その1
「ふわあああ~あ」
目が覚めた。いつものように6時30分。まずはたまった尿をトイレで出してスッキリとして、その後、洗面所で顔を洗う。生まれてこのかた、子供の頃から全然変わらない習慣だ。ただし、今日の朝食は食卓で私1人。妻は息子と共に実家へ遊びに行って泊まっており今朝はいない。
7時45分、誰の見送りもなく出社した。
『株式会社ニシザワ』と言えばレトルト食品業界でもベスト5に入る大企業で、私、山田広三は大学卒業後の24歳から22年間、この会社に身を捧げてきた。本日も仕事への意気込みを持ち、入口のガラス扉をくぐる。チーンという音が響き、エレベーターが1Fに来たことを知らせていた。並ぶ者が数名いたが、定員20名の大型の箱なので、後ろから乗ることに何の問題もない。
男だらけの密室内は厭な匂いで充満している。今日から8月、暑さも真っ盛りで男の汗臭さも最高潮である。中に入るや、匂いに顔を背け新聞に目を通していると
「山田課長、おはようございます」
と声が掛かった。振り向くと背後に直属の部下である加藤が立っている。
「おう、おはよう」
「課長、お早いですね」
「いや、いつも通りだが」
時刻は8時15分、いつもと変わり無い。
「はあ……」
加藤は私にそう言われると口をつぐんでしまった。元々、この男とはウマが合わない。私のように鈍重で努力だけの人間と違い、彼は切れ者で才能豊か、それでいて顔まで良くて、遊びも充分にこなす次期出世コース当確の人間だった。私がエレベーター内で人に背を向けて新聞を見ているのも、まさに彼のような人と会いたくなかったからだ。
「最近ご家庭の方は如何です?あの佑介君でしたっけ、元気にしてますか?」
それでも加藤は顔を合わせてしまった以上、黙っている訳にもいかないようで、無理矢理に話題を見付けてきて会話を繋ぐ。
「ああ。元気一杯だよ」
「それは何よりです。ところで……」
言った瞬間、加藤の顔つきが何となく悪意を含んだものに変わったような気がした。次の彼の質問は実に意外なものだった。
「課長は貯金とかされていますか?」
「は?」
質問の趣旨がわからず聞き返す。
「ですから貯金とかされていますか?」
「何でまたそんな質問をするんだね?」
「いやあ、大した理由はありませんが、課長が老後のこととか考えていらっしゃるかどうか聞いてみたかっただけですよ」
加藤は全く悪びれる様子もなく言い放つ。その顔はどことなく薄笑いを浮かべているようでもある。
「そんな、貯金なんてある筈がないじゃないか。家を建てたばかりだし、子供も生まれて何かと出費ばかり嵩んでいる状態だよ」
結婚以来、ずっと都心に近い高額マンションで暮らしていた私達夫婦は、長男の佑介が誕生したのを機に、郊外にある土地を買い取って一戸建て住宅を建てたばかりだった。そのため貯金などものの10万円もなくなっていた。
「へえー、そうなんですか。でも課長、お金は貯めといた方がよろしいですよ。いつ何時どんなことが起こるかわかりませんからね」
加藤は今度は気のせいでなく、本当に厭らしい顔をして、嫌味ったらしく言った。私は少々ムッとして彼を睨みつけようとしたが、ちょうど我々の職場である8Fにエレベーターが到着した為、降りることに集中して話が途切れてしまった。
「では課長、また後ほど……」
エレベーターから降りると、加藤は真っ先にトイレの方へ行ってしまった。どうやら出社直後に社内で用を足すのが彼の日課らしい。結局、加藤の言いたい放題に言われて、朝から若干イラついた気分で仕事に就くことになってしまった。
私の課はまだ誰も出社していなかった。私は『山田課長』という石製名札の置いてある机に座って、仕事用の書類を取り出す。そしてパラパラとそれをめくって目を通し、本日の業務に備える。これもいつもの習慣だ。
9時になると、業務が開始される。間近になって、社員達が次々と集まってきた。私も課長として、朝礼に赴こうと席から立ち上がる。その時背後から声が響いた。
「あー、山田君、ちょっといいかね?」
振り向くと社内でも『鬼』という異名を持つ、小西人事部長が立っていた。
「は、はい」
返事をして、ダッシュ並のスピードで部長の元へ馳せ参じる。ちょっとしたことでさえ見逃さないという小西部長のことだ、隙を見せてはならないという気持ちが私を支配していた。
「これから朝礼かね?」
「は、はい、そうです」
「じゃあ朝礼を済ませたら第2会議室へ来るように。ああ、加藤くんも一緒にだ」
「はい」
