【 CAFÉ FERMATA (カフェ・フェルマータ) 】
季節は巡り、新緑の初夏――――。
木々は青々と茂り、風にザワザワと音を立てて揺れていた。
ガチャガチャ、バッタ――ン!
カラ―ン、カラ―ン、カラ―ン。
いつもより大きく勢いよくドアの鐘が鳴り響いた。
「いらっしゃいませ――」
真っ赤なワンピ―スにジャラジャラした派手なピアス。
付けまつ毛にはマスカラたっぷりてんこ盛り。
ド派手な女がすごい形相で入店した。
初めて見る客だ。
僕の名前は糸倉翔。
この春から医学部に通う大学1年生。
僕が通う大学の付属病院の裏手にあるこのカフェは僕の叔父が経営するお店だ。
いわゆる隠れ家的なカフェ。
だから新規の客はすぐにわかってしまうんだ。
カン、カン、カン、カンっ、カン、カン、カンっ!!
ピンヒ―ルで甲高い音を立てながら、女はすごい勢いで店の奥へと進んでいった。
木の床にピンヒ―ル。
耳が痛くなるようなイヤな音。
それにしてもすごいファッションだ。
間違いなく僕の好みじゃない。
女は窓際で仲睦まじく笑い合うカップル目がけて一直線に進んでいった。
ロックオン!
男がピンヒ―ルの音に振りかえろうとした瞬間だった。
ガッタ―ンっ!
大きな音とともにその女は男に掴みかかった。
「ちょっとあんた、ここで一体何やってんのよぉっ!」
男はもののけでも見たかのようにとても驚いた顔をした。
女性が男の座っていたイスを蹴り飛ばし、驚きひるんだ男の胸ぐらを鷲掴みにしたのだ。
「お、お、お前、な、な、何でここにいるんだよっ」
「あんたこそ何なの? 誰この女? 今日は渋谷で仕事じゃないの? ここ渋谷ぁ!?」
まさに衝撃的。
ものすごい剣幕でまくし立てるその姿は、まるでテレビドラマのような光景だった。
この〝Fermata〟(フェルマ―タ:通称フェルマ)というカフェは、僕の亡くなったおじいちゃんが始めたお店。
年期の入った店内はちょっと古臭い感じもするが、最近ではレトロな雰囲気がいいとちらほら若いお客さんも増えてきていた。
音楽とコ―ヒ―が大好きだったおじいちゃんは、ゆっくりとお気に入りの曲を聴きながらコ―ヒ―を楽しみたい、そんな想いでこのお店を始めたらしい。
僕のお気に入りの場所でもある。
僕は高校の時からこの店でバイトをしていて時間があればここにいる。大学に入ってからも医学生とはいえ1年生はかなり自由な時間がある。
この店の現マスターで僕の叔父、ジョ―ジ(譲二)のこじゃれた料理と美味いコーヒーを楽しみにこずかい稼ぎをしながら入り浸っているというわけだ。
店内ではお騒がせカップルが大喧嘩を始めていた。
普段なら音楽に耳を傾けながらのんびりできるのに、今日はなんて騒がしいんだろう。
ドビュッシ―の二つのアラベスク。
澄んだ水が流れるような優雅な曲の雰囲気が、一気に崩れていった。
男は興奮した女性を必死になだめようとしたが、全く効果はなかったようだ。
「指輪まで外して! 信じらんない、あんた最っ低よっ!」
バッチ――ン!!
気持ちいいくらいの大きな音で、平手の音が鳴り響いた。
どうやら悪いのは彼のよう。
叩かれた左頬は、見る見るうちに赤く腫れ上がっていく。
紅葉のような赤い痕が頬にくっきりと浮かび上がっていった。
あれは痛そうだ……。
男と仲睦まじく笑い合っていた女性は、どう見ても大人しい清楚な感じ。
落ち着いたベ―ジュのワンピ―スに白のカ―デガン。
どちらかというとこっちの方が僕の好みだ。
店内は一時騒然としたが、ジョ―ジに諭されお騒がせカップルたちは店の外に出ていった。
何事もなかったかのように静けさを取り戻した店内。
あんな修羅場なかなか遭遇するものではない。
貴重な体験をしたもんだと僕は思った。
「いい音してたねぇ。あれは痛いよぉ」
カウンター席にいた一さんがボソっと言った。
この人は僕の亡くなったおじいちゃんの大親友、米山一さん。
ほぼ毎日フェルマに顔を出す、いわばこの店の主だ。
小さい頃から可愛がってもらっていて、一さんは今や僕のおじいちゃん的存在なんだ。
「翔くん、静かになったことだし、もう一度レコード聴かせてもらってもいいかしら?」
フェルマでは店内が空いているときに限り、おじいちゃんが長年かけてコレクションしたレコードのリクエストを受け付けていた。
コレクションのジャンルは幅広く、ジャズにクラシック、ポップにロックにR&B。とにかく何でもありだ。
レコードをリクエストしていた今井さんは歳を重ねても仲良く手をつなぎ歩く、そんな仲睦まじい素敵なご夫婦。
「ゆっくり聴けなかったですよね。かけ直しますね」
僕はいつの間にか鳴り終わっていたレコードの針をもう一度のせ直した。
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