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広場のバイオリン

夕方になると、広場の空気が少しだけ澄む。

人の足音が減り、代わりに風の音が目立つようになる。


少年は、その時間になると必ずベンチに座っていた。


彼は生まれつき目が見えなかった。

だから世界は、形ではなく音でできている。


石畳を踏む靴音。

噴水の水が落ちる一定の間隔。

遠くで鳴る鐘の余韻。


そして――バイオリン。


広場の端、噴水のそば。

毎日同じ時間、同じ場所で、ひとりの少女が弾いていた。


少年は姿を知らない。

けれど、弓が弦に触れる最初の音で分かる。


今日は集中している。

今日は少し迷っている。

今日は、何かを振り切るように強い。


音は、少年にとって光だった。


落ち込んだ日も、体調が優れない日も。

バイオリンを聴くと、胸の奥が少し温かくなる。


(今日も、大丈夫だ)


音が、そう言ってくれる気がした。


ある日、リリが少年のそばに立った。


「ここ、よく来るのね、あ、私はあそこの占いハウスのリリ」


少年は頷く。

「音が、好きなんです」


「占いは?」


「未来は……いいです」

少し考えてから、少年は続けた。


「この音を聴くと、元気が出るんです。

世界が、広いって思える」


リリはカードを出さなかった。

ただ、広場に満ちる音に耳を澄ませる。


「あなた、ちゃんと“聴いて”いるのね」


それだけ言って、リリは微笑んだ。


それから数日後。

バイオリンの音は、突然聞こえなくなった。


少年は、いつもの時間にベンチに座る。

噴水の音はある。

人の足音もある。


でも、あの音だけがない。


(今日は……お休みかな)


次の日も、

その次の日も。


胸の奥に、静かな不安が溜まっていく。


リリは、少年の隣に立った。


「……音、探してみる?」


少年は少し驚いた。

「探せるんですか」


「んー、あまり自信はないかな、、」


リリは噴水のそばのバイオリンの女の子が

いつも弾いていた場所に立つ。


少年は、その場でじっと音を待つ。


リリは目を閉じた。


この場所に残る、かすかな揺れ。

繰り返された旋律の名残。

積み重なった時間。


――残っているものに、そっと触れる。


浮かび上がるのは、

遠くへ向かう決意。

急いでまとめた荷物。

音だけは、置いていったという感覚。


(……もっと奥へ、この音を辿れる気がする)


そう思った瞬間、

リリの意識が強く引かれた。


足元が消え、身体の感覚が薄れていく。

上下も前後も分からない。

ただ、加速だけがある。


まるでジェットコースターに放り込まれたように、

意識が前へ、前へと引き延ばされていく。


細長い音の軌跡。

それは、ぐねぐねと曲がる一本のリボンのようで、

リリはそれを必死に掴みながら、

高速でどこかへ運ばれていった。


色も形もない空間。

ただ、バイオリンの音だけが、道標のように続いている。


――辿り着いた先。


少女が、そこにいた。


知らない部屋。

知らない景色。

けれど、音だけは間違いなかった。


リボンのような音が、彼女の身体にぐるぐると巻き付いていく。

抱きしめるように、確かめるように。


次の瞬間、

弾けるように、視界が反転した。


リリは、その場に立っていた。

噴水のそば。

いつもの広場。


息が、少し乱れている。


ほんの一瞬。

彼女の姿と、意識の奥に触れた感触だけが、確かに残っていた。


「……私に、こんなことができるなんて……」


リリは、呟く。


「少しは……成長してるのね」


そして、少年の方を見る。


「もう、この街にはいないみたい」


それ以上は言わなかった。

理由も、行き先も。


少年はしばらく黙っていた。


やがて、静かに言う。


「……でも」


リリが振り向く。


「音は、消えてません」


少年は胸に手を当てる。


「ここに、あります」


時間は流れた。


何年も経ったある日。

青年になった彼は、部屋でラジオを聴いていた。


流れてきたのは、バイオリンの演奏。


最初の一音で、分かった。


あの音だ。


広場で聴いていた頃よりも、

ずっと遠くまで届く音。


青年は、静かに微笑んだ。


夕方。

彼は、いつものように広場へ行く。


噴水の水が落ちる音。

石畳を踏む人の足音。

風が、葉を揺らす音。


何も変わらない。


バイオリンは、もう鳴らない。

それでも、広場はそこにある。


青年はベンチに座り、しばらく耳を澄ませる。

そして立ち上がり、歩き出した。


足音が遠ざかっていく。


その背後で、広場は今日も、

いつも通りの音を鳴らし続けていた。


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