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会社では叱られてばかり。一生懸命やっているつもりでも、人間だもの。
誤字くらい出てくる。それを完璧にして出せ、とは、きっと当たり前なのだけど。
家にいる旦那は、何もしない。
言えば、それなら出て行く。離婚しよう、だ。私は、何も言えない。
幸い子どもはいなかった。
そう、幸い……。
ホームに突っ立っていると、電車が通り過ぎていく。
ホームアナウンスが回送列車に注意してくださいと言っていた。
次の列車に乗れば、三十分で自宅につく。
私は、どうしたいのだろう。
会社を辞めれば……。
離婚すれば……。
何を進めて、何を捨てれば、生きていけるのだろう。全部が中途半端に思えてしまう。
「お嬢さん」
声の方を見遣れば、小柄な黒いスーツのおじさんが私を眺めて立っていた。優しいお顔をしているが、警戒しないわけではない。お嬢さん、なんて声をかけてくる人だもの。
知らない人に用事があって声をかけるなら、あのう、くらいがちょうどいい。
お嬢さんなんて、ナンパでも、今はいないのではないだろうか。
「落としましたよ」
しかし、その手にあったのは、私のサブバックだった。
「あ、あ、すみません」
慌てて頭を深く何度も下げてしまう。列車を見ながら、進む道などないと思っていたから、このまま線路に飛び込むという道が、私の生きる道なんじゃないか、とぼんやり思っていたから。
もちろん、思っていただけで、毎日踏みとどまり続けている。
痛いだろうな。
迷惑かかるだろうな。
今もずいぶん他人に迷惑をかけているんだから、これ以上世間に迷惑かけられないよな。
そんな風に。でも、荷物を持つ手は、生きることをやめていたのかもしれない。
「いやいや、そんな大仰な」
大仰なんて言葉を使う人間、初めて出会った。そんな言葉の方が、大仰だと思う。
とても不思議な感じのおじさんだった。言葉遣いだけでなく。
黒いスーツに茶色のステッキ。
さすがに黒い帽子はかぶっていなかったけれど。怪しげな黒い鞄もなかったけれど。
「いえいえ、助かりました。ぼんやりしていましたので」
そう言って荷物を受け取り、会話は終了のはずだった。他人と関わっても良いことなどない。良いことどころか、会話は私の安心を奪うもの。それなのに、おじさんが私の警戒心を再び動かす言葉を発したのだ。
「お疲れのようですね」
関わりたくないという私の曖昧な微笑みに、彼は続ける。
「不審を抱かれてしまったようですね。でも、大丈夫ですよ。ちゃんと虹色になっていますから」
意味の分からない言葉を並べた彼が手に持つペットボトルの中には、虹色に輝く水が入っていた。
「虹色夢見水です」
意味深長な響きの声で、彼はそのペットボトルを見つめる。しかし、それ以降に続いた彼の声は軽く、営業マンそのものになっていた。
「うちの新商品なのです。あ、名刺もお渡しできます。まだまだ小さな会社なので、こうやってお疲れの方に渡しているような……。いずれコンビニでも買えるようにしたい、そんな思いの詰まった新商品。今は通販だけですけれど」
彼が言い終わるのを待っていたかのように、列車がホームに入ってきた。
「私はこれで失礼します。今日はいい夢が見られますよ、きっと」
止まった列車に乗ることもなく、彼は扉から出てきた波とともに、私の視界から消えてしまった。虹色夢見水と言われた、まだひんやりとするペットボトルだけを私の手に残して。
玄関前で溜息を付きながら、鍵を回す。
ガチャリともグチャリとも聞こえそうな音が響き、扉の解錠を私の耳に知らせてくるのもいつものこと。
旦那との会話らしい会話は、ほとんどしていない。
そう。
用事だけ伝えあう。その用事ですら、喧嘩になる。
そう、生活費の話ばかりになってきた。
突然必要になった場合の。
そして、黙らされる。
真っ暗な廊下を進み、自室へと向かう。共働きだからと、互いに個室を持ったことがいけなかったのだろうか。
ベッドで寝ころび、『虹色夢見水』を眺めてみる。
ペットボトルには虹色夢見水と大きく描かれたラベルがペタっと貼ってある。
ペットボトルの形は一般的。
中身の水だけが、不思議な色をしていた。
ゆらりと光る水は、七色の虹というよりもオーロラのようにゆっくりと光が動いていくように見える。
まるで、あれみたい。
カラーセラピーの瓶。
見ていると、嫌なことも忘れられそうな。
飲めば、夢の中へすとんと、落ちていけそうな。
蓋を開ける。匂いはない。
そろりと口を付ける。傾ける。
未知なる飲み物。未確認生物に出会ったようなそれはやはり恐怖でもある。
だけど、そう、『どうせ』な人生だ。
だから、口の中に広がるその水を、ごくりと呑み込んだ。
すると、まるでその色が私のものになるように夢見水は、乾いた私の中にどんどん染みわたっていくように思えた。一口のつもりが、喉が体がその水を求めた。
つららのように尖っていた心が、温かなものに触れ、丸くなっていくような。そして、乾きが満たされていくような、そんな満足感。
最後の一滴を、舌の上に落とすようにして、その白いプラスチックの口に貪りついていた私は、やっと虹色夢見水を口から離した。それなのに、まだ求めたくて、しばらくペットボトルを掲げたままだった。
もちろん、空のボトルからは、もう一滴足りとも落ちてこない。
落ちてこない……。
ふと、脱力感に見舞われた。
ペットボトルが床に転がる。そして、私は崩れるようにしてベッドに倒れ込んでいた。