1
蚊の発生源、突き止めたよ。ベランダにいくつか小さな観葉植物を置いてあるんだけど、水やり用の小さな如雨露に、ちょびっとだけ雨水がたまっていて、そこにボウフラがおりました。……うじゃうじゃと。ちょっと気持ち悪かったです。コップ一杯くらいの水でも孵化するんだね。気を付けよう。
あれから不思議現象は起きていない。
仕事のピークは越えたので、睡眠不足が解消されればミスも少なくなり、課長のイヤミ攻撃を受けることも減ってきたし(皆無ではない)体調も悪くない。
物がなくなったのは勘違い、足が汚れていたのは……まあ、不思議だよねで割り切った。
でも、あまり印象的な出来事だと繰り返し夢に見るらしくて、一度、こんな夢を見た。
あの無駄な筋肉の持ち主、きんきらの残念なイケメン王子と魔導師ローブ着用青年が夢に出てきて、何だかぴらっと紙を見せて来たのだ。
「これを読んで、間違っている所を指摘してくれ」
その時はまだ仕事の山を越えたばかりの頃で、またお前らかと思った私は疲れている時に夢の中まで出てくるなと怒ったら、また命令だとか言われたんで、鼻で笑ってやった。
「命令なんて聞く義理なんてないねー」 って。
無理やり呼び出されて頭に来てる時に頭ごなしに言われたって、聞くわけないじゃん。
主従関係を結んだ訳でも、雇用関係を結んだ訳でもない。それですらある程度丁寧に扱われて、報酬を貰っているのに。
ある日突然見知らぬ所へ呼び出されて、いきなり命令されて無償奉仕しろと言われたら、あんた達は働くのかとかなんとか、いろいろ言った気がする。
これは何って紙の内容を聞いたら、魔法陣の原型って言うから、真っ先に招聘の字が間違っていることと言葉の意味を教えてあげた。
単なる呼び出しじゃなくって、それなりの地位を用意して来ていただくって意味だから。用法としては人限定なんだけどって言ったら驚いてた。なぜそこで私を見るのかな。何度も言ったでしょう、召喚獣じゃないって。今度獣扱いしたら、暴れてやるからね
最終的に、虫食いの古文書みたいな文章の漢字の間違いと、前後の意味が通じない所を指摘してやって、
「礼をつくし、恩には恩で報いるから、ぜひ力を貸してほしい、というような遜った文章なのに、なんであんた達は偉そうなの」
と言ったら恐縮していたのには笑ったよ。
まあ、これも夢だから、盛大に恩を着せてやった。
殺虫剤も蚊取り線香も、どれだけの手間暇とお金がかかってるか分かってんの?って。
どっちも一部上場の一流企業だから、開発費と広告宣伝費を考えると、莫大なお金がかかっているだろう。見当もつかないよ、うん。
「分かった。今度来る時までに、報酬を用意しておくから」
それには、いらないから、そもそも呼ぶなって言ったんだけどね。何でも、ものすごく強い魔物の討伐をすることになったので、力を借りないといけないとかなんとかで、作戦をまとめて戦う準備が整ったら頼むとか言ってたけど、私は知らない。
その夢を見てからも約一か月が過ぎて、一部を除けば仕事的にも概ね平穏無事な日々を取り戻しつつあった。
朝会社に出勤したら、エレベーターホール付近で「おはよー、水野さん」と声をかけられた。
声の主は、背はそこそこ高いが、残りは容姿も体型もごくごく普通ランクの男の人で名前は広田さん。年齢は二十六歳。
実はこの人が、「一部を除けば概ね平穏無事」の「一部」の人だったりする。
はっきり言おう。私はこの人が苦手だ。
うちのイヤミ課長とは違う意味で苦手だ。
広田さんは営業部、私は経理部で、接点はほぼないと言っていい。
営業から回って来る伝票を取りまとめる意味では繋がっていると言えるだろうけど、私が担当しているのは広田さんが所属する第三営業部ではなく、第二営業部だから仕事の内容でも被る事はない。はっきり言えば、担当をしている営業の人でさえ、電話で話しても直接会って話すことは少ない。
それなのに「経理部の水野さんだよね」と突然声をかけられて、自己紹介されたのが大体1ヶ月前。
それからかなりの頻度で声をかけられ、一方的に自分のパーソナルデータをぶちまけていくのだ。二十六歳独身、彼女募集中で営業部所属、入社して四年目だけど成績は結構いいんだよとか、聞いてない事までべらべらと。
ここしばらくの社内遭遇率は二~三日に一度ってところだけど、逆にフレックスタイム制が導入されているうちの会社では、朝の出勤時間は結構バラバラ。営業の人に至っては、担当しているお店に直行なんてこともあるはずなので、特定の人とかち合う確率は殆どないと思っていた。
それなのに、この間は朝会って、さらに昼食を食べに社食へ行こうとしたら部屋の入り口で出くわしたので、驚いたのなんの。
営業部のあるフロアと経理部のあるフロアはまず、階が違う。ついでに言うなら、経理課は社外秘の売り上げデータや給与計算までこなすので、社員以外の人間が入りにくいようにエレベーターホールから一番遠いところにある。
