A beautiful day(8)
「おや、修志くん。奇遇だね」
僕の姿に気付いた御堂圭一は唇を軽く綻ばせた後で、その中性的かつ端正な顔立ちに相応した爽やかな声をかけてきた。
「よう」と、僕は返事をする。
「どこ行ってたんだ? 五組の教室にいなかったけど」
「ちょっとね、今度の校内新聞のことで用があって図書室にいたんだよ」
不思議と柔和な印象を与えられる切れ長の目を細めて圭一は言う。
柔らかな物腰で話す目の前の男は、腐敗細菌も愕然とするほどに腐れた縁の幼馴染である。幼稚園から高校に至るまで全て同じ学び舎の下、時間を共にしている存在だ。
そして幼馴染だということ以外でこの男を語るならば、天才、という一言に尽きる。ありとあらゆる物事に精通し、そのうえそれら一つひとつの質が人並み外れている、そんな人間だ。
定期考査の結果では常に学年一位を獲得する学力。どんな競技も卒なくこなす抜群の運動神経。作文や書道、美術などのコンクールに参加すれば必ず全国でも指折りの結果を残すといったように、芸術面でも非凡な才能を誇示している。しかしそれらをまったく鼻にかけることはない。性格は温厚そのもので、誰とでも分け隔てなく接する気さくさを備えながら、常にどこか鷹揚かつ飄々とした立ち振る舞いをしている。
文武両道。温厚篤実。眉目秀麗。つけ入る隙のない超人だ。
「新聞部の活動か。昼休みっていうのに熱心だな」
「まあね。今回も面白い情報を捕まえたからさ」
「さすがは『裏部長』」と、僕はからかうように言った。
圭一は入学直後から新聞部に所属しており、その場でもまた、遺憾無く才能を発揮している。類稀なる情報収集能力と洗練された文章力。そこから作り出されるのは、万人が校内掲示板の前で足を止めて見入ってしまう至高の記事。
その実力と功績を称えるように新聞部内では彼にいくつもの異名が与えられている。入部した当初は『期待の新星』、『物書きの申し子』、『新聞部の神童』。現在では『裏部長』、『次期名誉部員』、『既に永久欠番』などと呼ばれているらしい。新聞部に背番号などあるのだろうか。
「ところで五組の教室になんの用事だったんだい?」
先ほどの僕の言葉から抜き出したであろう問いを投げかけてくる。
「ああ、ちょっとな……石川って女子知ってるか?」
「石川……というと、右手に手袋をはめてる、あの石川さん?」
「そうそう」
やはり、その噂で名が知れ渡っているようだ。
「実は――」と、僕は先週からの出来事をつらつらと語っていった。放課後の屋上で鉢合わせたこと。そこで彼女のギターの演奏を見たこと。共にバンドを組むことになり、メンバー集めに腐心していること。彼女との約束通り、右手の真相については伏せながら。
「それは面白いことになったね」と、話の始終を聞き終えた圭一は愉快そうに言った。
「バンド結成はともかく、自分たちでCDを、か。ずいぶんと突飛なことを言い出すなあ」
「まったくだ。おかげで苦労続きだよ。ギターの練習も必死でしないといけないし」
「それでも愛想を尽かさずに付き合ってるあたり、修志くんは本当にお人好しだよね」
「うるせえ」
ニヤリと笑う圭一の肩を小突く。
その時ふと、一つの考えを思いついた。
「なあ、今話した通り、バンドのメンバーをあと二人探してるんだよ。ドラムとベースなんだけど。この二つをやってる人とか、誰か心当たりないか?」
圭一がもつ巨大な情報網を駆使すれば少しは手掛かりを得ることができるかもしれないと考えたのだ。もしかすると僕と石川が声をかけ逃した生徒がいる可能性もある。
「ドラムとベースかあ。うーん……ちょっと待ってね」
そう言って圭一は胸ポケットから一冊のメモ帳を取り出した。ペラペラと素早くページをめくっていく。両手で挟めば隠れてしまうほど小さなそれに、はたしてどれだけ膨大な情報が収められているのだろうか。想像すると、畏怖に似た思いに駆られ、身震いしてしまう。
三十秒と経たないうちに最後のページまでめくり終え、圭一はメモ帳をたたんだ。
「ごめん、僕の知っている人の中ではいなさそうだ」
「駄目かあ」と、僕は肩を落とす。
「まあ、生徒の楽器経験は詳しく調べたこともないから、僕の情報はあまり参考にならないよ」
「そうか、分かった。また探してみるよ」
「うん、力になれなくてごめんね」
「いや、こっちこそ時間取らせて悪かった。ありがとな」
それじゃあ、と片手を上げ改めて歩き始めた。自らの教室に戻るべく階段へ進む。
「あ」
一段目に足を乗せようとした瞬間、背後から口を衝いて出たような声が聞こえた。振り返り、その出どころである圭一の顔を窺う。
「どうかしたか?」
「うん。あのさ」と、いつも通りの涼しげな声で言った。
「僕が入ろうか?」
「入る? 何に?」
「バンドに」
「え?」
知能が削がれたような間抜けな声を漏らす僕に対し、圭一は平然と言い放つ。
「未経験者でもいいんだよね? だから、僕でよかったらやるよ」
丸くなった両目で捉える圭一の表情に冗談や虚偽を吐いている雰囲気は微塵も無い。ただ和やかに白い歯を覗かせている。
「ドラムかベースだったよね。たしか叔父さんの家にドラムセットが置いてあったから、そっちの方がいいかな。叔父さんにレクチャーしてもらうことも出来るし。あ、でも始めるならスティックは自分で買わないといけないか。じゃあとりあえず――」
