風便
雲の切れ間を、二本の箒が並んで飛んでいた。
「あなた、何か特技あって?」
先を行く黒いワンピースの魔女が、くるりと振り返る。
大きなツインテールが、空に弧を描いた。
「いえ……いろいろ考えてはいるんですけど……」
ナナは、少し困ったように答える。
「そう。私はもうじき修行があけるの!」
魔女は胸を張った。
「あの町が、私の町なの……大きくはないけど、まあまあってとこね」
「……はい」
「あなたも、がんばってね」
そう言って、魔女は笑い、空を切った。
「じゃあねー!」
魔女の後ろで、黒猫が舌を出す。
空には、また静けさが戻る。
ナナは箒を操り、別の方向へ進路を取った。
眼下に広がる街並みを見下ろしながら、静かに息をつく。
(この街、どうだろう)
これから暮らしていくかもしれない場所。
まだ何も決まっていない。
けれど、不思議と悪い予感はしなかった。
⸻
石畳の通りで、紙の舞う音がした。
「うわっ……!」
足を止めると、郵便局員が荷袋を落とし、手紙を道路いっぱいにばら撒いていた。
「大丈夫ですか?」
ナナは箒を降り、すぐにしゃがみ込む。
「す、すみません……! 助かります!」
二人で無言のまま手紙を拾い集める。
夜の風は冷たかったが、作業はすぐに終わった。
「本当にありがとう。夜も遅いし、家まで送るよ」
「いえ……家はまだなくて。
住む場所を探しているんです。今日、来たばかりで」
局員は少し考え、ぽんと手を打った。
「それなら、郵便局の屋根裏部屋とかどう?
たまに泊まったりしてるから、普通に生活できる部屋だよ。
局長に相談してあげる」
その夜、ナナは郵便局の屋根裏で眠った。
⸻
郵便局の屋根裏に住まわせてもらうようになって、数日が経った。
昼は仕分けを手伝い、夜は静かな屋根裏で眠る。
仮の居場所ではあったが、不思議と落ち着いた。
その日の夕方、局内が少し慌ただしくなった。
「困ったな……」
局員が受話器を置き、眉をひそめる。
「どうしたんですか?」
ナナが声をかけると、局員はため息をついた。
「急ぎの手紙なんだ。
港近くの家にいる人へ……どうしても今日中に届けてほしいって」
「今日中、ですか?」
「うん。
送り主がね、“生きているうちに読んでもらいたい”って」
その言葉に、ナナは一瞬だけ黙った。
「……私が行きます」
局員は目を見開く。
「でも、もう日が落ちてるし——」
「大丈夫です。すぐ戻ります」
ナナはそう言って、箒を手に取った。
⸻
夜の風は冷たかったが、空は澄んでいた。
家の前に降り立つと、待っていた家族が慌てて迎え入れる。
「間に合いましたか……?」
「はい」
ナナは、そっと手紙を渡した。
家の奥から、かすれた声が聞こえた。
しばらくして、扉の向こうで静かな泣き声が漏れる。
「……ありがとう。読んでもらえたよ」
家族は何度も頭を下げた。
ナナは何も言わず、ただ一礼して夜空へ戻った。
⸻
港を離れて、風に乗る箒の上。
夕焼けが、少しずつ夜に溶けていく。
ナナは前を向いたまま、黙って飛んでいた。
その肩のあたりで、寧々が小さく欠伸をする。
「……ねえ、ナナ」
「なに?」
「さっきの手紙さ」
ナナは少し間を置いてから答える。
「……うん」
寧々はしっぽをゆらっと揺らした。
「重たすぎない?
