『看護師なのに、なんにも知らないのね』
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『看護師なのに、なんにも知らないのね』
何だ?何だよ?
看護師なら何でも知っていなきゃならないのか?
いまどき流行りの民間療法も、テレビで放送されたごくマニアックな最新医療情報も、ビートた○しの番組も、立◯師匠の番組も、私はチェックしてなきゃだめなのか?
ごく一般的な薬品だけでなく、そのジェネリック医薬品の名称など、覚えているわけも無い。私の頭に辞書機能は入っていないのだから。
となりでだるそうに枝豆をつまむ、女の顔をにらみつけてしまいそうで、私は目を閉じた。
駅前の居酒屋は、たいして美味しくも安くもないにも関わらず、今日も混雑している。
ざわざわと耳に届く、喧騒が一瞬、大きく響く。
私は大きく息を吐く。
目の前の、弱いくせに酒好きな男は、顔だけでなく耳も目も赤くして義兄という男と大きな声で笑っている。向かいのテーブルに座る私たちの重く暗い雰囲気など微塵も感じていないようだ。
彼のそういうおおらかさに惹かれたことはたしかだけれど、今は胸倉を掴んで、怒鳴りつけたい気分だ。
――あんたの姉をなんとかしろ!
この男と結婚するという未来を想像することを、今日という日をもって中止する!
付き合って二年と三ヶ月の彼、その姉夫婦との飲み会に誘われた週末、勤務異動後の五連続日勤のあとだったせいもあって、私の気持ちは緊張に加え、少々ささくれ立っていたのは間違いない。
上品そうな薄いカーデガンを羽織った姉という女が、私ににこやかに話しを始めた。
足元からつま先までをなめるように見つめた視線に、雲行きの怪しさを感じてはいたけれど、投げられる言葉の節々に、毒のような棘のような含みに気づかないほど、私は鈍くはないのだ。
専業主婦の彼の姉の情報番組の視聴率は私の比ではないのだろう。
最新の不妊治療も、腰痛対策も、ダイエット情報も、全くついていく事ができなった。
「はぁ、そうなんですか」と気の抜けた返事しかできない私。
そうして、彼の姉は私に何も知らないと落胆したのだ。
ほんの少し、嗤いながら。
何万人といる看護師の名誉のために私は声を大きくして言う。
私は知らなかったけれど、看護師としてひとくくりにするのは止めていただきたい。
高い技術、知識、経験を兼ね備え、深い教養を身につけた看護師もたくさんいるのだから。
あんたは私にこう言うべきだ。
「あんたは何も知らないのね」と。
私はそう、何も知らない。
そんなことは誰かに言われるまでも無く。
毎日、痛感しているのだ。
あぁ、もう帰ってもいいですか。
私の勤務する市民病院はたいてい三年から五年で、勤務交代がある。
勤務する看護師は500名以上、配属される科は病棟だけでも15以上あるのだ。ところ変われば、何とやらで、同じ病院でありながらも、必要とされる技術や知識は全く違う。
それは、市民病院が急性期病院であることが大きな要因でもある。医療は日々進歩し、同じ病気であっても使用する薬剤、方法も変わっていく。
私は、二週間前に新人のころから四年勤めた血液内科病棟から、七階南の外科病棟に異動となった。
身に着ける白衣もナースシューズも、変わっていないのだけれど、その身の置き場の無さといったらない。別の何かになったように感じる。
日、日、日、日、日、休、休、日、日、日、日、早……。
勤務異動後、当然のことながら続く日勤。
四年間に及ぶ、交代勤務の影響で、朝起きて夜寝る、という暮らしがしんどくてしかたがない。
わからないという緊張感を抱えて、腋に嫌な汗をかきつつ、私は病棟を駆け回る。
家に帰れば、もちろん勉強せねばならない。
幸いなことに、外科には同期がいる。実習で苦楽をともにし、新人のころから院内の研修で顔を合わせる彼女。その存在は非常にありがたい。
彼女に借りた外科の専門書、内示を受けてあわててネット注文した専門書をめくり、必死に知識を詰め込んでいく。
『わかりません、できません』
そんなことが通用する世界ではない。
私は日に何度も繰り返す『確認してきます』という言葉を一回でも減らすべく、夜な夜な活字を追うのだ。
外科における疾患だけでなく、入院患者の名前はもちろん、物の置き場もわからない。
私はガーグルベースを探してさ迷うのだ。
やっと、見つけて病室に戻ったときには、患者さんのシーツは吐物にまみれている。
そして、またシーツを探して、シーツを交換すれば、そのシーツの始末の仕方まで、誰かに聞かなくてはわからないのだ。
病棟での業務の流れを覚え、物の場所を覚え、患者の名前を覚えたころには、夜勤が始まる。
新人の育成とはまるでスピードが異なるのは、仕方が無いことなのかもしれない。
今日は初めての早番。
眠い目をこすりつつ、出勤したのはいつもより一時間半、早かった。
患者さんの朝の食事の介助、口腔ケアにオムツ交換、朝一番の手術の患者さんを手術室まで案内する。
そうして、病棟の回診について回るのだ。
「あら、今日、回診デビューなの?がんばってね」と