「待て、待ってくれ」
立て板に水のように追い打ちをかけてくる圭一をいったん静止した。
彼はまるで、人生のこのタイミングでドラムを始めることを決めていたとでも言うかのように、躊躇いや思慮する素振りを一切見せずに言葉を並べる。その勢いにたじろいでしまう。
「どうしたんだい?」と、圭一は動揺する僕を意に介さず首を傾げる。
「どうしたって、そりゃこっちの台詞だよ。突然過ぎるだろ」
「だって、バンド活動のためにメンバーが必要なんでしょ?」
「いや、それはまあそうだけども……」
前のめりになって勧誘を行っていた分、そこまでサラリと加入の意を示されると勢い余って倒れ込んでしまいそうになる。
「けど、なんだってそんな急に楽器を始めてバンドに入ろうなんて言い出したんだよ」
そう言うと、圭一は形の良い両目を再び薄くして微笑を浮かべた。
「修志くんは昔から何に対してもすぐに理由を欲しがるねえ」
僕は思わず口を噤んだ。意地の悪い言葉だが、嘲っているわけではなく、なおかつそれは事実であるから何も言い返せない。返答に窮する僕に目を置いたまま圭一は続けた。
「確固たる理由や目標を持って物事に取り組むことは立派だけど、そうじゃないことだって往々にしてあるものさ。理由があってしてはいけないことは存在しても、理由が無いとしてはいけないことなんてこの世に無いんだよ」
まるで格言じみた台詞を事も無げに言ってのける。凡俗の高校生が吐けば取るに足らない戯れ言になる言葉も、圭一の手にかかれば独特の凄みが滲み出てきてしまう。
「ま、強いて理由を付けるとしたら自分探しのためってところかな」
穏やかな微笑みのまま圭一は言い添えた。
「自分探し? どういうことだよ?」
「簡単に言えば、単純に楽器を経験したことがないから何かやってみたいだけさ。今まで色々と習い事をしてきたけど音楽だけはからっきしだからね」
簡単に言えば、ということは、もっと細かい何かがあるのだろうか。だがそれ以上は語ろうとしない。釈然としないままではあったが僕は首を縦に振った。
「……じゃあ、そう言ってくれるならお願いするかな」
突然の申し出に狼狽しながらも、僕はその助力を受け入れることにした。腑に落ちない点があるとはいえ、四苦八苦の現状で降って湧いたような好機を逃すわけにもいかない。
「決まりだね」と、圭一は軽やかに言う。
「でも部活の方は大丈夫なのかよ」
「うん、平気だよ。うちの部は自分の仕事さえ遅滞なくこなしたら毎日出る必要もないからね」
「なるほど」
圭一の手腕にかかれば、きっとその仕事とやらもあっという間に済むのだろう。
「それで、さっきは勝手に言っちゃったけど、僕が始めるのはドラムでいいのかい? もしベースの方がいいっていうなら検討するけど」
「ああ、いや、ドラムで大丈夫だよ。その方が都合がいいなら」
先ほど親戚の家にドラムセットがあると語っていた。ならば環境としてはそちらの方がいいだろう。新たに楽器を購入する必要も無く、経験者という叔父に指導してもらうこともできる。
「オッケー、任せといて」
そう言った直後に圭一は腕を組む。
「うーん、でもなあ」
「どうした?」
何かを思案するような姿に問いかける。
「いやさ、ドラムを始めるのはいいんだけど、基礎を練習してその後すぐにオリジナル曲の演奏やレコーディングに入るのは、素人考えながらどうなんだろうと思ってね。バンドで演奏するなら他の楽器との音の合わせ方を覚えることも大切なんでしょ?」
「ああ、まあな。それを言ったら俺も同じようなもんだけど」
ギターを弾き始めてこの半年間はひたすら一人で練習を重ねている。人と音を合わせるというのは僕にとっても未知の世界だ。
「あ、じゃあさ」
次の瞬間、圭一が閃いたように両手を軽く合わせた。
「修志くん、何か持ってる楽譜貸してくれないかな? バンドスコアっていうんだっけ? 基礎を覚えたらその曲を練習するから、それで一緒に音を合わせてみようよ」
泰然と提言してくる。まだドラムを叩き始める前だというのに気が早い。個人差はあれど、基礎を身に付けるだけでも最低一ヶ月は必要だろう。
しかしその案自体は僕も踏んでおきたい過程だったので、断る理由も無かった。
「分かった、じゃあそうしよう。ちなみに合わせるのはソニアの曲でもいいか?」
「もちろん構わないよ。相変わらず好きだね」と、圭一は笑う。
幼馴染ゆえ、圭一は僕が昔からソニアのファンだということを知っている。というより彼自身もまた、現代の若者にしては珍しく、ソニアの曲を聴く。僕が半ば無理やり勧めたためだが。
「じゃあ明日にでも修志くんの家にスコアを取りに行くよ」
「明日? そんなに急がなくても連休明けにでも学校に持ってくるぞ。曲を叩き始めるのはまだ先だろうし」
「いいや、何事も早い方がいいからね。修志くんの都合が悪ければ日を改めるけど」
「いや、まあ俺は大丈夫だけど」
「じゃあ決まりだね。また明日家に向かう前に連絡を入れるよ」
圭一が言うと同時にチャイムの音が廊下に響いた。
「じゃあそういうことで」と、微笑みながら片手を上げて、すぐ傍にある五組の教室へ入っていく。
その姿を目で追いながら僕は考えた。これはなんのチャイムだっただろうか。先ほど鳴ったのが五時限目の予鈴だった。ということは、ああ、なるほど。
全身に焦燥を滾らせた僕は、誰もいない閑散とした階段を全力で駆け上がった。