1
「では早速だが、そなたが持って来たあれが、どうしてあんな効果が出たのか見当が付くか?誤解をなるべく解いて置きたい」
王子の言葉に、あづさはあっさりと頷いた。
「見当っていうか、予測とも言えない『かもしれない』っていうのでよければ、説明するけど」
そこから鬱屈やわだかまりの様子は窺えない。本当に「もういい」の一言で済ませてしまったようだ。
酷いことをしたという自覚はあるし、少しくらい引きずるかと──そうされても仕方がない事をしたと思ったが、本当にあづさは、いい意味でこちらの予想を裏切る。
──人に姿を変えられる獣ではなく、只の女性だったと分かって。
敢えて考えないようにしていた事が腑に落ちて、自分の抱いていた感情がなんだったかはっきり分かったが、当時に、自覚してもおこがましくて口に出すことはとてもできないと思い知った。
あづさは覚えていないのか、訊かれなかったので敢えて言わなかったことがある。
初めて召喚した時、自分は召喚主ではなかったからあえて名乗らなかった。どういう存在が出てくるか分からない召喚術で、呼び出したあづさに警戒をしていたから。
物理攻撃力が上なのは王子で、魔法攻撃力が上なのはシスルだから、あづさがなにか不穏な動きをしたら両方ですぐに行動に移れるように準備万端にしつつ、最悪の印象にならないように王子には名前を明かして貰った。つまり、魔物を一人で駆逐していたあづさの様子をただ見ていたのではない。垂れ流している膨大な魔力を攻撃力に変換して、こちらを襲って来るようだったら即反撃するつもりだったのだ。
あの魔物は戦闘能力を見るためでもあったが、従順ではなかったら牽制かつ囮の役目を担ってもらう予定でいたため、あづさが騒いでも手を出すつもりがなかった。事実、口では色々言っていたが軽く蹴散らしていたから、警戒しておいて良かったと思ったものだ。
制御ができなかった時を想定していたこともあるが、獣が本性の生き物は、本能に逆らえない部分や社会形態の差で齟齬が生じて、お互いに理解しきれない部分があるからだ。
例えばダリアと名乗った獅子鷲の長。
今は人の姿で彼女が美しい女性だという事実は変わらないが、何をしていても何処か剣呑な気配を漂わせている。言葉を話して意志は通じ合えても、彼らは獲物を狩って食らう猛獣で、腹が減った時にエサが見つからなかったら、否応なしにこちらを襲うのではないか?という疑念が捨てきれない。絶対に大丈夫という保証はどこにもないから。
疑念が払拭できたとしても、最大の差異は番いになったとしても、子ができないとされている部分だった。
姿は同じでも根本的に人と質が違うから、やはり完全には分かりあえない生き物なのだと、無意識で一線を引いていた。
あづさと接するうちに、漏れ出す魔力が膨大なだけのごく普通の女性のようだとは思ったが、話す内容から類推するに、こちらと社会形態が似た世界であるようだし、特に深くは考えず、職場環境に関して質問された時も、上司だという男と一緒に来た時も、違う世界と言っても有り様は変わらないのかと思っただけだった。
あづさの方が余程魔力量が多いのに、能力があっても必ずしも上に立てる訳ではないのか……ああ、魔力が多いのはあちらの世界では能力とみなされないのかと、ぐるぐるとそんな思いが頭をよぎって、胸の中にある何とも言えない不快感は、あづさが報われていないように見える事だからかと納得したのだったが、なんてことはない。
あづさの近くに知らない男がいること。立場が上だからと命令してそれに従うのが当然と思っている態度に腹が立ったのではなく、自分からもっとも遠い感情だと思っていたもの──あの上司に対する嫉妬だったとは、笑うに笑えない。
相手は明らかにこちらに対して牽制してきたので、それなりの返礼をさせてもらったが、それすらもそんな感情の発露だったのかと、我ながら無自覚に過ぎるだろうと呆れてしまう。
とにかく、蓋をするしかない。例え負い目を感じていなくても、世界の差が巨大な壁となって横たわっているのだから。今ならまだ、諦められる。──そうしなければならない。
今やるべきことに集中し、成すべきことを成す。……それだけだ。
シスルはきつく拳を握りしめた。
「えーっと、こっちに象って動物はいる?灰色の分厚い皮膚で体毛はなし、体は獅子鷲の人よりも大きくて、鼻は長くて耳が団扇みたくひらひらして大きいの」
そんなことを話し始めたところで、私の声が聞こえたらしい獅子鷲の一人──人の姿なので一人で良いんだと思う──が、進み出て来た。
白髪にがっしりとした体格の男の人で、長であるダリアさんと同じ金色の目をしている。綺麗だけど、獣を思わせる縦長の瞳孔の目。なるほど、王子やシスルが協力してほしいと言う訳だ。その視線はまっすぐ私に向かっていて、他は一顧だにしない。
「私はゼルという。長の代理だ。原因をはっきり掴むために、こちらも聞かせて貰ってもいいだろうか」
「あづさです。よろしくお願いします。……お話するのはもちろん構いませんが、先にどちらが原因なのかを確定するために、該当しないと思われる方の匂いを嗅いでみていただいてもいいでしょうか?」
「……いいだろう」
ゼルさんは私が渡したコーヒーのパッケージに鼻に寄せて、考え込むようにしている。ダリアさんはすぐに様子がおかしくなったんだけど、ゼルさんには変化が見えない。
「嗅いだことのない甘い匂いがするが、酩酊感はないな。残りの一つが原因で間違いがなさそうだ」
「やっぱりそうですか。それにしても、獅子鷲の方々は本当に鼻が利くんですね」
「当然だ」
プライド高っ!