にっこりとほほ笑みを浮かべた病棟師長は詰め所から動くことは無かった。
「え?師長さんも一緒ですよね?」
「うふふ、私、今日当直明けで、もう帰るから」
「……」
「大丈夫よ、先生、教えてくれるし、佐々木さんが一緒に回るから」
「はぁ」
さきほど、見かけた副師長の佐々木さんは患者さんの家族と話し込んでいた。
回診に来てくれるのだろうか。
来てくれるよね……。
本来、外科の回診は午前中、医師と師長で、全患者を診て回る。
外科の医師は、外来、手術があり、入院中の患者の診察が午後、もしくはそれ以降になってしまうこともある。患者の状態は刻一刻と変化しており、急を要する事態に対処すべく、外科病棟担当という医師が日替わりで決まっており、回診および、病棟のもろもろの業務を行っている。
そして、回診にはもうひとつ、大きな目的がある。それは担当医だけでなく、指導的な立場の医師が交代で患者を診ることで患者の状態にあった適切な医療が行われているのかをチェックするため、医療ミスを未然に防ぐ目的もあるのだ。
市民病院の多くの医師は、都市にある大学病院から派遣されてくる若い医師であり、指導医のチェックは欠かせない。
そう、回診の担当は指導医、すなわち偉い先生が担当することがほとんどなのだ。
私はやたらと重く、押すとガラガラと耳障りな音を出す回診車を押しながら、回診担当表を見て、こっそりとため息をつく。
何度みても、そこに書かれた名前が変わるわけも無く。
「回診をお願いします」
私の肩はその低く響く声にびくっとあがった。
音もなく現れた男の人は私の脇をすり抜けていく。膝まで届く長い白衣、黒いスラックスに濡れたように光る皮靴。
どういう風にあるけば、皮靴をリノリウムの床で靴音を鳴らすことなく歩けるのだろう。
私はまるでトンスラを思わせるような、彼の後頭部から目を背けるために足元に意識を向けて、その背中を追う。
外科部長、赤井先生。通称、ザビエル。
同期は言った「ザビエルに失礼だ」と。
私がその真意を知るまで、もう少し……。
「回診でーす」
署名な医療小説では何人ものスタッフが部長を取り囲み、ぞろぞろと大名行列のように病棟を闊歩しているけれども、現実はもっと地味だ。
私(勤務異動直後)と副師長佐々木さん(間に合った)外科部長だけなのだから。
病棟の各部屋、各ベッドをひとつひとつ回る。
ガラガラと回診車を押して、足早に進む外科部長について回る。
「最近、お食事も進むようになってきましたね」
穏やかに話しかける声はその通称にふさわしい。
外科部長の手元にはワゴンに乗ったノートパソコン。
カタカタと電子カルテをチェックしながら、にこやかに話しかける。
佐々木さんは患者さんが診察を受けやすいように、衣服を脱がし、体位を整え、ガーゼやセッシ、テープの準備を滑らかに行う。
外科部長はそのセッシやガーゼを黙々と受け取り、患者さんに処置を行う。
よどみなく流れるように行われている。
私はそれを横でワタワタと見ているしかなかった。
「はい、ありがとうございます」
ベッドの上にチョコンと正座をして、スリスリと手を合わせる患者さん。
確かに、ご利益がありそうに見えるかもしれない。
開いているらしい細い目、すっきりと通った鼻筋に薄い唇。困ったように八の字に下がった眉。
どこかで見かけた仏像の面影があるような気がしてきた。
そばによって小さな声でそっと佐々木さんは言う。
「次に何が必要か、考えてやってみてね」
佐々木さん、私もそれがわかるようになりたいです……。
ピリリリ、ピリリリ、ピリリリ……
院内用PHSが佐々木さんのポケットから鳴り響く。
「ちょっと、ごめんね」
小さな画面を見て、顔をしかめた佐々木さんは小さく呟き、回診という戦線から離脱。
細い目がチラリと私に向けられて、私はあいまいに笑った。
彼は明らかな嫌悪を浮かべて嗤った。
それは聖職者にあるまじき表情だ。
私は背筋に冷たいものを感じ、腋に臭いのきつい汗がにじむのを感じた。
回診はまだ始まったばかり。
佐々木さんの戦線復帰を心から願った。
「回診です」
ベッドを仕切るカーテンを開けて、患者さんの布団をめくり、衣服を脱がし、傷口にあてがわれたガーゼをはずす。
外科部長は患者さんのお腹に触れ、管の状態を観察し、必要に応じた処置を行っていく。
処置に必要な物品を準備して渡していく。
冷房の効いた病室で、私はダラダラと汗を流す。主に手と背中と、腋に……。
あぁ、私、絶対に臭い。
佐々木さんはまだ戻らない。
回診はまだ、終わらない。
先を行くトンスラを重い回診車を押して追いかける。
「回診です……」
カーテンを開けて、ベッドの横に立ち、
患者さんのお腹をペロリとめくるそこには、ガーゼも管も、傷跡さえもない。
「アレ……」
ちらりと見た外科部長の目は、まったく私を映すことなく、まるでそこには誰もいないかのように、患者さんに向けられていた。
「足の痛みはいかがですか?眠れていますか?」
困ったように微笑を浮かべ「はい」と呟き、患者さんは自らズボンの裾をまくった。
閉塞性動脈硬化症。
この病気の患者さんがなぜ、外科病棟にいるのだ!
