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私はぐっすりと幸せな夢を見るために、毎日その虹色夢見水を飲み始めた。眠る少し前に飲めば、必ず良い夢が見られる。現実なんてどうでも良くなるくらいに、優しい夢ばかり。そして、気づいた。虹色夢見水の見せる夢は、必ず色があることに。
黄色の次は緑で、新緑の小道を白い帽子と白いワンピースで。まるで少女の私は自転車で風を切りながら、木立の歌を聴いていた。
木立はただ優しく葉擦れの音を私に聞かせ、その色を白に映し始める。
青の夢は、雨の中にある色。
雨が優しく、葉っぱの傘の下の私を休ませる。雨はTシャツに映ると青く淡かった。
藍の夢は、藍色の浴衣とりんご飴。りんご飴は、幼い頃に買ってもらった甘い記憶と重なった。
花火が上がる。
赤に黄色、緑に青。
光に染まる私の手。きっと、頬も色に染まっているのだろう。それが、綺麗だと思った。
それは、まるで私の中にたまっていた色が限界を超えて打ち上げられて、もう一度、私を彩ろうとしているようにも思える夢だった。
私は、幸せな光の彩りの中にいる。
そして、最後の紫。
藤棚の綺麗なお城の前にある川で、揺れる小舟に乗っている。
ハムレットのオフィーリアみたいに横たわって、虚ろに歌っている。
違いは、船に横たわる私は、溺れないところ。
色とりどりの花の棺桶のような。色を出し尽くした私を葬送するような。そんな小舟に乗せられて。花の色は赤、橙、黄色に、緑。青に藍。
紫が胸の上。
一週間。私は幸せに満ちていた。体がずっと軽く、調子がいい。仕事のミスも減っている。
七色の夢を見続けて、現実と夢が逆転したような気持ちにすらなっていた。だから、笑顔を見せることができるようになってきた。
だって、現実に嫌なことが起きたとしても、これは夢。
夜になれば、私は夢の中を生きるのだ。
そんな風に。
だから、職場が怖くなくなって、旦那の存在すら気にならなくなってきた。
会社でも自宅でも。
私は幸福に満ちていた。だって、ただ悪夢を見ているだけなのだもの。夢は必ず醒めるものだもの。
だけど、虹色夢見水を失って、五日経った私はふたたび灰色の中にあった。それなのに、メールが繋がらないのだ。
現実を夢にするアイテムを失った私は、気づけばふたたび眠れなくなってしまっていた。
不眠はもともとあったもの。だけど、その不眠の原因は現実だったのに。悪夢まで見るようになってしまった。虹を見ていたはずなのに、すべてが滲み混じり混濁したそれらが真っ黒なペンキのように落ちてくる。
それが空を見上げていた私を呑み込むのだ。
真っ黒な空に呑み込まれ、黒から逃れようとする私。
息ができない、そう思った時には、足元に現れた黒い水の中へと頭を押さえつけられていた。
「どうしたの?」
同僚が珍しく私の顔を覗き込んでいた。
「最近、調子良さそうだったのに、また顔色が悪くなったように感じたから」
「えっ?」
慌てて目を擦ってしまった私に、同僚が「体調悪いなら、早退したら?」と優しい言葉と手をくれた。
肩に載せられたその掌は温かく、やはり何かを溶かしてしまいそうなくらいだった。
ほんの少しの温かさが欲しい。少しでもいい。だけど、もっと欲しい。決壊してしまった私の欲求は、終わりを知らなかった。ただ、もっと。もっとと。今までの渇きを補充するようにして。
求めた。
私が生きるための優しい世界が、欲しい。
優しさと平穏、そして何者にも邪魔にされない私。
私はそれらがある場所を知っている。ここには、もうない。
そして、その場所を作るために必要なものは、あの水だ。
あの水が欲しい。
虹色夢見水が、欲しい。
あれがあれば、彼女は明日も優しくしてくれるかもしれない。調子のよくなった私に声をかけてくれた同僚は、不調の私なんて受け入れてくれない。愚痴なんてとんでもない。そんなことをすれば、また白い目を向けるようになる。
「どうしたの?」
今度は驚く同僚の声。
「早退、します……」
「うん、早く帰って体調戻しておいで」
