その3
『株式会社ニシザワ』は残業が無い限り6時には業務終了する。私は会社帰りの加藤を尾行して、奴が一人になったところで襲いかかることを決心していた。懐中には出刃包丁が仕込まれている。そして会社から道路を挟んだ、反対側の通りの街路樹に身を隠し、加藤が出てくるのを待つ。今さら自分の身などどうでも良かった。とにかく加藤さえ討ち取れば、刺し違えてもいい程の覚悟がいつしか備わっていた。後は奴が出てくるまで、時計と会社の入り口を代わる代わるにらめっこするだけである。
次々と退社する人間が出てくる中、7時になっても加藤は姿を現さない。時間が延びるだけ段々と緊張感も増してくる。既に最初の勢いは30%くらいカットされていた。ついには小便をもよおしてきた。目を離すわけにもいかず、仕方なくその場で排尿する。昨日の酒が残っているのか、異様に臭い。何か尿が自分の人生を象徴しているようで、厭な気分になってしまう。このままでは完全に気勢をそがれるところだった。だが、
「加藤!?」
望遠機能に欠けてはいるが、それでも生来の2つのレンズは怨敵の姿をはっきりと捉えた。慌てて尿を弱気と共に出し尽くし、奴に照準を合わせる。幸いにして敵は一人だ。私は信号をも無視して通りを渡り、完全に尾行態勢に入る。加藤は全く気付いていない様子で駅の方へ向かい、そのまま電車に乗り込んだ。それを見て、私も混雑に紛れて車内に侵入する。そして何とか奴に気付かれずに見張ることの出来るポジションを確保した。窮屈な中、15分も揺られただろうか、加藤は奇妙な行動に出た。自宅のある最寄り駅を降りずに通り越したのである。別に酔って寝ている様子でもない。先の駅まで行くことに何か目的がありそうな雰囲気だ。
結局加藤は3つ先の駅で降りた。それを追う私も人の波を掻き分けて後に続く。改札を出て加藤が向かったのは、大きな公園の広場にある銅像前だった。誰かと約束でもしているのだろうか。奴はキョロキョロと辺りを見回している。どう見ても人を探している感じだ。私は加藤が見えるギリギリの所で、茂みのような所に身を置いた。
何分待ったのか、加藤が手を上げる仕草を見せた。相手がやってきたのだ。予想するまでもなく女性である。が、しかし女性は女性でもただの女ではなかった。私は全身が総毛立つのを感じた。
何と加藤の相手は私の妻だった。二人は軽く話し込むと身を寄せあって公園を離れようとしている。こういうことだったのか……。私はショックを受けると同時に殺害意欲が120%増してきた。半ばヤケクソな気持ちで、今こそ妻に勇気を見せてやるとも思った。
私は茂みから飛び出し、見失わないように奴らの姿を追う。幸いにして二人は人気の少ない路地の方へ入りこんで行く。そして明らかに性交渉を持つべき場所に入った。一度冷めかけた怒りが再び沸点に達していた私は、包丁を手に、ついに奴らの前に躍り出た。
「あ、あなた!」
まず声を揚げたのは妻だ。彼女は私を見て怯えとも驚きとも判断つかない表情をしている。
「や、山田さん……。こ、これには訳が……」
さしもの加藤もひるんで、後ずさりしている。その表情はいつになく弱々しい。
「うるさい!みんなお前が悪いんだ!こ、殺してやる……」
奴らの言い訳を聞く気など毛頭ない。ゆっくりと歩を詰めて二人に近付く。
「あわわ……」
二人共、足は震え、その場から動けない様子がうかがわれる。私は何の躊躇もなくまず加藤に迫る。
「し、死ねええぇぇ!」
絶叫と共に右手の包丁が突き出される。瞬間目をつむっても、肉の塊を貫いた感覚が確かに右手にあった。さらにその手にはドローッとした液体が付着して、相手の出血を容易に連想させる。だが、
「あぁぁ……」
出刃包丁に刺し貫かれ、胸を血に染めていたのは加藤ではなく、妻の方だった。妻が加藤をかばったのだ。私の一撃は心臓を貫いており、妻はその場に崩れ落ちる。
「うわあああ!」
