A beautiful day(10)
五指が何回も何十回も同じ動きを繰り返す。左手がむずついて仕方ない。
五月に入って今日で三日目。連休はちょうど中日にさしかかっていた。世はゴールデンウィーク真っ只中で、天気にも恵まれ、行楽日和が続いている。
しかし僕はそんな中、自室に引きこもりギターの基礎練習に耽っていた。空から降り注ぐ陽光もカーテン越しにしかこの身に受けることができていない。
連休初日の午前、約束通り圭一がバンドスコアを借りに訪ねてきた。そしてスコアを受け取るや否や『じゃあ、このまま叔父さん家に行って練習してくるね』と、早々に去っていった。この三日間で家族以外の人間と接したのはそれだけだ。
残りのほとんどの時間はギターを肩に吊るしてベッド上で胡座をかき、組んだ足の前に置いたルーズリーフ上の五線譜に沿って両手を動かし続けている。
左手で弦を押さえ、右手で弦を弾く。それをひたすら繰り返す。時折、弦とフレットの感触やピック越しに伝わる細かな振動に嫌気が差してきてしまう。
それでも止めてはいけない。怠けて漫然と弾いてもいけない。五線譜の下に記された注意書きを意識しながら両手を動かした。
先日までの僕であれば練習に行き詰まったり飽きたりすれば、すぐにギターを放り出していただろう。だが今はその逃げ道を塞ぐようにして、ある思いが胸裏に佇んでいた。
それは自身の技量に対する焦燥を纏った使命感。
そして、石川彩音のギターにかける意思への感銘だった。
彼女は既にバンドとして人と音を奏でるのに十分な技術を持っている。それも最低限というレベルではなく、演奏の正確さも表現力も並外れていると言えるほど。
しかしそれほどの実力を持っていながらも、未だに基礎練習を欠かさないと彼女は語った。才能に胡座をかくことなく、見える限りの先を見つめ、努力を重ねているのだ。
僕よりも彼女の方が早くギターを始めた。人それぞれ環境やタイミングの違いはあって、そこで実力差が開くのはしょうがない。問題はその後だ。
僕はギターを手に入れ基礎を覚えた後すぐに、憧れのソニアの曲のコピーに時間を費やしていた。その途中には難しく躓く箇所も多くあって、ミスを繰り返すたびに気が滅入り、その回数が重なると決まって一度ギターを置いていた。楽しもうとしている存在に対して嫌悪を抱きたくなかったからだ。そして時間を空けて気が向いたタイミングで再び弾き始める。そんな風に意欲と怠惰を繰り返していた。そうした取り組み方でも、なんとか曲として認識できるものを奏でられるようにはなり、それで満足もしていた。
だが、石川は違う。弾けない部分があるのなら余計に奮起して練習するだろうし、退屈な基礎練習も怠らずに繰り返している。飽くなき向上心を持っている、と言うべきだろうか。
音を楽しむために努力を捨てた者と、音を楽しむために努力を重ねた者。どちらの方が上手くなるかは火を見るよりも明らかだ。
ただ、どちらが良いか悪いかは簡単に決められるものではないとも思う。音楽に何を求めるか、音楽に関わる理由や目標によっても答えは変わってくるはずだ。
けれど、少なくとも今僕は、彼女の実力に少しでも近づきたいと、強く思っている。