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夢であることは分かっていた。いつもの雰囲気と違うことも分かっていた。だけどここは、いつもの帰り道だ。駅の階段を下りる前だということも知っている。だけど、聞き慣れない音がする。
一軒の店から賑やかな音楽が聞こえてくるのだ。
あんなところに、お店なんてあったっけ?
淡い赤色の光が漏れてくる扉。そこからは、とても楽しげな音。
歓声。良い匂い。
まるで、お祝いをしているような……。
結婚式の二次会の、新しい門出を近しい者たちで、気負わずお祝いしているような。
淡い赤は、店の壁の色を光が含んでいるからだ。
なんだか、温かな気持ちになる。
朝の光が瞼を通して目の中に射しこんでくる。
朝……。
久しぶりによく寝た気がする。
なんだか、幸せな気分で目が覚めた。ベッドの脇には、あのペットボトルが。
本当に虹色の夢を見た気がした。
体も軽く夢見心地で、朝食の準備を始める。
パンも焼き、サラダも作る。
そろそろ旦那が起きてくる時間。
台所を無視して、顔を洗う音、そして、そのまま玄関の扉が開いた。
私の現実はまた灰色に染まった。
だけど、これが日常だったものね。
そんな風に、ひとりでパンをかじる。おじさんの名刺に書かれたメールアドレスを眺めた。
『商品発送はこちらから。一ケース六本より販売しています』
私は早速、そのメールアドレスを打ち込み、一ケースお願いします、と文章を書いた。
通じるよね、これで。
と思うまもなく、返信が来た。
『承りました。住所と氏名を返信し、こちらへ振り込んでください』
とても簡単な注文だった。
いつも通りの出勤で、いつも通りの職場。ほんの少し怒鳴られることもなくて、ほんの少しいつもよりもスムーズで。後十五分で終業時間。これならいつもよりもましな日々。
「この資料のコピー明日の朝一までで。五十部よろしく」
「……」
二時間はかかりそうな資料のつづりの束を無言で受け取ってしまった私に一睨みする上司も、ほんとうは、いつも通り。たぶん、資料が今できあがって、いつもそれを担当している私に回しただけ。
それなのに、私はそれを理不尽だと感じた。
彼には悪気を感じる心もない。
十五分でできない私の手際が悪いと思うだけ。
だから「よろしく」なんて、顔色変えずに言えるのだろう。
コピーを取って、ホチキスをする。
ただそれだけの仕事だけれど、どうしてこんなに嫌なのだろう。
三十五分後、やっと全コピーが終わり、それぞれの資料を番号順に、並べていく。それを一枚ずつ取っていき、もう一度枚数を確認してからホチキスで止める。
カチ。
コピー用紙にもともと少ない手の油を取られながら、一枚一枚確認し、資料番号が重ならないように。
集中していれば、周りのことなど気にしなくてもいい。
そう、今私は、ここにいてここにいない存在。
「おつかれさま~」
「おつかれ」
「ご苦労さん」
だから、いろいろな声が私を置いていく。だれも一緒に手伝ってはくれない。みんな自分の仕事が済んだのだもの。
社内の電気が半分消灯されて、窓の外に夕焼けが綺麗に映り始めた。
みんな、私にお似合いの仕事だと思っているのだろうか。
ふと、辛さがこみあげてきた。
どうしてだろう。だけど、思考を拒否する私がいる。
考えることが、怖い。
仕事だから、と思えば思うほど、自分の辛さが深くなり、同期の出世が憎くなる。出世なんて望んでもいないのに。出世したらそれはそれで大変だということも、ちゃんと知っているのに。
私にはここがお似合いだということも、知っているのに。
頬を掻く振りをして、零れてしまったものを手の甲に移した。
「でも、大丈夫。私には虹色夢見水があるから」
強がるように呟く声すら、その他の残業者には届かない。
もちろん今朝の注文で、今夜、家にあるわけもない。
やっと終わるころには、夕焼けどころか、夜の灯りに星すら見えなくなる時刻になっていた。
交差点で赤信号。車のヘッドライトが目に刺さって、思わず目を覆うと、あの音が聞こえてきた。淡い赤い色の灯り。
夢の中で見た色だ。
いきたい……という衝動に赤を目指して一歩。あの幸せな声の中へ。
しかし、響いたのはあの楽しそうな声ではなく、クラクションの音だった。
「えっ……私……」
寝ていたの?
何も見えていなかった。何も聞こえていなかった。
車の存在も、車の音も。
こんなミスまで起こすだなんて。だから、必死になって考え直そうとした。
そうだ。疲れていたのだ。虹色夢見水があった一昨日はよく眠れた。だけど、昨夜はいつも通り、眠れなかった。何か神経がとがっていて、少しの音で目が覚めて、胸を押さえて起きる。いつも、に戻っていた。
それが、一昨日は、なかった。
―――なかった。
明日は土曜日だ。ゆっくりと出来たら……。
きっと、こんなミス……。
虹色夢見水のない朝は、少し眠たかった。だけど、今日明日辺りには「きっと」と思えば、頑張れた。
洗濯を済ませ、部屋の掃除をする。
いつも出来ない洗面の掃除をすると、気分もいい。
「ぴかぴか」
私が気づいた。ただ、それだけの私の功績。
テレビを見ながら洗濯物をたたみ、その後にゴロンと横になってみる。
橙色の電球は、温かみがあるからと旦那と選んだ色だった。
だけど、白色の方が料理もきれいに映る気がする。
何もごまかさずに、そこにあるような気がする。
今は白く冷たい色の方が、似合う気がする。
インターホンの音に慌てて飛び起きた。
もしかしたら、……。
そう思って、待ち望んだように扉を開くと、見慣れない制服を着た宅配業者が立っていた。
オレンジ色の上下。
「サインお願いします」
段ボールを持っているその片手に、受取証とボールペンが挟まれていたので、それをもらい、言われるままにサインした。
「……ありがとうございます」
もしかしたら、とは思ったが、まさかな、と思っていた。
昨日の今日。
そんな通販、……あったけど。
コンビニに並べるのが夢だという小さな会社ができるとは思えなかった。
それなのに、虹色夢見水が六本、段ボールの中に入っていた。
これを飲めば、眠ることができそう。
そんな風に思って、五本を冷蔵庫へ入れ、生温い一本の蓋を捩じった。
黄色い星の夢を見た。掴んだ星は、口に入れると甘く香ばしく、ほろりと溶けていく。
なんだか、幸せな気持ちが戻ってくる。