看護婦さんとは結婚させられない
『看護婦さんとは結婚させられない』
ちょっと待て。
今、なんて言った?
意味がわからない。
はあ?
私は、から揚げが一番のおすすめという居酒屋の片隅で、意外にも美味しいトマトスパゲッティをワクワクと待っていた。
私が送り届けることは、暗黙の了解、目の前の男は、生ビールを片手にため息まじりに呟いた。
『母さんがさ、そう言うんだよな』
困り切った様子の彼は付き合って3年になる同級生。大学院を卒業して就職したのは、2年前。1年は遠距離恋愛、地元に戻って就職した彼とのお付き合いは、私としては順調だったと思っている。
浮気をされたことも、したこともない。喧嘩は時々するけれど、まずまず、仲良くやってきた。お互いの友人たちも結婚していき、徐々に意識し始めた頃、彼の家族にも紹介された。
明るく優しいお母さん、寡黙だけどお酒を飲むと少しだけ話をしてくれるお父さん。しっかり者で早くも結婚している妹さん。
……上手くいってなかった?!
何度かお家にお邪魔したよね?
私、何かやらかしましたか?
そんなことないよね?
お母さんはニコニコ話してくれましたよ?
いやいや。
もしかしたら、これは夢なのかもしれない。
うんそうだ、タチの悪い夢なのだ。
きっと、連続勤務で身体だけでなく、心もどうかしてしまって、おかしな夢をみているのだ。
はて、どこからが夢なのだろうか?
先月の私の誕生日にプロポーズされたことも夢か?
いや、まて
もしかして、3年前から付き合っていることも夢なのか?
ふと、目を落とすと
安い居酒屋の中途半端な蛍光灯のあかりを受けて、キラキラと輝く指輪。
勤務中は絶対に身につけることができないから、デートのときは必ず指に通す。
先月の私の誕生日、
もう三十路も目前、世間では間違いなくアラサーと言われる。
友人たちは、次々に結婚していった。
先々月は、式に呼ばれた。
来月は、式に呼ばれている。
ウキウキと参列できたのは、もちろん自分に当てがあるからだ。
あり得ないくらいピカピカに着飾り、眩しく微笑む彼女たちを心から祝福できた。
ーー末長くお幸せに
なんて、言って笑えた私はもういない。
「あぁ、そうなんだ…」
あまりの衝撃に間の抜けた返事しかできなかった。
今にして思えば、もっと言ってやればよかったこと思うことがいっぱいある。
なんで看護婦なんだ?看護師でしょ?とか…。
それ以来、彼からの連絡が途絶えたのは、
やはり、そういうことなんだろう。
いつものように、彼は自宅の前で降りて、助手席のドアをバタンと閉めた。その音だけがやけに思い出される。
ーーもう、終わったのか?終わったのだろう。
三年という月日を過ごし未来を約束した私、偉大な母、答えは明白。
そんな感傷に浸る暇など私にはない。
準、準、休、日、早、日、深、準……
地方都市の市民病院の外科病棟。
雨が続いていたけれど、季節外れの台風が梅雨を連れ去り、強い日差しを迎えいれた。暑さの厳しい日が続く。しかし、24時間空調によって快適な温度に保たれた病棟では、季節はもちろんのこと、時間さえもわからなくなる。
容態の急変に緊急入院、大荒れの深夜勤務から、業務を引き継いだが、荒れた空気を払拭することはできない。
パソコンの前に座ることもできないまま、時間だけが過ぎていく。
記録を後回しにして、検査の準備に、送り出し。入院のアナムネ(聞き取り)をして、手術出し、トイレ介助に、オムツ交換、ドレーンの廃液回収、点滴交換。鳴り止まないナースコール。
やるべき仕事は有り余るほど。
今の私にはちょうどいい。
余計なことを考えなくていいから。
ホッと一息ついたのは、
すっかり定時を過ぎて、業務を準夜勤務に引き継いでからだった。
カタカタとキーボードを叩く。
隣のパソコンに向かっているのは伊藤さん、定年まで十年もない、勤務歴三十年以上の大ベテランの大先輩は、二本の人差し指で器用に入力していく。
ふいにその伊藤さんの手が止まる。
「斎藤ちゃん、今日この後、一緒にご飯食べに行かない?」
目を細めて、ニコリと笑う。何か用事があるならまた今度ねと。
「え…、はい、特に予定はないです」
「じゃ、パパッと終わらしちゃいましょ」
伊藤さんと連れ立ってやってきたのは、病院からほど近い、カウンター席とテーブル席が三つしかない小さな小料理屋。
私ひとりでは、とても暖簾をくぐることはできまい。
