『看護師って、結構もらってんだろ?』
終盤、非常にひどいことになります。
お食事中の方はもちろん、そうでない方も気分が悪くなるかもしれませんので、ご注意下さい!
……ほんとに。
『看護師って、結構もらってんだろ?』
私は口に運ぼうとしていた唐揚げをボトリとテーブルに落としてしまった。
お刺身じゃなくてよかった、お醤油が服に跳ねてしまうから。
落ちた唐揚げに全く罪はないが、苛立ちを込め箸でプスリと刺して、大口を開けて一口で食べた。でないと言葉を飲み込むことが出来ない。
世の中にはゴールデンウィークという休みがあるらしい。
人口20万にも満たないこの地方都市の市民病院で、看護師として働きはじめて、早五年。
曜日の感覚も、祝日の感覚も、すっかりなくしてしまった。
盆休みも正月休みもないのだ。
5月の始めに、ちまたの企業は一週間近くも、休みがあるという。
看護師には、まるで関係のない話。
休日は四週に八日、年休なんていうものは丸々捨て去るもので、唯一の楽しみは年に一度の一週間のリフレッシュ休暇。
それ以外の長期休暇は全くない。
忌引きさえも怪しいのが、現実だ。
しかも、休日に委員会だの、研修だの、カンファレンスだのと、なんだかんだと休日返上。
そんな貴重な休みをこんなことに使ってしまった自分がほんとに嫌になる。
こんなことなら、家で寝てたほうがよかった。
この頃はとても便利だ。
スマホのアプリをインストールしておけば、ゴールデンウィークを利用して帰省するらしい地元の友人達の飲み会に誘われたりする。
便利かどうかは、正直微妙だけれど。
五年か、六年ぶりにあった友人達は、代わり映えもなく、心ときめく人がいるわけでもない。
私は駅前の居酒屋で、店の自慢のいっ一品という唐揚げにかぶりつこうとしていたとき、同級生の男が酔っぱらった勢いで投げつけた言葉。
『結構もらってんだろ?』
はっきり、いいます。
この酔っぱらいが、いくらもらってるのかさっぱり知りません。
けれども、多分、私の方が稼いでますよ。
普通の事務員さんよりも、アパレルの店員さんよりも、ええ、貰ってますよ。
ついでに言いますと、同年代の男子にも負けませんよ。
そりゃ、医者とか弁護士とか、そんな高給取りには、遠く及びませんけどね。
でもね、私、地方公務員なんです。
看護師としては、すごく低賃金で働いてます。基本は公務員なんで、市役所とか税務署とかの職員さんと変わらないんですよ。
ええ?夜勤手当てがあるだろうって?
ありますよ、あります。
準夜勤も深夜勤務も、びっくり価格、五千円前後ですよ?
あまりに少なくて細かい数字は記憶から消し去ってしまいました……。
個人病院なんかは、一回、諭吉様複数、なんてところもあるらしいですけど、私の勤める病院はなぜか安い。
この差は何なんですかね。ほんとに不思議ですよ。
スマホのアラームは、容赦なく鳴り響き、私を眠りの淵から呼び覚ます。
日、日、深、準、休、早、日、深、日……。
たいして、珍しくもない勤務なのだが、きっと身震いをしたのは、看護師だけなんだろう。
一般市民にはこの恐ろしさが、微塵も伝わらないことが、もどかしくて仕方がない。
準夜勤で帰宅するのは、ちょっと残業するだけで2時を回り、シャワー浴びて、ベッドに潜り込むころには、3時。眠って目が覚めると、すでに昼前だ。
ノロノロとベッドから這い出して、身支度を整え、食料調達にスーパーに向かう。
買い物を終えて、帰宅、食事の支度を簡単に済ませ、テレビに向かい1人食べれば、あっという間に夜になる。
これにて、休日は終了だ。
しかも、明日は早出。外科病棟で早出の勤務は7時から3時45分までだ。
朝はいつもより、一時間以上、早く出勤せねばならない。
もう寝よう。
しかし、二十歳も半ばを過ぎた辺りから、寝つきが悪い。というか、まだ起きてから12時間、経ってませんから。
とりあえず、ベッドの中でだらたらとスマホを片手にテレビを眺めてうとうとするのだ。
最近は暖かく、日の出も早いけれど、冬の早出は恐ろしく寒く、暗い。
いやっ!これまだ夜勤でしょ?って思いながら、車を走らせる。
あわただしく、走り回る素っぴんの深夜勤務者から、すがるように見つめられて、出勤早々、認知症の鈴木さんと行動を共にすることとなる。
