その4
「う、ううっ……」
どのくらい眠ったのか、まばゆい陽の光が射す中で、私は目覚めた。どうやら逮捕はされなかったらしい。が……
不思議な現象が起きていた。私は昨晩ホテルに泊まった筈なのに、何故か路上で眠っていたのだ。さらに空が晴れているのに視界が薄暗い。昨夜の時点では、目が霞むといった症状はなかった筈だ。何だか不可解なまま、尿意をもよおしてきたので、目の前で開いているパチンコ屋のトイレへ入る。ん、パチンコ屋……?そんなもの昨日眠った所にはなかったような……。
「うっ……」
思考するよりもまず尿が噴出を促してくる。とにかくトイレに行ってから全てを考えよう。ジャラジャラという物凄い音に包まれた店内を横切り、トイレを目指す。自意識過剰だろうか、客がよってたかって私をジロジロと見ている気がする。衣服の傷み方でも目立っているのだろうか。厭な感じがしたが、黙ってトイレに駆け込んだ。
「ふうーっ」
間一髪セーフ、で勢い良く小便が飛び出し、便器を濡らす。まだ小便のキレが悪くなる程、年は取っていないつもりだ。
「あれっ?」
だが、不思議なことがまたも私の身に降り掛かっていた。何とペニスが皮を被っていたのだ。私は包茎ではない……。
疑惑はもう一つ発生した。そのペニスをしまうズボンを見て、違和感を覚えた。私はエプロンのように黒い布きれのようなものを下半身に付けていた。確か昨日はこんな服装をしていない。異常に気付いて、慌てて手洗い場に付いている鏡の前に立つ。
「げえっ……」
鏡に写っている姿に驚愕した。それは山田広三ではなかった。後ろを振り返っても誰もいない。自分の顔に手を触れてみる。皮膚の感覚ではなく、布の感触がする。そして鏡の前の男も同じ仕草をしている。間違いない、こいつが私なのだ。私は何時の間にか黒装束の占い師になっていたのだ……。
私はパチンコ屋から表に出て、占い師の机に座って考え込んだ。何が起こったのか、全く理解出来ない。とにかく目が覚めたら占い師になっていた。記憶だけは山田広三のままだが、明らかに顔から身体つきまで変わってしまっている。昨夜、あの占い師が言っていたのはこのことだったのか。確かに今のままなら逮捕されたりはしないだろう。状況が変わったとも言えよう。だがそれなら私の今までやってきたことは何だったのだ。何故、今になって山田広三である権利を剥奪されるのか。46年間も何をしてきたのか?
「うわっ!」
考え事は一人の男の出現で遮られた。心臓の鼓動が早くなるのを感じる。ふと脇へ視線をそらした折、山田広三その人が10mくらい離れた所に立っていたのだ。私が山田ではなくなっても、彼はちゃんと存在している。見ているだけで気分が悪くなりそうだ。山田はしばらくキョロキョロとしていたが、私の姿に視線を止めたらしい。全身に緊張が走ったが、心配は無用だった。彼は方向を変え、一軒のラーメン屋に入った。
「ふうーっ……」
一息吐くと、彼に見つからないように机を抱えて、飲み屋街の方へ場所を移した。私にとって、山田広三は会いたい人物とは言い難いものだった。
場所を変えてからまた頭をひねったが、考える暇が寸断される為、ロクに集中出来なかった。というのは私を本当の占い師だと思って、客が次々に訪れたからだ。まさかこの風貌で断る訳にもいかないので、見料を2千円程戴いて、適当な易を立ててやった。良いことを言ってあげると、大概の客が満足して帰って行く。思わぬ仕事が転がり込み、本日だけで3万円近く儲けた。
そして夜の色が深くなっていった。人がまばらになってきたところを見ると既に日付は変わったと思われる。私は帰り道へ向かう人々を尻目に、行く宛もなく、ここに座っているしかなかった。だが思った以上の儲けで、このままこの姿でもいいかな、と思っていた矢先のことだ、
「すいません、ちょっといいですか?」
と声が掛かった。反応して相手の顔を仰ぎ見る。