ああいうの、あたし苦手なんだけど」
いつもの、少し斜に構えた声。
でも、からかう感じではなかった。
「でもさ」
寧々は空を見上げる。
「間に合わなかったら、もっと嫌だった」
ナナは、ふっと息を吐く。
「……うん」
「魔法とかさ、すごい力とかじゃなくてさ」
寧々はナナを見る。
「“速かった”だけで、人生一個分救っちゃうの、ずるくない?」
ナナは困ったように笑った。
「そんなつもりじゃ……」
「知ってる知ってる」
寧々はすぐにかぶせた。
「でも、あたしは見たよ。
あの家の灯り、消えなかった」
少しだけ、声が低くなる。
「きっとさ、
あの人、ちゃんと聞けたんだよ」
風の音だけが、二人の間を流れる。
「……ま、郵便屋ってそういう仕事か」
「?」
「開けない手紙を、運ぶ仕事じゃないってこと」
ナナは、胸の奥が少しあたたかくなるのを感じた。
「ねえナナ」
「なに?」
「これさ、続けるでしょ」
ナナは迷わず答える。
「うん」
寧々は、満足そうに目を細めた。
「じゃ、あたしも付き合う。
猫だし。風、好きだし」
箒は、夜の街へ向かってまっすぐ進む。
その風はもう、
ただ速いだけの風じゃなかった。
⸻
郵便局で働き始めてから三か月が過ぎていた。
ある日、局員がナナに声をかける。
「隣町の時計修理屋から、急ぎの配達があるそうだ。
港まで、どうしても今日中に届けたいらしい」
封筒はない。
電話での依頼だという。
「わかりました。私が行きます」
ナナは即答し、箒を手に取った。
⸻
隣町の時計修理屋。
木の看板に刻まれた文字は、ウィッチウォッチ。
扉を開けると、カウンターの奥から声がした。
「いらっしゃい」
白髪をまとめた老女が、にこやかに顔を上げる。
「急ぎの配達を頼みたいんだけど……あら、あなた」
ナナを見るなり、目を丸くした。
「魔女なのね!?」
ナナは一瞬驚き、頷く。
「はい。配達の仕事をしています」
コクリは嬉しそうに笑った。
「それなら話が早いわ。
この時計を、港まで届けてほしいの」
階段の奥から、銀髪ボブの少女が現れた。
「は、はじめまして……」
「ナナです。隣町で配達の仕事をしていて」
「すごい……そんなに速く飛べるんですか?」
ナナは小さく笑った。
「急ぎだからね。じゃあ、行ってくる」
⸻
港に着くと、腕組みをした貫禄ある船長が待っていた。
「おお……来たか」
ナナが時計を差し出すと、船長は大きな手で受け取る。
「これはな、俺が若い頃、祖父にもらったお守りみたいなもんだ。
長い漁に出る前に、どうしても欲しかった」
短く、しかし深く頭を下げる。
「助かった。ありがとう」
ナナは静かに頷いた。
風が、港を抜けていく。
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郵便局へ戻ると、局長たちが待っていた。
「お前、あの配達……」
「速達、じゃないな」
局長は少し考え込む。
「風みたいだった」
寧々がぴくっと耳を動かす。
「……風便」
誰かが小さく復唱した。
「風便、か」
「速さだけじゃない感じがするな」
ナナは、驚いたように目を瞬かせる。
「そんな……名前なんて……」
局長は笑った。
「名前が先にあるんじゃない。
仕事が先だ」
そして、ゆっくりと言った。
「明日からだ。
どうしても急ぎの手紙ってものはある、それが少しでも早く届けられる力がお前にはある」
「やってみるか」
ナナは、一瞬だけ寧々を見る。
寧々は、にやっとした。
「聞くまでもないでしょ」
ナナは前を向く。
「……やらせてください」
その声は、小さかったけれど、迷いはなかった。
⸻
その夜、屋根裏部屋
古い梁と、小さな窓。
風が通る、郵便局のいちばん高い場所。
ナナは布団に横になり、天井を見ていた。
「ねえ、寧々」
「んー?」
「……私、ここに来てよかったのかな」
寧々はくるっと丸くなりながら言う。
「さあ」
少しだけ間を置いて。
「でもさ。
今日の風、悪くなかった」
ナナは、そっと笑った。
窓の外、夜の街に風が流れていく。