ここは消化器外科だけでなく、乳腺外科、血管外科も兼ねている、……そうだ。
患者さんは足の動脈が詰まり、血流が低下。血管を別で繋ぐ手術を受けた、……そうだ。
勉強不足ですみません。
患者さんの足を観察し、外科部長はチラリと私に一瞥をくれ、諦めたように言う。
「ゾンデ」
「ゾ、ゾンデ……」
ダラダラと半端なく、私の背中を伝う汗。
もう少ししたら、私がゾンビになりそうですが……。
ガサガサと回診車の引き出しを漁っていると、小さな文字で『ゾンデ』と記入された一角にある滅菌器具を発見。
硬い針金にも似た、銀色の棒。
これか?!しっかりと掴み差し出す。
「ゾンデです!」
ど、どうだ!?
すっと伸びた手は、ゾンデをすり抜け、回診車のうえに乗ったディスポータブルの手袋を掴み、あわてることなく手に装着するすがたは優雅でさえあった。
ゾンデと思われる器具を差し出したまま、フリーズした私は、なんとも滑稽で、患者さんが何も感じなければいいなと思った。
手から、ゾンデと思われる器具が離れて行き、それがゾンデであったとわかる。
ほおっと、息を吐いたところで、冷たい視線が刺さっていることに気づく。
はい?何ですか?それってゾンデなんですよね?それでいいんですよね?
言葉にならない思いは、汗となって体中から染み出てくる。
「フウッ」
外科部長の嗤った口元は患者さんからは見えない。
「……さばきガーゼ」
は?
それって、何ですか?
魚の三枚下ろしとか、二枚下ろしとかの、『さばく』っすか?
真っ白になりそうになる頭をなんとか回して考える。
――患者さんの傷…、針金のような細い棒…
おぉ、ひらめいた。
読んだような、実習中に勉強したような。
私は記憶を頼りに、ガーゼの端っこをセッシで掴み、そっと広げるように持ち上げる。
その対角線をまた別のセッシで掴み、きゅっと引っ張る。
「……」
外科部長は何も言わず、そのガーゼを掴み、患者さんの傷口にあてがう。
私が心の中で大きくガッツポーズをしたことは言うまでもない。
「回診でーーす」
汗のかきすぎで、妙なテンションになっていたことは間違いない。
さばきガーゼを思い出したことで、いい気になっていたことも間違いない。
残りわずかとなった回診に、佐々木さんが戻ってこないけれど、きっと問題ない。
カーテンを開け、ベッドサイドに立つ。
患者さんの衣服を脱がせ、外科部長はポヨポヨとお腹に触れて、
「管を抜きましょう」と患者さんに微笑みかける。
私はもう知っている、その微笑みは患者さん専用であることを。
私はドレーン抜去のため、手袋を渡し、セッシ、クーパーを準備する。
彼は細い目をきらりと一瞬光らせ、はっきりと嗤った。
「ペアン」
「ぺ、ペアン……」
ちくしょー、絶対いらないだろ!
ドレーン抜去に、ほかに何も使わないだろうよ?!
佐々木さんっ!戻ってきてくださーい!
私は歯をギリギリかみ締めながら、回診車を漁る。
ゾンデの横に小さく『ペアン』とある。
よしっ!見つけた。
これだな。
そこから出した器具はよく見知った器具。
むむっ、
ハサミに似たこの姿は、まぎれも無く『コッヘル』
ならば、『ペアン』はどこに?
その隣には『コッヘル』の文字。
そこに置かれた器具はまさに『コッヘル』
「……」
チラリと様子を窺うと明らかに嗤っている肩。
「……もういいです」
振り返ることなく、そう呟くとドレーンを抜去する。
もういいなら、はじめからいらないのではないですかね???
ガラガラと押す回診車が一段と重く感じる。
爪先を見つめて足を引きずるようにトンスラの後に続く。
「……回診デス」
押していた回診車がふっと軽くなり、驚いて頭を上げる。そこには待ちに待った姿。
「ごめんね」微笑む佐々木さん。
遅いっすよ!まじでどこ行ってたんですか?
ペアンってなんですかっ?
彼が聖職者の異名を持っているのは、その髪型からだけではなく、
彼が外科病棟の新任職員に洗礼を施すからである。
わかっているのだ、私が何も知らないことなど。だから、確かめる必要などないのだ。
だから、もう
帰ってもいいですか?
ちなみに、コッヘルは有鉤ペアンは無鉤です。
パッと見た感じではわかりません。
老眼になるとわからなくなる!?(;゜∇゜)