死の女神と死者の主 下
目が覚めると、私は真っ暗な空間にいた。
いや、私たちは、というべきか。そばにはニールティー女神がいて、神らしくほんのりと光っていた。
それを見て、私は少しだけ父のことを思い出した。太陽神である父はいつも周囲に強すぎる熱と光を振りまいていた。その強さといったら、母がこっそり出ていくほどだ。
私は少々それにうんざりしていたが、もう味わえないと思うと寂しいような気もした。これが郷愁というものだろうか。
そんなことを考えていると、ニールティー女神が私に向かって話しかけてきた。
「妹君との別れは住みましたか?あまり時間をとることができず申し訳ありません。」
「いや、無理を言ったのはこちらの方だ。貴方のおかげで心残りが一つ減った。ありがとう。」
ニールティーの表情は相変わらず読みにくかったが、少し嬉しそうに見えた。
「それなら何よりです。ここは”死への道”、死者が死者の国に向かうための道です。私が案内をいたします。
長い旅路にはなりますが、お互い最早飢えも疲れも知らぬ身、そう辛くは無いでしょう。」
そうして、私たちは死の国に向かって歩き始めた。
歩き始めてしばらくたったころ、私は尋ねた。
「ニールティー、一つ確認したいことがあるのだが。」
「なんでしょう。」
数歩先を歩いていた女神は振り返った。
「僕の罪は近親相姦、そうだな?」
「ええ、ヤマ様の罪は妹君と愛欲に耽ったことです。それがどうかしましたか。」
「それなら、妹もいずれ死ぬことになるのか。」
女神は不思議なことを言った。
「いいえ、そんな事はありませんよ、少なくとも今のところは。ヤマ様の妹君は罪など犯していませんもの。」
「どういうことだ?近親相姦が罪であるならば、私だけでなく妹も同じ咎を負うことになるのではないのか。」
「ああ、説明不足でしたね。だって、妹君…ヤミー様はヤマ様のことを兄とは思っていませんでしたから。」
それは大変衝撃だった。あの子に何か嫌われるようなことをしたのだろうか、と私は本気で思考を巡らした。
「知らなかった。…僕、ヤミーに兄さんって呼ばれていたのだがな。」
ニールティーは私の動揺など意にも介さず話を続けた。
「呼び方など些細なことなのです。ヤミー様は愛神の花の矢に射られていたのでしょう。いつからかは、存じ上げませんが。」
その時、とんでもないことを聞いた気がした。
愛神の花の矢に射られたものは、恋に落ちるという。つまり、妹は恋をしていたということになる。いったい誰に?兄である私ぐらいにはいってくれても良かったのではないか?
そんな頓珍漢な思考を繰り広げていた途中で、やっとあの時、ヤミーが言っていたことを思い出した。
あの時、ヤミーは確かに『《《兄さんが好きだ》》』と言っていた。てっきりあの時は、兄妹愛かと思っていたが。もしかしたら違ったのかもしれない。
「……もしかして、あの子は私に恋をしていたのか?」
だとしたら、酷なことをしてしまったと私は思った。あの夜、ヤミーが何かを伝えようとしていることも、あの子が泣き出しそうな顔をしていることも、私は気づいていたのに。
でも、私はきっとあの子は兄妹愛を勘違いしているだけだと思っていた。いや、思おうとしていた。
ニールティは私の言葉に本気で驚いた顔をした。
「え、…お気づきでなかったのですか。」
しかし、すぐ元の無表情に戻り話を続けた。
「血の近しいものを抱くこと、それ自体が罪なわけではございません。たとえ血が近しい者同士でも、相手に恋をしていたなら許されることもあります。もはや、相手を父娘兄妹以上と思っているからです。その場合、家族の倫理など超えているとみなされます。」
納得のいく理屈ではあった。確かに、ブラフマー神とサラスヴァティー神は父娘ながら夫婦となり、子供をつくっている。
「しかし、あなたは、ヤミー様を妹としか思っていなかった。にも関わらず、平然と彼女を抱いてみせた。それは非法でしょう。だから、あなたは死ぬのです。」
ニールティーはあくまで淡々と話していたが、それが私にはかえってちくちくと責められているような心地がした。
「しかし、ヤミー様はあなたに恋をし、あなたを夫に望んだ。すでに無意識の中であなたを兄とは思っていなかった。それに、あなたとはお互い同意の上で、懇願はしても脅迫はしていない。罪になる要素は一つもないのです。」
しかし、これを聞いた私は飛び上がりたいほどうれしかった。
