其の四
祭りの夜から、幾日経ったか。
今日もじわじわと蝉の声がうるさい。
相も変わらず夏は衰えることを知らないようであった。
矢助は上半身を裸にして縁側に腰かけていた。障子を開け放して扇子で扇いでも、届くのは熱い風ばかりである。
昨年はここまで暑かっただろうか。いや、ここまで暑くはなかった。
兎にも角にも、稼ぎに行く気力すら起きない。
このまま稼ぎに行かなければ、いずれ飢えて死ぬのだが、このように暑ければ死んでも良い気がした。
「あれえ、時光さま。あんたまた稼ぎに行ってないのかい」
溌剌とした声が矢助の頭の上から降ってくる。
何だと思い見上げれば、着物の襟からこぼれてしまいそうな白い乳房が目に飛びこんできた。
更に視線を上に上げると、狐に似た目をした、気の強そうな女が立っていた。
「……お妙」
矢助が女の名を呼ぶと、お妙はふんと鼻を鳴らした。
お妙はこの長屋に住む女だ。それ以上のことを、実は矢助は知らない。
お妙の脇に抱えられた色とりどりの古ぼけた布が、矢助の目の前をちらつく。
「その布、どうしたんだ」
「継ぎ布が無いから、饅頭屋の女将から貰ってきたんですよ。時光さまも呆けてばかりしてないで、このくらいできるようになりなさいな。まだ若いんですから」
そう言って、颯爽とお妙は自分の部屋に戻ってしまった。
余計なお世話だ、と矢助は思う。
だが、最初の内は腫れ物扱いしていた矢助に追求をせず、居場所を提供してくれたのは、この長屋だ。ここは、互いの身の上を不必要に探らない。
ただ、矢助は他人に心を開くことを頑なに拒んでいる。それ故に周りからは少し浮いていた。
「まだ若い、か」
先程お妙に言われたことを思い出し、矢助は頬を緩める。だが、矢助は若いと呼ばれて、浮かれているのではない。己の内にあったはずの若さを懐かしんでいるのだ。
お妙の溢れんばかりの乳を見ても、何も感じない。普通、自分のような年頃であれば、恥ずかしさに目をそらすか、ちらりちらり見るかするだろう。
――随分と枯れた心になったものだ。
家を追い出されるまでは、剣術に学問に……それこそ何でもやってきた。周りから期待されて、矢助は満ち足りた生活を送っていたのだ。それが今や、この有様。
「…………」
ぼうっと空を仰ぐ。雲ひとつ無い青が、遠く遠くへとのびていた。
そして突如、蝉しぐれが、止んだ。
「……?」
ふと、何かに見られている気がした。
門の方に目をやると、一匹の三毛猫がちょこんと座っている。
「……猫」
別に、動物が好きなわけではない。
むしろ、この猛暑で、動物の毛皮というのは暑苦しくさえ見える。
けれども矢助は、その猫から目を離すことはできなかった。
にゃあ、と猫が鳴く。まるで矢助に挨拶をするかのように。それからしなやかに、矢助のもとへと歩いてきた。
にゃあ――。
縁側からだらりと下がった足へ、三毛猫は体をすり寄せる。どこかで飼われているのだろうか、人懐っこい性格をしているようだ。尻尾はあまり長くなく、先が団子のように丸かった。
「お前、どこから来たんだい」
ひょいと猫を抱えあげて――矢助は絶句する。
(この猫、片目が無い)
三毛猫には右目が無かった。
左の目はきれいな緑をしていたが、右目は残酷に潰れている。それは明らかに眼病などではなく、第三者の手によって潰されたものだった。
(そう言えば、祭りの日に会った娘も、右目が無かった)
最近は、片目が無いものに出会うことが多いのだろうか。
なんとも不思議な心地がして、猫をじっと見た。
にゃあ――。
甘ったるい声で猫は鳴く。その声に、矢助ははっとした。
こんな不用意に猫を抱えあげて、懐かれでもしたら、どうするのだ!
「――すまない。飯などは無くてな」
慌てて猫を下ろすが、猫はなおも矢助にすり寄る。
「…………」
にゃあ。
「これは……」
参ったな、と矢助は頭を掻いた。抱えあげなくても、既に懐かれていたようだ。
「……俺は、動物に好かれる人間だったのか」
考えてみるも、動物など飼ったことが無いからわからない。それ以前に、動物と戯れる人というのは、決まって女性だと思っていた。猫の頭をなでる手は女性の細い指というのが、定番だと。
と思ったところで、矢助は、自分が動物とふれあったことがないのに気づいた。
町の中をうろつくものや、薬喰いなら見たことがあるが、実際自分がふれあうのは初めてである。
そんなことを考えていたら、途端、緊張してきた。
猫とは、どのように扱えば良いのだろう?
にゃああ――。
「う、ううん、少し待て。俺は、猫に慣れてなくてな」
ついつい猫に語りかけてしまうが、猫がそれを理解しているとは思えない。それよりも、いい年をして猫に語りかけている自分もどうなのだろうか。
意識すればするほど、矢助は困ってしまった。しかし猫はお構いなしに体をこすりつけてくる。
「……こ、こうでいいのか……」
矢助が猫の頭をなでると、猫は驚いて門の外へと駆けて行ってしまった。
「…………」
あとに残されたのは、蝉の鳴く中、縁側に腰かけた上半身素裸の男一人だった――。
「……そんなに下手だったか……」
そこまで動物に関心は無いとはいえ、あのような態度を取られると、流石に矢助も少し落ち込んだ。剣術で鍛え上げた己の手をじっと見つめ、皮が厚いのがいけないのだろうかとため息をこぼす。それとも、強くなですぎただろうか? 否、力なんて全く入れていなかったはずだ。そっと触れただけのはずだ……。
がっくりと肩を落としていると、お妙が通りかかる。
「旦那、何を落ちこんでんだい?」
「いや……、なんでもない」
気落ちしている矢助を、お妙は不思議そうな目で眺めていた。