月夜のピアノ
最後のお客様が店を出たので、マスターは店のドアに「CLOSED」の札をかけた。
ここは、ジャズバー「ムーンライト」。
幾分、早仕舞である。
若い頃は夜通しピアノを弾いていたこともあったが、歳には敵わない。
それに、今夜はちょっぴり特別な晩なのだ。
マスターは店の灯りをちょっと落として、窓にかかる分厚いカーテンを開いた。
空には満月が煌々と輝いている。
今夜のシンガー、彼女の歌はなかなか良かった。
ほんのり掠れた声に、なんとも言えない艶が漂っていた。
マスターは、少し薄くなった髪をなでつけ、黒縁の眼鏡をかけ直して、ピアノの前に腰かけた。
「Fly Me to the Moonか・・・」
マスターの指が鍵盤の上をなめらかに滑り出した。
やや背を丸めて、どこか哀愁のあるメロディを柔らかに弾く。
窓から月の光が差し込んで、マスターの横顔と指を照らした。
白と黒の鍵盤の上、マスターの指の影と月の仄白い明かりが交差して、音を奏でてゆく。
マスターの滑るような指づかいと、見え隠れする月の優しい明かり。
それは、まるで、マスターと月の連弾のようでもあった。
いや、月の光が鍵盤に落ちる度、本当に音は鳴っていた、と思う。
マスターの奏でる燻したようなピアノの音に混ざる、澄んだ音色。
やがて。
静かに曲が終わり、マスターの手が鍵盤から離れた。
「うん。今夜も良いセッションだったよ」
マスターはカウンターの奥からグラスを2つ持って来て、琥珀色のウイスキーを注いだ。
そして、ピアノの上に置いた片方のグラスに、軽く自分のグラスをぶつけて、楽しそうに一口飲んだ。
ため息のように、ひそやかな明かりがピアノの上のグラスに落ちていた。
童話、とは言えないかもしれませんが、ね。