鈴木さんは柔らかな笑みを浮かべ、食事を待つ。
がっしりとした肩と太い首、四角い顔のつぶらな瞳は黒目がちで、キラキラと光っていて、大型の草食動物を思わせるのだ。
車イスに座る彼とともに、各部屋を回り、患者さんの顔を拭き、口腔ケアを行い、同時に食事ができるよう体位を整える。
食事を配って回り、鈴木さんも食事を始める。ゆったりと匙を運ぶ彼を部屋において、私は別の患者さんの食事の介助を行う。
物を噛んで飲み込むという動作は実に複雑で難しいのだ。高齢になると筋力が衰えることは想像に難しくないと思う。同じように、飲み込む筋力も、噛む筋力も低下するのだ。
私が食事の介助をするのは、田中さん(仮)85才、女性。病気は省略。食べることに意欲的な食いしん坊さんなのだ。
入れ歯は彼女の口に全く合わず、カタカタ鳴るところがかわいらしい。
病院で用意することのできる食事は多岐にわたる。
糖尿病食、高血圧食、腎臓病食、幼児食……。
そして、飲み込みの程度にあわせて、様々な食事があるのだ。
ちなみに田中さんの食事は全粥と極きざみ。お茶などの水分はとろみつき。
荒みじん切りになったお浸しを匙にすくって、口元に運ぶ。
パクリと食べる姿は、鳥の雛を思わせる愛らしさ。
しかし、油断は禁物だ。
田中さんは、時折むせるのだ。
彼女の正面には決して立ってはならない。
食事の介助は目線の高さを合わせ、横にいるのが基本だけれど、ゆっくりまったり彼女だけに関わることができるほど、朝の病棟にスタッフはいない。
ナースコールが鳴るたびに、口を開ける田中さんにしばらく待ってもらうのだ。
そして、用事を終えて、彼女の口元にまた匙を運ぶ。
何度目かの中座から、戻ってきたそのとき。
ゲホっ!ゲホゲホゲホっ!
みなさんはご存知だろうか?
咳でどれくらいのこめつぶが飛ぶのかを。
二メートルだ。
私の右半身はこめつぶと味噌汁のワカメを浴びた。
ーー白衣の着替え、あったよね……。
田中さんに、全く悪気はない。
飲み込む筋力が衰えることも、たまたまむせたときに、たまたま私が前にいただけなのだ。
鈴木さんも食事を終えているだろう。
すぐにでも、行きたかったけれど、ナースコールは鳴り止まない。
朝早くから、食事の介助のために来てくれる家人、本当にありがたい。
ナースコールでの呼び出しは、オムツの交換の依頼。
それはもちろん、私の仕事だ。
ーー食べれば出るよね。
私の顔よりも大きいオムツをバサリと広げ、たっぷりと排泄された、ソレが乗ったオムツを片付け、汚れたお尻を拭き、新しいオムツと交換するのだ。
もう、その臭いを鼻に感じても何も心を乱されることはない。
ごくありふれた臭いなのだ。
衣服と体位を整えて、その部屋を後にする。
鈴木さんが待つ(待っているかどうかはわからないけど)部屋へと急ぐ。
くるりとベッドの周囲に引かれたカーテンに手をかけるときに、私は躊躇した。
ーーあり得ないくらい臭う……。
ベッドの上には、鈴木さんが少し困ったように微笑みを浮かべていた。
ーー全裸で。
きっと気持ち悪かったんだと思う。
お尻に挟んだままなんて、きっと嫌だったんだと思う。
ーーあぁ、オムツ脱いじゃったのね、ベッドの上で。
シーツにべったりとついているのは、泥だんごではない。
彼の手が茶色いのは……、ベッド柵が茶色いのは……、あり得ないくらい臭うのは……。
私はナースコールを押した。
とても1人で何とかできるレベルじゃない。
はーい、どうされましたー?
すみません、手伝ってください……。
…………行きます。
私は何から手をつければいいのか、わからずにしばらく、呆然と立ち尽くしていた。
私の後ろで、ひっ!と小さく叫ぶ声がして、振り返ると頬をひきつらせた日勤さんがいて、もう、8時半過ぎたんだなと思った。
彼は何も悪くないのだ。
ただ朝ごはんを食べて、胃直腸反射が昼夜逆転してるにも関わらず、ばっちりあって、オムツの中のソレは非常に不快だったのだろう。
だから、脱いだ。
それだけのことなのだ。
まだ、仕事は始まったばかりだ。
一時間半しかたっていない。
ダメか?
私が事務員さんより、アパレルの店員さんよりも、たくさん給料をいただいては、ダメですかね?
誰か教えてください。