わざわざ来ない限り、入り口で鉢合わせなんてことにはならないのだ。だが広田さんは、さも偶然ここに来たように装って、ちょうどいいからお昼を食べに行かない?とか言って来たのだ。
まあ、ここまでくればさすがに、向こうが私に気があって口説きたいんだろうなとは分かる。
けど、私は一目惚れされるような美人でも、かわいくもない地味子だ。入社してから二年目だからまだそんなに重要な仕事は任されていないし、特に仕事ができる方でもないから、出来る子として……将来出世しそうだから、今のうちにお近づきになりたい的なこともないと思う。
若いというのは一つの武器かもしれないけど、一つ二つ年上の辺りに美人とはっきり言える女性社員が何人もいるのに、なんで私の所に来たのか分からないのだ。
「……おはようございます、広田さん」
「何だか他人行儀だなぁ、二人だけの時は敬語抜きでいいって」
あなたと私は赤の他人。付き合ってもいないのに、その台詞は周りに誤解を振りまくでしょう。やめてよ。
と言いたい。でも言えない。
一応、先輩だし、告白されたわけでもない。
万が一されたらその場で断るつもりだけど、されてもいない告白を見越して「口説いても無駄ですから、さっさと他へ行ったらどうですか」とも言えない。自意識過剰と思われたくないっていうのもある。
ストーカーですか?って思っても、同じ会社の社員である以上、偶然であると言われればそれまでなので、何もできないのだ。
やたら来るのが遅く感じたが、来たエレベーターに乗って、二人きりにならなかったことを安堵しつつ経理部のあるフロアで降りた。
にっこり笑って手をひらひらと振る広田さんに、内心で気持ち悪いんだよと思いながら、勤めて無表情で会釈をして踵を返した。
で、振り返った視線の先に、こちらを見詰めるイヤミ眼鏡、もとい、高山課長がいて、慌てて一礼した。無視はできないなぁ、ばっちり目が合っちゃったし。
「おはようございます、高山課長」
「おはよう、水野。……」
無表情に平坦な声の挨拶が帰ってきた後、課長は何か続けようとして口を開けたけど、結局何も言わなかった。
なんだろう。ずばずば物を言う課長にしては珍しい。
「なにか?」
「いや……寝坊はしなくなったんだな」
「一回だけのことをいつまで言ってるんですか」
だからイヤミ眼鏡っていうんだよと内心で続ける。
「繁忙期とそうじゃない時の差がありすぎるんですよ。体が付いていきません。もう少し何とかならないんでしょうか」
うちの会社の締め日は月末だけど、営業の持ってくる伝票の締めが二十五日まで。五日間の間に一月の集計のチェックをしなくちゃいけない。だけどその間に土日が挟まると、五日のところを三日でやらなければならなくなる。
毎日終電まで残って処理すれば何とかなるんだけど、海外との取引もあり、食品も扱っているうちの会社は、日曜祝日も交替で出勤している。営業の人が今月の営業成績に乗っけるために、締めを過ぎてるのに無理やり伝票を突っ込んできて、休んでいる間に仕事が増えている時があるのだ。
前回の修羅場というか、連日終電まで残業は、そんな事情で大量の伝票が回ってきたせいだった。私が知る限り、年に結構な回数でやって来る。
もともと締め日前後は連日残業なのだけど、あそこまで酷いのはなかなかない。
最悪は休日出勤だけど、営業手当でカバーされている営業部と違って、経理部は土日休業、残業手当もちゃんと出る。けど、残業自給単価<休日出勤手当(時給換算)なので、休日出勤はあまりいい顔をされない。
これで休日出勤しちゃだめって言うんだったら、営業の人に締め日の徹底をしてほしい。
「話を上に通してきた。今後は少しマシになるはずだ」
「え、本当ですか?」
「以前からの懸案事項だったんだ。だいぶ前から何度も言ってたんだけどな、ようやくだ。締めの厳守、一日でも過ぎたら次月廻しが徹底される。それでも入れてきた奴がいたら、機械的に日付を次月一日に変更して構わない。さらに文句言ってくる様な頭の悪いのがいたら、営業部長と経理部長の名前を出すようにと今日メールで一斉配信するから」
「流石ですね、経理の星!」
高山課長は三十歳。同期の中では異例の出世なのだそうな。で、ついたあだ名が同期の星だけど、経理部なので経理の星らしい。出世頭で見た目もそこそこ、お腹も出ていないから、それなりに人気があるみたいけど、イヤミ眼鏡なのは変わらないので、私は遠くで観察してるくらいで結構です。ええ。
「……まるきり心のこもっていない台詞だなぁ?」
「気のせいです、高山課長、すっごくかっこいいです」
若干棒読み?本当に気のせいです。仕事が多少なりとも平均化されるのは、非常にありがたいので。
「それじゃあ、さっさと仕事始めますね。失礼します」
一礼して私はロッカー室へ荷物を置きに行き、仕事を始めるころには課長が何か言おうとした事なんか、すっかり忘れてしまっていた。