目の前に置かれた突き出しは、美しい器に盛られていた。
どさっと積まれた冷凍の枝豆などではない。
柔らかな滑らかなオクラの梅肉和えは、私の喉をするりと降りていく。柔らかな酸味は大人の味。
伊藤さんは、焼酎を水割りでちびちびと飲んでいる。
「で?どうしたのよ?斎藤ちゃん?」
「……はぁ、フられました」
「え?プロポーズされたって言ってたよね?」
「彼のお母さんが反対して……。看護婦はダメだって」
私が看護師じゃなかったら、反対されなかったのだろうか。
いつだって辞めるのに、彼が望むのなら、今すぐにでも、辞めるのに。
二度と病院で働いたりしないのに。
なんなら、ウエイトレスにでもなろうか、秘書検定だって受けてもいい、医療事務でも、パティシエでも、彼と一緒に居られるのなら、何にだってなるのに。
「……あれだね。手塩にかけて育てた可愛い自慢の息子さんなんだね」
「…?」
「きっと、彼のお母さん、専業主婦かパートじゃないかな?」
「えっと、確か事務を、建築事務所のパートです」
「ふーん、そっか。そのお母さんはさ、大事に大事に育てた可愛い自慢の息子を粗末に扱われたくないんだよね。自分は、息子に茶碗を洗わせたり、洗濯させたり、家事なんてさせたことないわけよ。その息子がよ、別の女に、まぁ嫁さんに、アレコレ家のことをさせられるのは、嫌なんだよね」
「辞めるのにっ!」
「ははは〜、斎藤ちゃん、力入りすぎっ!」
「辞めます、仕事なんて辞める、明日にでも辞めます」
「まぁ、無理なんじゃないかな。斎藤ちゃんが仕事を辞めるって言っても、あれこれ難癖つけてくるよ?まぁ、つまり彼のお母さんから合格もらえなかったってことよ、厳しいこと言うけど」
酷い、それなら、看護師はダメではなく、私がダメだと言って欲しかった。
「息子の手前、斎藤ちゃんじゃ、ダメだって言いにくいかったんじゃない?」
私の考えを見透かしたように伊藤さんは言う。
どうして私は看護師になってしまったのだろう。
看護師にならなかったら、彼と結婚できたのだろうか……。
味なんてわからない。
やたらと飲みやすいお酒を一気にあおった。
斎藤ちゃん、飲め飲め。
伊藤さんのつぶやきが聞こえた。
詰所のモニターが規則的なリズムを響かせている。
昼間の騒がしさから、消灯を迎えると、打って変わって、しんと静まり返る病棟。
消灯時刻を過ぎて半分に絞られた照明。夜勤のスタッフだけの人気のない詰所。
しかし、患者さんが眠っていて静まり返っていても、やることは山ほどある。
私はパソコンのモニターを見つめながら、ポチポチとマウスをクリックする。
明日(正確には今日)の検査、手術、入院などの予定の確認をして、詰所のホワイトボードに書き込んでいく。
看護師の仕事は、ミスは許されない。
例え、私たち看護師がどんなにくたびれていても、どんなに眠くても、どんなに忙しくても、どんなに悲しくても虚しくても、ミスは許されない。
どんな小さなことも、確認をする。小さなミスが重なり合って大きなミスにつながるのだから。
誰がどの様にしても、間違いが起こらないよう、何度も確認する。
ひとつひとつ丁寧に行う。
ミスを防ぐための確認作業は煩雑であるけれど、患者さんだけでなく、看護師にとっても必要な、大切なことなのだ。
私たち看護師の身を守るために。
医療事故を起こすこと。つまり、大きな失敗をするということは、職を失うということで、再就職すら厳しくなる。
右手にあるマウスがうまく動かない。
なんでレーザーでもなければ、ワイヤレスでもないんだ。
コードがデスクで絡みつく。
ーー仕事、辞めたい…。もう、嫌だ。
思わず大きなため息がこぼれる。
ナースコールが響き、私はライトを手に詰所を後にする。
薄暗い廊下に私の足音だけが鳴る。
「おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」
夏至を過ぎた朝の病棟は、患者さんの検温を始めるころにはすでに明るい。
丁寧にかつ、手早く、必要な観察や、処置を行い、記録していく。
微笑みを浮かべて、小さなことを見落とさないように、注意を払う。
眠いとか、お腹が空いたとか、体が怠いとか、足が臭いとか、そういったことは、全て隠して、私は笑う。
ーー辞めたい。
でもそれは、患者さんには何の関わりもない話なのだから。
それは、失敗していい理由などにはならないのだから。
