A beautiful day(9)
「御堂……っていうと、定期テストで万年一位の、あの御堂くん?」
「そうそう」
放課後の昇降口で既視感を覚えるやり取りを交わす。圭一もその秀才さゆえ、石川同様、校内に名が知れ渡っているのだ。
下駄箱の中からスニーカーを取り出して地面へ雑に落とす。その横で石川が右手に掴んだローファーを地面にそっと置く。黒色の革と重なると、手袋の白はより目立って見える。それぞれ上履きを納めた後に靴を履いて歩き出した。
石川は、自宅が学校の最寄り駅である玖賀野駅から二駅離れた場所に位置しているらしく、電車通学をしている。玖賀野駅は僕の通学路の道中にあるため、ここ数日、学校から駅までの道のりは一緒に帰っていた。
歩を進めながら、僕は昼休みの終わりにあった出来事を石川に説明した。端的に言えば、圭一が未経験者ながらもドラム担当としてバンドに加入してくれることになった、ということを。
「いやあ、まさか私がいなくなった後にそんなことがあったとは。まさに瓢箪から胡麻ってやつだね!」
「駒な」
メンバー獲得の報を聞いた石川は嬉々としてステップを踏んだ。革靴がアスファルトを叩く硬質な音が辺りに響く。
「ちなみに御堂くんって話したことないんだけど、どんな人なの?」
「一言で言うなら天才だよ」
僕は躊躇無く答え、その所以も余すところ無く説明しておいた。
学校の北門を出ると駅まではほぼ直線。この町にはビル群など無く、比較的高層と言えるマンションも片手で数えるほどしか存在しない。薄い水色に染まる昼と夕方の間の空から、淡黄の陽光が何にも遮られることなく僕たちに差していた。
「――で、ある程度基礎が身に付いたら二人で曲を合わせてみることになったんだよ。まあ、まだしばらく先の話だろうけど」
「えっ、いいなあ、私も混ぜてよ。私も一緒にセッションしてみたい!」
「それも考えたけど、お前はちょっとレベルが違い過ぎるからなあ」
「そんなこと言わないでよー、私もやりたいやりたい!」
完全に駄々をこねる子供である。
「悪いけど今回は俺たちだけでやらせてくれよ。腕試しみたいなものだし」
「ええー、ケチー!」と、彼女は唇を尖らせて足音を大きくした。
「そう言うなって。どうせいつかは一緒に演奏するんだからさ」
「まあ、そうなんだけどさあ。私も早く音を合わせてみたいなあ」
「それよりもあとはベースだな」
ドラムの加入に浮かれて忘れてはいけない現実を口にして話を逸らす。石川は一度自分の望みを言い出すとなかなか折れない、ということに少しずつ気付いてきた。こういう場合は自然と話題を変えなければならない。
「五組の残りは圭一に頼んで、今度俺たちは六組に当たっていくか」
「うん、そうだね。もしそれで駄目だったら次は一年生に声をかけていこうか。三年生は受験で忙しいだろうから最終手段で」
話していると間も無く遠方に玖賀野駅の姿が見えてきた。近隣校の生徒であろう制服を着た学生たちが古びた長方形の駅舎へ次々と入っていっている。
「あ、そうだ」と、不意に石川が肩にかけたバッグへ片手を入れて何かを探りだした。
「どうした?」
「ええっとねー……あ、あった、はいこれ!」
彼女は一枚のルーズリーフを取り出し、差し出してきた。
「なんだこれ?」
片手で受け取り、紙面に目を落とす。
『篠宮くん改造メニュー』
そこには可愛らしい文字で恐ろしい題名が書いてあった。
題の下には『クロマチックスケール』や『メジャースケール』といった文字と共に、簡単に描かれたTAB譜がある。教則本でも見たことがある、ギターの基礎練習の項目だ。
それらの後には『オルタネイトピッキングで弾くこと』、『ちゃんと音の粒が揃っているか意識すること』、『無駄な音をミュートできているか確認すること』などと、箇条書きでいくつかのアドバイスが記されていた。
「あ、書き忘れてたけど、できればメトロノームを使いながらやってね。スマホのアプリのやつでいいから」
「え、この基礎練習をやれってことか?」
「うん、そうだよ。明日から連休だから、空いた時間にはそれをみっちりとやって、両手に正確なフィンガリングとピッキングを馴染ませるの。本当は会って一緒に練習するのがいいかなとも思ったんだけど、せっかくなら私は作曲の方に時間をあてようかなって」
「はあ……でも、なんで今さら」と、僕は生返事に近い声を漏らす。
「俺だっていちおう、ギター始めた時には練習したぞ。それより今は、実践的な感覚を掴むために色々と曲の練習とかをした方が良くないか?」
そう言うと、石川はまっすぐに僕の目を見つめて口を開く。
「篠宮くんってきっと、教則本でひと通り基礎を覚えた後はずっと楽曲を弾いてるんでしょ?」
「ああ、まあ――」
「もし君が本気で上手くなろうと思っているなら、それじゃ駄目だよ」
遮られるようにして、バッサリと非を唱えられた。怒っているわけではなく、小馬鹿にしているわけでもない。ただ真実を伝える表情で。
「上手な演奏をしようとするには、それに見合う徹底した基礎が必要なの。基礎を一〇〇パーセント、当たり前にできないといけないんだよ。まあ、ギターに限った話じゃないだろうけど」
僕は黙したまま、容赦無く、穏やかに並べられる手厳しい言葉に耳を傾けていた。
「出したいタイミングで、出したい音だけを、出したい大きさで鳴らす。息を吸って吐くみたいに、それを無意識にできるようにならないといけないってことだね」
まったく嫌味を感じさせずに語る。その瞳にはギターに対する強かな思いだけが湛えられていた。石川の台詞は大仰にも聞こえるが、しかし彼女の超凡な腕を知っているため、それが大言壮語でないことは分かる。恐ろしいほどに強い説得力を持って僕に降りかかってきた。
「……分かったよ」と、僕は素直に聞き入れてルーズリーフを鞄にしまう。
「とりあえず連休中はなるべくこの練習をやるようにするよ」
「うむ、よろしい」と、気取った調子で石川は頷いた。
「まあ連休の間だけじゃなくて日頃から常にやるように心掛けた方がいいけどね。私も時間があればなるべくやるようにしてるもん」
「へえ、お前ぐらい上手くてもまだこういう練習するんだな」
「もちろん。というか、前も言ったけど私ぐらいの人はいくらでもいるって」
駅へと続く横断歩道に辿り着き立ち止まった。乗用車やトラックが目の前を往来していく。それらが通り過ぎるたびに前髪が軽く靡き、鼻先には排気ガスの匂いが浮かび上がってくる。
「……まあ、もしね」
信号機の赤い光を見つめていると、隣から声が漏れた。
「もし篠宮くんが言うように、私が上手い側の人間だったとするなら、言えることは一つだね」
そして彼女は、金属の軋む音と共に右手を掲げ、微笑みながら人差し指を僕に向ける。
「上手くなるためには、ひたすら練習あるのみ!」
弾むようなその声に呼応するように、信号が青へと変わった。それと同時に石川が一歩目を踏み出す。柔らかく揺れる彼女の後ろ髪を淡い陽光が照らす。
「それじゃあ、また来週!」
彼女はこちらを振り返り、溌剌と頭上高くで手を振った。