早退した私は、駅についてさっそく虹色夢見水を注文しようとした。しかし、つながらなかった。
何本列車を見送ったかも分からない。
携帯の送信履歴が一目分同じになっていた。
それでも、駅のホームのベンチに座って、ずっとメールを打ち続けている。
もしかしたら、つながるかもしれない。列車に乗ったら、電波が悪くなるかもしれないという、理由を勝手に作り、ずっと同じ場所でメールを再送し続ける。
それなのに、宛先なしの返信が、即戻ってくるのだ。
MAILER DAEMON
もう一度。
同じくDEMON
私はDEMONのポストばかりにメールを入れ続けていた。
つながらない。つながらない。つながらない……。
私の幸せが、つながらない。
ホームの雑踏が少しずつ増えていく。みんなの帰宅時間になりつつあるのだ。
それでも、一分でも早く。
明日までに、一本でも。
「お嬢さん」
あの声が聞こえた。その声に反応するようにして、私は立ち上がっていた。彼がどうしてここに現れたのかも不思議に思わず、ただ、あの水を求めたい一心で。
「おじさんっ。メールが繋がらなくて。リピートしたいんです。あの水を」
必死になっておじさんの腕を掴んでいた。携帯が落ちたことも気づかずにただずっと、同じ言葉を吐いていた。
「メールが繋がらなくて。メールが」
「今のあなたはため込んだ色が足りない」
「どういうこと?」
おじさんは、ペットボトルを一本取り出して私の前に置く。
ラベルは同じだけれど、虹色ではない。
「同じ水なの?」
「えぇ、もう一度、色をため込んでいただかないと、ということです」
水は差し上げます。
色が溜まれば、またいい夢が見られるでしょう。
最後の方のおじさんの言葉は、聞いているようで聴いていなかった。
今すぐ夢見水が欲しかったのだ。
透明なペットボトルに、口を付ける。
だから、きっと大丈夫。
玄関を開けるとオレンジ色の灯りがまだ点いていた。
「ただいま」
「おかえり」
久しぶりの会話。
夢見水の効果が出てきたのだろうか。
「ごはんは?」
「まだ」
「作るね」
わずかに弾む声に『黄』色いチェックのエプロンを付けて、炊事場に立つ。スパゲティがあったから、それに塩胡椒と、ハムとキャベツと。
「あのさ、もう俺の分は書いてるから」
「え」
緑の罫線が書かれた用紙には、『離婚届』の『緑』の文字がある。
「もう耐えられない。我慢大会は終わりにしよう。おれが出て行くから。希実枝がここを使えばいい」
彼が出て行くと言った。
振り返らない。『藍』色のズボンが、歩を止めようとせずに前進する。
待って……。ねぇ、何か月かぶりに私の名前を呼んでくれたじゃない。どうして行っちゃうの?
『青』い色が目に入った。
青いお皿……。お揃いで揃えた青を映したそれは、銀色でもあった。
私はその銀の柄を手に取り握りしめる。
出て行くなんて言うのなら。
色のないシャツが気に食わない。
白々しく潔癖を表す、白なんて。
まだ、色が足りないの。
私に言葉のナイフを投げ続けたくせに、逃げていくその白い後ろ姿を。
欲しい色に染めたいと思った。
ねぇ、最後に私を幸せにするための色をちょうだい。
―――
―――
―――
『赤』い海に沈む私。
もう一度呼んでよ。
と、その柔らかく冷たい『紫』を指で触れ、私の中に溜まった『色』に満足していた。
これで私は生きることができるのだ。
だって、こんなにも清々しい。
―――
駅のホームで黒いスーツの小柄な男性が、疲れ果て、ホーム下の暗闇を見続けるサラリーマンに声をかけていた。
「お兄さん、お疲れですか?」
ターゲットを決めたその手には、虹色に染まる水。
先ほどまでは、ただの水だったもの。
虹色を確かめた黒いスーツの男は、
「大丈夫、虹色のこの水ならば、良い夢が見られますよ。だけど、自分の中に色を溜め込んでは、黒になりますからね。気を付けてくださいよ」
と、冗談交じりに『彼の夢』を語り始めた。
MAILERDEMON、今の方はあまり見ないかもしれませんが、Eメールを存在しないアドレスに送信した場合に、すぐに返ってくるメールのことです。