「うわっ、オゲーッ……」
相手を見た途端、強烈な吐き気が襲ってきた。山田広三だ。元の自分と顔形の同じ者に話し掛けられる程、気味の悪いことはない。私は勢い余って彼に嘔吐物を吐きかけた。強烈な匂いが漂う。
「お、おい、あんた……」
私は彼の問い掛けも聞かず、吐きながら走り去った。
「ぐうえっ……」
路地裏で嘔吐は続く。もう胃液しか出る物はない。大量に吐いたので、喉が痛みを感じる程だ。あの山田広三に話し掛けられた時は、心の底からゾッとした。そして自分の意に反して、胃から逆流してきたのだった。
何分吐き続けたか、ようやく胸がすっきりしてきた。調子が良くなってきたので、まずは机まで戻ることにする。落ち着いた為か、歩きながら思考も冴えてくる。何か変だ……。先程、私が山田に吐きかけた以前に、山田だった私が占い師に同所で吐きかけられているのだ。何故、そんな繰り返し現象が起こるのだろう。この関連性が非常に気になる。
考えている間に机に辿り着いていた。考察も大事だが、すぐに答えは出そうにないので睡眠を優先させることにする。私は夜中でもやっていそうなホテルを探し歩いた。
「そもそも、今何時なんだ?」
時計を持っていない為、現在が何時何分なのか、全然わからない。空が黒から少し青みがかっており、夜明けが近いことだけは判断できる。それでも24時間営業で開いているホテルもポツポツとあり、綺麗そうな外観の一軒を選んで中に入る。何せ金の心配がないだけに気楽なものだ。あながち占い師として稼いだのも無駄ではなかった。フロントに怪しまれぬよう、さすがに頭巾だけは取っていったが。
「あ~あ……」
部屋に入るなり、ベッドに寝転がる。肉体的にはともかく、精神的に非常に疲れた。汗もかいていたが、そのまま眠ってしまいたい気分だ。ふと明日のチェックアウトを考え、頭の上にある時計を見る。
「何っ……」
何とも不思議なことが起こっていた。時計の示す時間は午前5時、それはおかしくない。が、問題は日付だ。
「8月2日……。そんなバカな!」
何と日付が8月2日、つまり既に経験した時間になっているのだ。山田としてリストラされたのが8月1日、そして妻を殺したのが8月2日だった筈だ。そして占い師になったのが、8月3日だとばかり思っていた。
「もしもし?」
私は念の為フロントに確認の電話を入れてみた。もしかしたら時計が狂っていることもあり得る。
「如何致しました?何かございましたか?」
「いや別に大丈夫なんですが、あの今日って何月何日かちょっと聞きたくて……」
「はあ?」
応対しているフロントマンも、早朝からの下らぬ問いに呆れている感触だ。
「だから今日の日付を聞いてるんですが……」
相手の態度などどうでもいい。今、私にとって今日がいつなのかは重大事項である。
「8月の2日、午前5時3分ですが」
淡々と話す相手とは対称的に、私は大きなショックを受けていた。眠気がいっぺんに覚めたくらいだ。電話を切り、受話器を置くと、私は部屋で絶叫した。
「わああ!」
どうなっているんだ、これは。占い師になっただけではなく、日付まで戻っている。この現象が起こっているのは私だけなのか、それとも地球全体なのか。そもそも山田広三になっているのは誰なのか?考えれば考える程、訳がわからなくなってくる。
「ん、待てよ!」
それでもよくよく省みると1つだけわかっていることがある。前回の8月1日の出来事を、今回の8月1日に私と山田は踏襲している。山田と占い師の繁華街での出会い、占い師のゲロ吹っかけ事件、両方とも8月1日に共通して起こったことだ。では、8月2日に同じ事を繰り返せばどうなるのだろう。確かその日には、妻を殺した後に占い師と出会い妙な占いをしてもらい……
「そうか。もしかしたら……」