私は笑う。
「おはようございます。今日は気持ちのいいお天気ですね」
白衣を脱いで、病院から一歩、外に出ると、蝉が鳴いていた。植えられたマテバシイを見上げると、真っ青な空に白い雲が浮かんでいた。夏休みの宿題の絵のような景色。
もう、夏だ。
外来の受診、退院の迎え、入院の付き添い、たくさんの人が行き交う。
私は誰も待っていない部屋に帰るために、やたらと遠い駐車場に向かう。
「…奈津」
ーーとうとう、幻聴が始まったか、ヤバイな。
このまま、耳鼻科に行ってこようかな、…いや、メンタルクリニックか?どこかいいとこあったかな、誰かに聞いておけばよかったな。
「奈津!」
振り返るとそこには、先日から音沙汰のない、そこにいるはずのない、私を振った男がいた。
「孝司?」
ーーはぁ、幻覚かよ、マジヤバイわ
「おう!お前、全然捕まらねぇな」
額の汗を短い袖口で拭いながら、彼は頬を緩める。
「私のこと、お前って言わないで」
「そこかよ……」
どうやら、幻覚ではないらしく、彼は私の目の前に立っている。
「どうしたの?」
言いたいことも、聞きたいこともたくさんあるのに何も言葉にならない。
朝から照りつけた太陽、昼を前にして気温はぐんぐん上がっている。
一体、いつから彼はここにいたのだろうか、いや、どうしてここにいるのだろうか。
「携帯、落としたんだよ」
「……はあ!?」
「この間、飲みに行ったときに、おま…、奈津に送ってもらって、帰ったらなくてな。連絡しようにも、携帯の番号わからねえし、アドレスもわからねえし、部屋に行ってもいつもいない」
やっと捕まえたと、孝司は笑った。
目の奥が熱いのも、鼻がツンとするのも、きっと夜勤明けでヘトヘトだからだ。
「…私の番号くらい、覚えておいてよ」
「ほんと、そうだな」
彼は私の手をそっと引いて、歩き始める。
ーーお母さんが反対してるんでしょ、看護師とは結婚できないんでしょ
でも、私は繋がれた手を振りほどくことはできない、その思いを言葉にすることもできない。
「あっちーな、かき氷、食べに行こうぜ。向こうの駐車場に停めたんだよ、近くはいっぱいになってたんだよなぁ、奈津の車はどこらへん?」
「…あの建物の向こう」
「えっ!?マジかよ、遠いな。まだ俺の方が近いな」
彼は私の手をぎゅっと握って、道を渡る。
ーー看護師とは結婚できないんでしょ
「どした?」
私の思いは、言葉にしなくてもこぼれてしまうのだろうか。
彼は立ち止まり、俯いた私の顔をのそぎこむ。
「……もう、いいよ」
「ん?何が?どうかしたか?」
「私とは、結婚できないんでしょ」
「え?何で?…もしかして連絡するの遅すぎたの、怒ってんの?いや、二週間はさすがに長いけど、出張があって仕事バタバタしてたんだよ。悪かったて」
「二週間じゃないし!20日だよっ!……違う」
「ん?違うなら何?」
「お母さん、結婚に反対してるって」
「ん?」
「看護師とは結婚させられないって」
「あぁ、そんなこと言ってたなぁ」
「言ってたなぁじゃない!!」
鼻の奥がツンと痛い、視界が滲む。ポタポタと涙が頬から流れ落ちる。
「な…泣くなって」
一度、溢れてしまった涙は、止まることなく頬を伝う。
彼は、私の頭をポンポンと撫でると、ゆっくりと手を引いて歩き出し、熱気のこもった彼の車にそっと乗せられた。
勢いよく吹き出した熱風は、すぐに冷たい風に変わり、私の涙を乾かしていく。
「奈津、大丈夫だって。結婚するのは俺だし、母さんは誰でも心配なんだよ、ちょっと文句言ってみたかっただけだって。気にしなくていい」
そんなことなら、私に言わなくていいじゃないと彼に言いたかったけれど、嗚咽に混じって言葉にならなかった。
「奈津、そんなこと気にしてた?そんなに望まれてた俺?いやー、俺って愛されてるね」
ーー殴っていいよね?うん、きっといい!
私の右手から繰り出された裏拳が彼の鳩尾に入った。
車のエンジン音、エアコンの風の音、彼の呻く声、私の思い出。
「斎藤ちゃん、職員玄関でいちゃいちゃしてたらしいじゃんっ!」
たくさんの目撃者にイジられることになろうとは、その時には夢にも思わない。
リアルにするか、フィクションにするか、迷ってしまいました。
これはもちろん、フィクションです。
リアルは甘くないですから。
この理由で上手くいかなかった知人友人が何人もいるのが現実(;^_^A