「そうか、ならよかった。」
つまり、私はあの子に最初で最後の罪を共に背負わせなくて済んだのだ。
「僕は、ヤミーを殺さずに済んだんだな。」
「詳しい説明をありがとう、ニールティー女神。おかげで僕は悔いなく死ねる。」
「いえ、これも私の権能のうちです。」
「なら、もう一つ聞いてもいいか。」
「私の答えられる範囲であればご自由にどうぞ。」
「…なら聞かせてくれ。死者の国で王になるためにはどうすればいい。」
女神は少し驚いたようだった。
「.......王になりたいのですか。死者の国の住民は私だけですから、私が認めさえすれば可能ですよ。理由をお聞かせくださいますか。」
「ヤミーと約束したんだ。いつか迎えに行く、そのために向こうを良いところにしておくから待っていて、と。死者の国を良いところにするには、王になるのが一番だろう。」
「なるほど。動機は不純なところがなくはありませんが、まあ問題にするほどではありませんね。前向きに考えておきます。」
「本当か、ありがとう。」
実は断られてしまうだろうと思っていたので、これは嬉しい誤算だった。
「実は、元々貴方には何か役割を任せようとは思っていたのです。私も死者の国を空けることのほうが多そうですし。まさか、貴方の方から頼まれるとは思いもしませんでしたが。」
そう言われて、私は苦笑いした。
「そういうことか。生前は権能どころか、なんの役目も得られないままだったからな。死後になっても何か役目を欲してしまっているのかもしれない。」
そう聞いて、ニールティーは少し悲しそうにつぶやいた。
「……権能など、あっても良いことなどないかもしれなませんよ。」
「そういうものか?」
彼女は下を向いて、懺悔するように言った。
「ええ、私は生まれながらにして、罪深い役目を負っていますもの。確かに、生類が死ぬのは人の業故です。しかし、人生の最後に怒りと欲望を送って人を殺しているのは間違いなく私なのです。」
その言動には、無個性の下に隠していた自己嫌悪が見え隠れしていた。
彼女はおもむろにこちらを向き、私に問いかけた。
「…貴方だって、私を恨んでいるでしょう?」
「いや、そんな事はないが。」
ニールティーの静かな圧力に私は少し押されていた。
彼女はつかつかとこちらに歩みより、少し問い詰めるように言った。
「本当に?貴方を殺したのは私なのですよ。私さえいなければ、貴方はいまも妹君と一緒に過ごせていたでしょう。」
「それはそうかもしれない。だけど、貴方は僕に定められた死を苦しめることなく下してくれた。最後に妹と会う時間すらもつくってくれた。そんな方を僕は恨むようなことはしたくない。貴方は自分の権能が嫌いなのかもしれない。でも、僕は貴方に殺されるのがあなたでよかったと思っている。だって、あなたは優しいから。」
私がそう言うと、ニールティーのさっきの勢いはなくなっていた、
ニールティーはすこし赤くなった顔をそらして、言った。
「ありがとうございます。すいません、取り乱しました。」
「いや、僕も変なことを言ってしまった。先に進もうか。」
「そうですね。」
それから、死の国につくまで私たちは何も話さなかった。
暗い死者の道には、二人分の足音だけが響いていた。
死の国の入り口には小川があり、その上には小さな橋がかかっていた。
意外と死者の国は地上と大した差はなく、炎がずっと燃えているようなことはなかった。
その橋を渡り、私は死の国の土を踏んだ。それで、特に分かりやすい何かが起きることはなかった。
ただ、体の中の何かが作り変わるような感覚と、二度と戻れないという確信が体の中を駆け抜けた。
ただ、それだけだった。
こうして私は死んだのだ。
その後、私は死者の国ーーーヤマローカの王となった。
王として威厳を出すため一人称を僕から私に変えて、ニールティー女神と分担して死者を迎えにいくようになった。やがて死者を裁き、罰することも始めた。
死者の主として権能を得たことで、死後ではあるが一人前の神となり、南方の守護神ともなった。短い時間ではあるが、地上に出ることもできる。ヤミーに会うことはできないが。
私とヤミーが離れてから、数えられないほどの年月がたってしまった。私はもはやあの子が好きだった、優しい兄さんではなくなってしまっているかも知れない。
それでも私はいつかあの子に会いに行くのを楽しみにしている。
きっと、あの子もそのはずだ。
ー終ー