そうだ、その後眠って起きた時にはもう今の占い師の姿になっていた。とすれば今日の夜、占い師として同じ行動を取れば、何かが起こるかもしれない。それは充分に考えられる。もちろん危険な賭けでもある。何故なら再び山田広三に戻る可能性も高いからだ。ひょっとすると何もかも失って、妻を殺害した後の彼に戻ってしまうことも大いにあり得る。かといって、このままでいるのも好ましくない。
「ええい、なるようになれ」
私は前回の8月2日をトレースする決心を固めた。山田になったらその時はその時である。一連の事件で、多少なりとも勇気が備わったようだ。決心をした途端、安心したのか強烈に眠気が襲ってきた。
「はっ……」
目覚めた時にはもう窓の外は薄暗かった。余程疲れていたのだろう。一応、ホテルに連泊を申し出ておいたので、起こされもしなかったようだ。前回の8月2日に占い師と出会ったホテル街へ着いた頃には、もう空は黒色に包まれ、月が完全に昇っていた。私は建物の影に隠れて黒装束をまとい、机を引っ張り出してきていつでもインチキ占いができる態勢を整える。ネオンライトがまぶしく輝いていることを除けば、静かな通りに黒い占い師が1人というのは、華々しさから掛け離れた光景だ。こんな場所では客も来やしないだろう。そんな所にあの男は来た。いきなり背後からぶつかってきたのだ。
「痛っ……」
痛みに声を発して振り返る。立っていたのはやはり山田広三その人であった。この間で少し慣れてはいたが、やはり数日前まで自分だった顔を見ると、薄気味悪い。山田の方も私の出現に驚いたようで、茫然自失としていた。
「また……、会いましたね」
私は緊張を唾と共にゴクリと飲み込み、占い師らしく落ち着いた素振りをして語りかける。
「あ、あんた……、何でここに……」
「とかく占い師とは……、人生に大きな変化を起こしている人の前に現われるものです……」
私は前回占い師に言われた通りに訳のわからぬ理屈を述べた。
「あなた……、人を殺しましたね?」
さらに単刀直入に切り込む。前回と同じ事が起こっているなら、山田は妻を殺している筈である。当たっていたのか、彼は急に震えだした。
「安心して下さい。喋ったりはしません」
山田の妻殺害は事実のようなので、私は精神的優位に立つことが出来そうだった。
「じ、じゃあ何だっていうんだ!」
山田は明らかに焦っている。
「あなた……、今人生のどん底をさまよっておられる……」
「な、何おうっ!」
「隠してもわかります。あなたは会社にリストラされ、妻に逃げられ、そしてその妻を殺害してしまった……」
喋っていて、私は己れが味わった苦痛の数々を、自ら暴露するように感じていた。
「あわわ……、何でそれを?」
知っていて当たり前である。
「ご安心を……。日はまた昇ります。悪いことばかり続く筈がありません」
「そんなこと言うけど、もう何もかも失ってしまってるんだよ!」
彼は私の言うことを全く信用していないようだ。仕方あるまい、当時は私もそう思っていた。
「大丈夫です……」
「何が大丈夫なんだ!理由を言ってくれなきゃわからないじゃないか」
「あなた……、今生きているこの世界は現実ですか?」
自分で言っておきながら、このセリフには考えさせられた。本当にどうなんだろう?私は現実の世界に生きているのか?
「は?」
「ですから今起こっている事象が現実とは限らない……、と申しているのでございます」
「でたらめもいい加減にしたまえ!慰めてくれるのはありがたいが、そんなことを言われたところで今の私の救いにはならないよ」
ついに彼は占いに見切りをつけ、クルリと振り向いて私の元を離れて行こうとする。
「でたらめなどではありません!今日眠って起きた時、きっと変わっています!」
背を向けた山田に、仕上げの言葉を叫んでやった。彼は耳を貸してない様子だが、そんなことはこの際どうだっていい。とにかくやるべきことはした。あとはどういう結果になるのか明朝を待つだけだ。私はホテルに帰ってさっさと眠った。




