの食事の介助はするけれど、自分のお腹はペコペコ。
「……伊藤さん、諦めてゆっくりやりますか」
「ハハ、そうね……。あぁ、もう師長さんってば、何で空床だしちゃうかなぁ?」
ベッドコントロールは師長さんの仕事だ。ベッドの空きがある、入院を受けることができる状態であるということを、あらかじめ、申告してあるのだ。
救急指定病院である以上、緊急入院はやむを得ないとは、わかっている。
しかし、外科ならば、納得ができるのだけれど、なにゆえ、整形なのだ。
「整形はベッドいっぱいなんですか?」
「そうみたいよ?外科にしか空床ないって当直師長が言ってたからね。どうする?……浜田さんはどんな感じ?」
「たぶん、今夜、早ければ準夜、少なくとも日勤までは無理かなと」
「そっか、目が離せないね。じゃ、安藤ちゃんに入院はとってもらうわ。安藤ちゃんのフォローしてくれる?」
「わかりました」
外科病棟がどんなに忙しくても、否応なしに取らされる緊急入院。しかも、他科。
ため息どころではない。
お団子にしてある髪がほつれ、文字通り髪を振り乱してパタパタと走っている安藤ちゃんに入院を依頼する。
「安藤ちゃん、整形の緊急が来るからよろしく。コールは私が対応するわ。検温は回れた?」
「は、はい。せ、整形ですか……」
「大丈夫、何とかなるよ?」
二年生の安藤ちゃんは不安げに視線をさ迷わせる。
「はぁ」
「お腹、空いたね。今のうちにちょっと水分取って、何かお腹に入れてこようか」
「はい」
安藤ちゃんと連れだって、休憩室で立ったまま、お茶を飲み、誰かのお土産の饅頭を口に放り込む。
「さて、頑張りますか」
「はい」
血糖値を上げて、気分転換をはかるけれど、あまり上手くはいかない。
詰所で響くアラーム音。
真っ直ぐに伸びる心電図の波形。
時刻は午前0時すぎ、浜田さんの心臓はその鼓動を止めた。
当直医によって、死亡宣告がされる。
「安藤ちゃん、私と伊藤さんでエンゼル入るね。コール頼むね」
安藤ちゃんは緊急入院の患者さんの入力をしながら、コクリと頷く。
浜田さんの腕を手に取ると、しっとりと冷たい。もう二度と動くことのない身体はまさに、脱け殻という言葉がぴったりだ。
決して短くはない闘病期間を思わせる、落ち窪んだ目元、細い手足、ぽってりと丸い腹部、ひとつひとつ、拭き清めていく。
真新しい寝間着を着せて、ひげを剃り、髪の毛を押さえつける。
色をなくした頬にチークをのせると、ほんのすこし、本当に少しだけ、浜田さんが微笑んだように見えた。
私はそんな浜田さんを見て、なぜか少しホッとした。
すでにやってきていた深夜さんに申し送りを済ませ、残った業務を片付ける。
全てが終わって休憩室に入ったときには、2時を過ぎていた。
スチール椅子に座ってしまうと、もう立てない。
まだ終わらない伊藤さんをぼんやりと待つ。コーヒーをすすりながら、饅頭を手を伸ばす。安藤ちゃんは椅子に座って、鞄の中をがさがさしている。
はぁっと大きくため息をつきらながら、伊藤さんが休憩室に入ってくる。
「お疲れ様です。今日、ほんとにくたびれましたね……。もう帰るのもしんどい。きっと、帰ったら動けないですよ。伊藤さんは朝、起きるんですか?」
「え?あぁ、子供のお弁当とか旦那がしてくれるから、私は寝てる。起きれるわけないじゃん。結婚するなら、なんでも家事してくれる人にしなよ?」
「そんなもんですか?」
「家族が協力してくれないと仕事を続けるなんて無理だからね。子供が小さいときは保育園の送り迎えなんかもしてくれてたし、家事なんでもできるよ?」
「私は、お金持ちと結婚して、専業主婦したいです」
「ハハハ、そんなの一週間もしたら、飽きちゃうよっ!ムリムリっ!……あ、安藤ちゃん?大丈夫?」
力尽きたのか安藤ちゃんは鞄を抱えて、椅子に座ったまま、フリーズしている。
「あ、は、はい、大丈夫です」
「どうしたの?」
安藤ちゃんは水色の封筒を手にしている。中身を確認して、固まっていたらしい。
「カードの引き落としがえらいことになってます……」
「あー、使っちゃった?」
「……深夜明けで買い物に行ったんですけど、呼内の同期と一緒に。もうすぐボーナスだし、買っちゃえ!!って……。買いすぎました。マジでヤバいです」
「深夜明けの買っちゃえ感って、本当にダメよね」
睡眠不足と疲労は、正しい判断能力を奪うのだ。よくわからないままに、妙なテンションで、やたらと購買意欲が高まることが多々ある。
深夜明けの買い物はひとりで行っても危険だけれど、ふたりで行くと危険度は格段に上がる。
しかも、カード払いは財布からお金が出ていかないぶん、傷が深い。
呆けた安藤ちゃんと、眠そうな伊藤さんと更衣室で別れて、車に乗る。
信号はどれも、点滅しており、あっという間にアパートの駐車場。
ドアを開けて、ソファーにバックを投げ捨てると、そのままシャワーを浴びる。ここで座れば、立てなくなる。
タオルで髪をガシガシ拭いて、ソファーに身を投げる。
身体はソファーに沈み混むように重く、指先さえも動かせない。
けれども、意識ははっきりとしており、眠気は感じない。
掛け時計の刻む秒針の音と、冷蔵庫のモーター音だけが聞こえる。
こんなことをしていても仕方ないので、大きく息を吐いて、身体をおこし缶ビールのプルトップを開ける。
喉を落ちていく、冷たさと痛みにも似た刺激。
時計は午前3時半を回っている。
今から、寝て起きたら、きっと昼過ぎだ。
野菜は腐らせる。
ゴミは捨てられない。
朝はいない、もしくは起きない。
夜明け前だろうとビールを飲む。
昼間から飲むことだって実はある。
深夜明けに散財する。
ちなみに、私に貯金はない。
誰か嫁に貰ってくれるのかっ?!