加藤は『鬼』など恐くも何ともないといった顔をして、落ち着いた様子で返事をする。むしろ少しばかりニヤケ面が入っているようにも見えた。
「では頼むぞ」
小西部長は我々の了解を確認すると、エレベーターの方へ去って行った。
「それでは朝礼を始めます」
私は小西部長が何を言おうとしているのか気になって仕様がなかった。そのため、朝礼を行なっている時も頭にそのことばかりがチラつき、何を言ったのか全く覚えていないくらいだ。唯一、加藤のニヤニヤした顔だけが目に入っていた。
「では課長、参りましょうか?」
いつの間にか朝礼は終わっており――それに気付かない程私は緊張していた、加藤が第2会議室への移動を促す。部下達は既に動き始めており、上司2人が席を離れることに何の心配もない。私は動悸の速さを身体の中で感じながら、加藤と共にエレベーターへ向かった。
数分後、我々は『第2会議室』と札の掛かったドアの前まで行き着いた。深く息を吸い込み、落ち着こうとしている矢先、加藤は無神経にもドアをノックし始めた。
「はい」
まだ心を落ち着けないうちに中から返事が聞こえる。
「小西部長、山田と加藤参りました」
と加藤が勝手に返答した。全く何という男なのだ。
「入りたまえ」
部長も私の心中など知りもせず、招き入れる。緊張感は最高潮に高まり、汗が多量に毛穴から吹き出す感覚を覚えた。
「失礼します」
加藤はお構いなしにどんどんと事を進めていき、部屋に入る。こうなると私も入らない訳にはいかない。若干震える足付きで彼の後に続いた。
「座りたまえ」
小西部長の顔はまだ『仏』だった。我々は言われるままに椅子に腰掛け、部長が口を開くのを待った。部長は何を考えているのか、なかなか話を切り出さない。それどころか私の顔色でもうかがっているようで、薄気味悪くなる程だ。何分たったか、ようやく部長の口が開いた。
「実は山田君、君に来月から渚物産の方へ移ってもらいたいんだ」
「は?」
私には部長の言ったことがまだよく飲み込めていなかった。それを悟った部長は辛そうな顔をして再度言う。
「来月から渚物産に行ってもらいたいんだ」
「な、渚物産……?」
私はあまりに唐突な申し出に、まだ事の次第が理解できなかった。追い打ちをかけるように部長が言葉を繋ぐ。
「そう、ウチの系列会社だよ」
その言葉を聞いた時、これは夢なんじゃないかと思った。しかしどうあがいても紛れもない現実だ。要は部長、いや会社は私をリストラしようとしているのだ。ああ何ということだ、会社の為に22年間も尽くしてきたのに、一度の失敗であっさりと厄介払いするなんて……。
失敗、それは去年のことだった。私の課からアイデアを出した新製品『インド風スパイスレトルトカレー』の販売に大赤字を出してしまったのだ。既に競合他社も同じような製品を発売している最中、宣伝文句に『本場インドの香りと味』というありきたりな言葉を使ったことが、批判の的となっていた。しかも営業でも大した成果を上げる事が出来ず、課長である私の責任問題にまで発展しかねない状況だった。だが、その場は「今後の奮闘を期待する」という訓示を受けるにとどまったのだ。それで安心していた矢先の今回のリストラ通達……。突然の宣告に大きなショックを受けない筈がない。そんな私の心情を知ってか知らずか、小西部長はいよいよ『鬼』に変身して、金棒で叩きつけるように辛い事実を畳み掛けてくる。
「それで……君の後釜だが、ここにいる加藤君にやってもらうことにする」
「ええっ、本当ですか?」
加藤は如何にも『寝耳に水』という驚きの表情を見せる。
何だって?私は己れの耳を疑った。去年の失敗だって加藤も一枚絡んでいるのに、何故彼が抜擢されるのか。加藤め、調子良く上司に根回しでもしていたのだろうか。
「今月中に山田君は加藤君に引継ぎを済ませておくように。話は以上だ。移動先の詳しい事などはおって通達する」
『鬼』は冷酷にも言い放つと、後ろめたさもあるのか、さっさと部屋を出て行った。
「課長、元気を出して下さい。またいいこともありますよ」
放心していた私を加藤が現実の世界に連れ戻した。元気付ける振りなどして、この男には呆れてしまう。献身的なのは言葉だけでその顔は笑っている。今にして思えば、今朝の加藤の様子はいつも以上に嫌味ったらしかった。おそらくこの男は、私がリストラされることを知っていたのだ。それで貯金のことをわざと聞いてきたりしたのだ。なんと心のひねくれた奴だろう。私は彼を殴り付けてやりたい気持ちをグッとこらえて、共に8Fの課に戻った。




