凡人たちのセッション(1)
「やあやあ、修志くん」
名前を呼ばれたのは弁当箱の隅に置かれた玉子焼きを掴んだと同時だった。箸を止め、声の方向に目を遣る。するとそこには片手を上げながら近づいてくる男の姿があった。
「なんだ、圭一か」
見慣れたその涼やかな顔に一言だけ応じて、僕は掴んでいた玉子焼きを口に運ぶ。程よい焦げ目のついたそれを噛むと、強い香ばしさと甘みが舌を滑った。連休明けの今日もいつもと味は変わらない。
「どうしたんだ、何か用か?」
「ちょっと話があってね……だけどその前に」
そう言って圭一は僕の正面側に視線を滑らせる。机を挟んだ前の席には石川が座っていた。
「石川さん、だよね?」と、白色の布に覆われた右手を一瞬だけ見た後に声をかける。
「はい! そうです! 石川彩音です!」
その一瞥に気づくこともなく、彼女は生き生きと名乗った。無駄な威勢の良さに動揺する素振りも見せず圭一は続ける。
「はじめまして、僕は御堂圭一。修志くんから話は聞いてるかな?」
「聞いてる聞いてる! ドラムやってくれるんだよね?」
「うん、微力ながら尽力させてもらうよ」
圭一は爽やかな微笑を浮かべて答えた。
「よろしくね!」と、あどけない声で石川は返す。
「まあ、まだ初心者だから足手纏いになるかもしれないけど」
「大丈夫! 篠宮くんもまだまだ初心者だし」
何も言い返せずに眉をひそめた僕は、箸で白飯を掬いながら圭一に問う。
「それで、なんの用だったんだ?」
「ああ、そうそう。ちょうどそのドラムの話でね。修志くん、今日の放課後って何か用事あるかい?」
「放課後? とくに予定は無いけど」
「ならよかった。じゃあさ、早速今日合わせてみようよ」
「合わせる? 何を?」
「何をって決まってるだろう? 君が貸してくれたスコアは一つだけなんだから」と、圭一は落ち着いた調子のまま言った。
「『朝、目が覚めて』をだよ」
「……は?」
「先週決めたじゃないか。基礎を身に付けたら一緒に曲を合わせようって」
僕がその約束を忘れたと思ったのか、圭一は呆れ顔をこちらへ向ける。流石にそんな短期間で忘れるわけがない。その会話も、バンドスコアを貸したことも、克明に覚えている。だからこそ僕は呆気に取られていたのだ。
「いやいや、早過ぎだろ。まだドラム初めて一週間じゃん」
「べつに日を決めていたわけじゃないんだから。基礎を身に付けたら、って約束だっただろう?」
「まあそりゃそうだけど……本当にもう? そこまで叩けるようになってるのか?」
「こんな嘘をつくメリットなんて無いと思わないかい?」
平然と言うその姿についたじろいでしまう。虚偽も虚勢も感じられないが、信じ難いことだった。たった一週間で曲を演奏できるほどの技術を会得するなど、どんな楽器でも容易なことではない。
しかし、僕は知っている。御堂圭一という男は絶対に嘘を吐かない人間だということを。十年という長い時間を共にしているが、彼が他人を欺く姿を目にしたことは一度として無い。もしかすると巧妙に隠しているだけかもしれないが。
「……分かったよ。そう言うならとりあえず一回やってみるか」
「決まりだね」と、圭一はニコリと笑う。
「じゃあ放課後になったら一度この教室に来るよ」
「おう。場所はどこでやるんだ?」
「例の叔父さんの家でと思っているよ。ドラムもあるし、一台だけだけどアンプもあるしね」
「分かった……あ、悪いけど一回家にギターを取りに帰ってからになるぞ」
「大丈夫、付いていくよ。叔父さんの家、修志くんの家に近いから」
「ならいいか。じゃあそれで――」
その瞬間、視界の左端が輝きで満ちていることに僕は気がついた。夜明けに揺らめく海面のように煌めきが増していっている。物理的な光ではなく、空間から滲む雰囲気の話だ。その眩しさに立ち向かうため、ゆっくりと首を回す。
するとそこには予想通り、もとい予想以上と言えるほどに、満面に高揚を浮かべる石川がいた。彼女の目の前でこの話をすべきではなかったと、今さらながら後悔する。
「ねえねえ、御堂くん。私も一緒についていっていい?」
「うん、もちろん構わないよ」
「やったあ! ありがとう!」
「待てまて」と、即断即決の会話に僕は割り込む。
「石川はまた日を改めた方がいいんじゃないか?」
「え、なんでさ!?」
石川がむすっとした声を漏らす横で、「どうしてだい?」と、圭一が尋ねてきた。
「いや、まあ、あれだ。急に二人もお邪魔したら悪いだろ?」
僕は取って付けたような言葉を無理やり絞り出す。しかし圭一はその抵抗を軽く躱すように首を横に振る。
「まったく問題無いよ。友達を呼んでもいいって許可はもらってるし、ドラムもいつでも叩きにきていいって言ってくれてるしね」
「……そうか」
「ナイス叔父さん!」と、石川は嬉々として声を上げた。
「よしよし、放課後が楽しみになってきたねえ」
そのままご機嫌そうに弁当箱へ箸を伸ばす彼女を眺めながら、僕は諦めず、石川の申し入れを断る理由を探してみた。だがいまいち得策が思いつかない。どれを選んでも不自然なものになってしまう。だからといって本当の理由は少し情けなく言い辛かった。
僕はまだ彼女の前でギターを演奏することに抵抗があった。今となっては技術の差に対する劣等感はそこまで感じてはいない。しかし引け目は感じずとも、恥じらいは覚えるものである。大袈裟に言えば素人がプロ奏者の前で演奏するような感覚だ。
圭一にはそういった抵抗感が無いのだろうか。楽器は違えど、駆け出しの状態で熟練者に演奏を見せるということに。
「どうせいつかは一緒に演奏するんだしさ」
唐突に、圭一がいつも通りの穏やかな笑みを浮かべて言った。
「最初の様を知っておいてもらって、そこから上達していく過程を見てもらうほうが、きっと後になって楽しい思い出になると思わないかい? それに、もらえるアドバイスは早いうちにもらっておいたほうがいいだろうし」
僕の思考に対して的確な答えを投げかけてくる。頭の中で考えていたつもりが声に出ていたのかと不安になるほどに。きっと圭一には僕の思惑が全て分かっているのだろう。こういう時に付き合いの長さというものは本当に厄介だ。圭一の場合は幼馴染というだけでなく、高い推察力も持ち合わせているからだろうが。もしかすると圭一は、石川の右手に関しても何かしらの答えに辿り着いているのかもしれない。
僕は降参の意を示すようにため息を吐く。
一方で石川は圭一の言葉の意味に気づくことなく箸を進めていた。というよりも僕たちの会話を聞いてすらいなかったようで、きゅうりの浅漬けを口に運んで頬に幸せを浮かべている。
そのご満悦な表情を見て、僕はもう一度深くため息を吐いた。