ライオンも鷲も、なんとなく鼻は特別良くはなさそうなイメージがあったんだけど、まあ、本人がそう言うならそうなんだろう。ダリアさんも、パッケージを開ける前から感じ取っていたみたいだからね。
「えーと、まずこれの原料はどちらも同じ、コーヒー豆と呼ばれる植物の実です。匂いが違うのは、片方は発酵させているせいですね。……発酵って分かりますか?」
「酒とかの製法だな?」
「ああ、そうそう、そうです。で、あの酩酊状態を起こした方の豆は、象という動物を使用して発酵させています。こちらにいるかどうか私は良く分からないんですが、さっき言ったような特徴の生き物で……」
私がシスルを見ると、心当たりはないとばかりに首を横に振ったのが見えたので、そのまま続ける。
「同じ外見を持った動物はいないみたいですね。あと、私の住む所には獅子と鷲が別々に存在しているんですけど、それは……?ああ、いるのね」
動物物のドキュメンタリー番組を見た時にライオンが象のフンの匂いを嗅いで興奮しているシーンを映してたんだよ。
個体差があるみたいで、全部のライオンに反応する訳じゃないみたいだし、何故マタタビ嗅いだ猫状態になるのかっていうのもはっきり分かっていないみたいなんだけど、フェロモンに近い匂いを発しているのではないか?って説が一般的。
ただ、フンの辺りをどうやって説明したらいいものか、悩む。ブラック・アイボリーの豆ってフンの中から拾っている訳だし。……ええい、ごまかしてしまえ。
「その象という動物の匂いが、なぜだか獅子をうっとりさせる効果があるとされているんです。理由は今のところ、はっきり分かっていません。特定の種族にだけ効く麻薬に似た成分が含まれているとか、所説は色々です。多分、あなた達の種族の半分の性質に影響が出てしまったのではないかと思われます」
「麻薬……」
眉をひそめるゼルさんに、これだけは言っておく。
「勿論、これは意図したわけではありませんし、そちらの飲み物は製法が特別なためにとても高価で、私も偶然手に入れたようなものです。手元にはこれしかありませんから。それに麻薬と言っても。お酒が短時間で回った様な……あるいは麻酔の様なものだと思っていただけると分かりやすいと思います」
猫飼っている人は、猫のお楽しみとしてまたたび上げているようだから、本当はどうだか知らないけど、そう言うしかないよね。
「……そうか」
この「そうか」は、「そうか納得した」ではなくて「そうか話の内容は分かった」だろうね。まだダリアさんが回復しないから、本当に害がなかったかどうかも判断できないから。
「……あ、もしよかったらこっちの無害な方、飲んでみますか?これの効能に、眠気を覚ます覚醒効果があるんですけど」
ダリアさん達に影響が出たブラック・アイボリー同様、獅子鷲にしか効かない毒とかを入れたのではないか?と取られても仕方がないから、断られるだろう。そう思っていたんだけど。
「そうだな……。では、いただこうか」
「え?いいんですか?」
だめもとでとりあえず言ってみたら、思いがけず肯定の頷きが返ってきて逆に驚いた。
「私はあくまで代理なのだ。最終的な判断は、長に下して貰わねばならない」
「判断?何に対して、と聞いても言いですか?」
ゼルさんはほんの少しだけ口元を吊り上げた。
「とりあえず、そのコーヒーとやらの準備を頼む」
あー、はいはい。それすらも長の判断する領域なのね。
私は王子とシスルの方を振り返って、途中になっていたコーヒーを入れる準備の続きをやり始めた。




