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『いいよね、就職、困らないって』

『いいよね、就職、困らないって』




 私は口に含んでいたパスタを危うく、吹き出してしまうところだった。


 皿に盛られたトマトスパゲッティ、フォークで巻き取ると、思いの外、大きかった。見られて困る相手がいるわけでもない、私は大きく口を開けて、パスタを一気に食べた。

 モグモグ、咀嚼しているときに、目の前の女から投げかけられた言葉。


 仕方がないことなのだ。

 確かに、就職活動はすぐに終わったのだから。


 考えてみたことがあるのだろうか。


 ーーどうして就職に困らないのかを。




 駅前の居酒屋は、居酒屋なのにトマトスパゲッティが意外と美味しいことに最近、気がついた。

 店の自慢の一品は唐揚げなのだけれど。



 高校を卒業してから、早くも七年。友人に誘われて、久しぶりに会う同級生たちはそれぞれの道を歩んでいる。


 目の前でウーロン茶のグラスをつかむ、彼女の繊細な飾りの施されたネイル、その左手の指にはシンプルなリングが煌めいている。


 ーーいやいやっ!永久就職してるでしょ?!



 よっぽど羨ましい。


 彼女がどんな意図を持ってあの言葉を吐いたのか、皆目見当もつかない。

 私の記憶に間違いがなければ、彼女は地元の短期大学に進んだはずだ。

 学科は知らない、就職先も知らない、ちなみに結婚していることも、指輪から知った。


 彼女とは、同じ高校に通っていた。それ以外に共通点はないのではないだろうか。



 口一杯のスパゲッティがやっと、喉の奥に押し込んだとき、重ねて彼女は言う。




『あーあ、私も看護婦になればよかった』



 彼女はきっと何も知らないのだろう。

 看護学校の大変さを、実習の辛さを、そして仕事の厳しさを。


 きっと、働く看護師のほとんどが同じことを思っている。



 ーーもう二度と実習はしたくない。





「今からでもなってみたら?年上の人もいっぱいいるよ」


 同じ土俵に上がってこい。

 そして、同じことを言われたらいい。



『えーー、絶対ムリー。私、血とかダメだし』



 看護師として働いて三年と少し。血まみれや血みどろの経験なんてない。


 うふふ、と私は笑ってごまかし、言葉を飲み込むために梅酒ソーダのグラスを握る。



 春がきて、汗ばむ陽気になっても、私の手が滑らかになることはない。爪はいつだって短く切り揃えられ、指先はカサカサでささくれだっている。


 この手に繊細なネイルをすることがあるなら、それは少なくとも二年後、もしくは宝くじが当たったときだ。





 人口は20万人に満たないこの地方都市には、看護師のための奨学金制度がある。

 看護学校に通う資金を援助してくれる。しかも、ある条件を満たせば、返済の必要はなくなるのだ。


 市民病院で五年間勤務。



 簡単じゃないか。なんていい条件なのか。両親は必要がないと言ってはくれたが、下に二人の弟がいることを考えれば、私にお金がかからないほうが、好ましいことは容易に察することができた。