それを見た加藤は叫びを揚げて一目散に逃げ出した。私は奴を追おうにも追えなかった。妻を刺し殺したというショックが大きくて、加藤を追うどころか茫然として身動き一つ出来なかったのである。
「キャーッ!」
悲鳴が上がって、ようやく正気に返った。1人の女性が、私が血塗れの妻の傍らにいる姿を目撃したのだ。ヤバい状況に気付いた私は、とにかくその場を離れようと走り出す。女性が追ってくる気配はない。しんみりとした通りまで来て、やっと少し心の平静を得た。人の姿が見えなくなったので走るのをやめ、歩きに切り替える。
「ハア、ハア……」
人を殺したという衝撃はまるで身体の芯にこびり付くようで、いつまでも抜け切らない。全身に血が蠢くような感覚が走っている。そして脳裏には血に染まった妻の顔が浮かぶ。私は夢遊病者のように薄暗い通りを歩んでいた。視界は全く不明瞭で盲目にでもなったようだ。そんな目の見えない状態の私に何かがぶつかった。
「痛っ……」
ぶつかった何者かの発声で、急速に正気への扉が開かれてきた。視界が段々と晴れてくる。そして目の前にいた奴を見て、私はギョッとした。
「また……、会いましたね」
眼前には、黒い塊が机に灯をともして座っている。それはあの嘔吐物を吐きかけてきた占い師だったのだ。
「あ、あんた、何でここに……」
私は驚きのあまりこんなことを言うのが精一杯だった。
「とかく占い師とは、人生に大きな変化を起こしている人の前に現われるものです……」
占い師は落ち着いた調子の高い声で、何やら訳のわからぬ理屈を述べる。言っていることはチンプンカンプンだが、声の調子でようやく奴が男であることだけは判断できた。
「あなた……、人を殺しましたね?」
彼は単刀直入に切り込んできた。彼に会っただけでドキッとしていた私は、その数倍の衝撃を加えられて震えすら覚える有様だ。
「安心して下さい。喋ったりはしません」
「じ、じゃあ何だっていうんだ」
いきなりの出現が解せず、怯えながらも尋ねる。
「あなた……、今人生のどん底をさまよっておられる……」
「な、何おうっ!」
「隠してもわかります。あなたは会社にリストラされ、妻に逃げられ、そしてその妻を殺害してしまった……」
「あわわ、何でそれを?」
私は恐怖を感じた。この占い師はヤバ過ぎる。
「ご安心を……。日はまた昇ります。悪いことばかり続く筈がありません」
彼は私の問いなど完全に無視して、己れの言いたいことだけをつぶやいている。
「そんなこと言うけど、もう何もかも失ってしまっているんだよ!」
彼の言葉など、所詮都合の良いうたい文句にしか聞こえない。
「大丈夫です」
「何が大丈夫なんだ!理由を言ってくれなきゃわからないじゃないか」
彼の煮え切らない態度は人をイライラさせる。しかしそれをスカすように
「あなた……、今生きているこの世界は現実ですか?」
と禅問答でもするかのような台詞を続けて浴びせてくる。
「は?」
「ですから今起こっている事象が現実とは限らない……、と申しているのでございます」
何を言っているんだこの占い師は。今までの悪いこと続きが全部夢だったとでも言うのだろうか。頬をつねるまでもない。私の心臓は鼓動で高鳴っている。夢である筈がない。
「でたらめもいい加減にしたまえ!慰めてくれるのはありがたいが、そんなことを言われたところで今の私の救いにはならないよ」
私は占いに見切りをつけ、振り向いて彼の元を離れようとする。
「でたらめなどではありません。今日眠って起きた時、きっと変わっています!」
占い師の叫びが聞こえるが、私は耳を貸さずにその場を立ち去った。
不気味な男だった。私の境遇をピタリと読み当てるなんて……。でも彼の言う未来は信用に足るものではない。この世が現実でなければどんなにいいだろう。そんな希望的観測は聞いていて腹が立つだけである。人を殺したのだ、ただで済む訳がない。どうやったってお先真っ暗だ。もうこうなったら少しでも捕まらないようにするだけだ。私は自由な時間を少しでも繋ごうと、路地裏にある安ホテルに宿泊しようと決めた。