 そして、私は奨学金制度を利用して看護学校に通い、看護師免許を取得、市民病院に勤務しているのだ。


 俗にいう、お礼奉公。



 五年以内にやむなく退職する者もいる。

 もちろん違約金が発生するのだ。



 多額ではないが、少なくはない。



 もう少し、もう少しだけ頑張ろう。

 もう少しなら、頑張れる。





 私は疲れの抜けきらない体を引きずって、病院に向かう。




 私の勤務する外科病棟は、大きな手術から小さな手術を全て合わせると、年間1500件を越える。


 今日は、胃全摘、結腸切除、乳房全摘が二件、虫垂摘出。

 入院の患者さんは五名、そのうち、三名は当日手術。


 朝礼と申し送りを終え、患者さんの清拭にまわる。

 患者さんの自立度に合わせて、介助する。

 手術の後、ベッドで寝てばかりいてはいけない。


 早期離床、看護師には当たり前のことでも患者さんにとっては、当たり前ではないのだ。




 68才の男性。井上さん(仮)病気は省略。今日は手術後三日め、そろそろ尿道留置カテーテルを抜去して、歩いてトイレまで行かねばならない。

 しかし、それを井上さん(仮)は拒んでいるのだ。



「動けるわけないだろうっ!痛いんだ」


「傷の痛みは日にち薬ですからね、少しずつ楽になると思いますよ。痛みが酷い間はお薬を使って、動ごきましょう。動かないと別の病気になってしまいますよ?」


「歩いてトイレなんぞ、行けるわけないだろう?出来るなら言われる前にやってる」


「……そうですね」


 答えになっていない、私は曖昧に笑ってベッドにどっかりと横になっている彼の背中を拭いておく。


 きっと、もっと言葉を尽くして彼に離床の必要性を話し、理解していただかなくてはならないのだろう。


 彼の腹部には縦に15センチ以上の傷がある。指先をほんのすこし切っても痛いのだ。痛くない訳がない。絶対に痛い。


 しかし、動かなければに合併症を予防することが難しい。


 離床の必要性を細かく丁寧に話しても、実際に行動しなければならないのは、患者さん自身なのだ。

 私の言葉に耳を傾けて受け入れていただく努力をいつから出来なくなったのだろう。

 寝間着を着替え、シーツを整える。汚れたタオルや寝間着をたたみ、ベッドサイドにおいておく。

 井上さん(仮)はふうと大きく息を吐き、小さく呟く。


「水」


「はい?」


「水っ!」


「飲水の許可はでていますか?」


「いいって言ってるだろ」


「そうですか。私は聞いていませんでしたので」


 朝の申し送りでも、カルテにも飲水の許可はなかったけれど。

 私は彼の言うままに、棚から水のペットボトルを出して、コップに注ぐ。


 自分で十分できることなのだ。

 けれども、私はそれを唯々諾々と従う。これはきっと私の怠惰なのだろう。


 自分で出来ることは自分でする。ここはホテルではない、病院なのだから。

 私はその説明を怠った。よくわかっている。






 詰所にはパソコンが並んでいる。

 15年ほど前からカルテは電子化され、紙はほとんど使わない。紙を使ってもスキャナーで読み取り電子カルテに保存される。


 パソコンに馴れない年代には、かなり難しいらしいが、紙のカルテを知らない私には何の不自由はない。


 50代の看護師の伊藤さんは、今も二本の人差し指を駆使してカルテに記入している。


「あー、佐藤ちゃん。井上さん、管抜いた?」


「半切れで、スルーされました」


「あれあれ、明日は抜くよって話してあったんだけどな。私、また昼から話しするわ。入院さんがずいぶん前から来てるから、早く行かないと」

 かじりつくように向かっていたパソコンから、ふっと顔を上げて、伊藤さんは微笑む。

 生え際には少し白髪の混じる髪をひとつにまとめ、丸い顔にはいくつものシワが刻まれている。自分の母親と変わらない伊藤さん、三交代勤務を30年以上続けている彼女はそれだけで尊敬に値する。






「お待たせしてすみません」


 入院患者さんは、79才の女性。病名は省略、手術を明日に控えた、ぽってりと丸い背中の山川さん(仮)。


「そっちが10時に来いっていうから、来てるのに、一体いつまで待たせる気なの?」どこかの会社の制服なのだろうか、白いブラウスにチェックのベスト、紺のタイトスカートとローヒールのパンプス。

 苛立ちを隠そうともしない瞳は射るように私を見つめる。


「本当にすみません」


 この人は一体誰なんだろうか。きっと家族さんなのだろう。

 私がリノリウムの床を見るのは、彼女の視線を受けきれないから。


「私、今から仕事なの。帰ってもいい?いつまでここにいなきゃいけないの?」


「すみません、今日の15時に外科の主治医から手術についての詳しい説明があります。家族の方にも同席をお願いしております。ご都合はいかがですか」


「そんなの聞いてないし」


「……難しいですか。いつならいいですか?手術は明日になりますので、それまでにはお話を聞いていただかなくてはなりません」


「はあ?それならそうと話してくれればいいでしょう?」


「外来で聞いていませんか?話していると思いますが」


「……聞いてないし」


「すみません……」


「で?何時に来たらいいの?」


「15時です。……主治医も外来や手術がありますので時間は多少前後するかと思います」


「……。」


「よろしくお願いします」

 私は微笑みを貼り付けて、また床を見つめる。




 いつだってこうだ。


 病院の事情など患者さんにはわからない。10時と言えば10時なのだ。遅れるならば、そう言わねばならない。

 患者さんの家族にとっては忙しい日常生活を変えることは耐えがたいことで、また不安を誘う。


 外来で説明はしているとは思うが、患者さんは覚えきれないし、正確には伝えられないのだろう。



 苛立ちや不安を何かにぶつけないと気持ちの整理がつかないことはある。

 家族が病気になり、入院して手術をしなくてはいけない。今までの生活を一変させる大事なのだ、動揺するなというほうが無理なのだろう。



 それを受けるのは、いつだって私達なのだ。



 連絡先の確認、入院までの経過、既往症、内服薬などを聞き取り、手術までの予定、準備物の説明をし、退院までの経過を大まかに説明する。

 チクリチクリと言葉が私の心を蝕んでいく。

「個室をお願いしてありましたよね?」


「すみません、ベッドコントロールは師長がしております。今はいっぱいで空いておりません」


「ずいぶん前からわかっていたことでしょう?」


「そうですね」


「病気がわかってから手術までどれだけ待ったと思ってるの、これで病気が手遅れになったら……」


 たいていの患者さんは、外来で癌の診断を受け、手術の必要を話され、それから実際に入院、手術まで平均で1ヶ月、緊急性がなく、命に関わらない病気の場合は2ヶ月から3ヶ月ほど、待つのだ。


 その時間はとても長く辛いことは、容易に想像ができる。



 ーー私に言われてもね


 やっぱり私は曖昧に笑う。






「佐藤ちゃん、井上さんの管、私抜いたからね。またコールあったらトイレ誘導してあげて、……佐藤ちゃん、目が死んでるよ?」

 伊藤さんはパソコンから手を止める。




 いつでも辞められる。

 辞めても、仕事が見つかる。


 奨学金の返金もなんとかなる。


 大丈夫。



 私に逃げ道がある。

 そうじゃなきゃ、やってられない。



 体力的にも精神的にもこの仕事はきつい。辞めていく人も多い。

 だからこそ、看護師は就職に困らない。



 いつだって、辞めてやるっ!



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