A beautiful day(7)
開け放した窓から風が流れてくる。四月の最終日にもなると寒気という言葉は影も形も無い。次の季節の足音が聞こえてくるような暖かさと昼休みの喧騒に廊下は包まれていた。
「――昨日まででさ、一組から四組までを回ったじゃん?」
ふと、並んで歩く石川が口を開く。
「うん」
「つまり私たちを除いて一五〇人以上に声をかけたわけだよね」
「そうだな」
「……それなのにベースもドラムも、一人もやってる人がいないなんてこと、ある!?」
強い主張をする演説者のように、声を大にして言い放った。
「……あるみたいだなあ。俺ももうちょっと簡単に片が付くと思ってたんだけど」
勧誘を始めて五日。ここまで二年一組から四組までの生徒ほぼ全員に声をかけたが、その全てが謝絶される結果となった。楽器経験者がいたとしてもピアノやヴァイオリン、琴やトランペットなど、ロックバンドの土台となる音色としてはかけ離れたもの(ストリングス・ブラスアレンジを加えるなら話は別だが)ばかりだった。清々しいほどに苦杯を嘗めている。それでも挫けることなく、今日は五組の教室へ勧誘に向かうため歩を進めていた。
「まったく……普通、高校生になったら一つぐらいロック系の楽器を始めてみようとか思わないかなあ」
「それは偏見だ」と、僕は自分のことを棚に上げた。
しかし、本当に惨憺たるありさまだ。熟練者でなくとも初心者の一人ぐらいいてもいいのではと思うのだが。
話しているうちに『2―5』の室名札の下に着いた。
「よし、今日こそは!」と、石川は勢い込んで開けっ放しになったドア枠をくぐる。相反して、今日も望み薄だろうな、と諦念を抱きながら僕も続いた。
室内にはクラスのおおよそ半数程度の生徒がいた。机を並べて各々弁当箱に箸を伸ばしている女子グループ。菓子パンを片手にスマートフォンに指を置く男子。食事を終えて読書に耽っている者や、談笑を交わしている者。ありふれた昼休みの光景だ。
……そういえば五組といえばあいつがいるはずだが、姿が見えない。
「篠宮くん、早くはやく!」
入口で教室中を眺めながら考えていると、石川が張り切った声で促してくる。はいはい、と軽く応じた。
早速一人ひとりにベースかドラムをやっていないかを尋ねて回る。だが、もはや案の定と言わんばかりに答えは全てNOだった。
それならばと、これらの楽器の魅力を伝え、ぜひ今からでも始めてみないかと説き伏せていく。時に熱く、時に軽やかに交渉を行う。
しかし、これもほとんどが『部活で忙しいから』や『勉強以外の事をやってる暇がない』といった理由で素気無く断られた。ほかにも『ドラムって手と足を別々に動かさないといけないんでしょ? 無理むり』、『ベースってギターと何が違うの? 必要なの?』、『バンドかあ。アニメで観てると楽しそうだよね。え、自分で? 嫌だよ難しそうだし』などと取りつく島もなかった。
室内にいた全員に声をかけ終えたところで時計の針は昼休み終了の五分前を差していた。今日はここまでか、と二人して嘆息しながら教室を後にする。
「神様はいないのか……」
石川は大仰に呟きながら項垂れている。
「今日はクラスの半分ぐらいしかいなかったから、まだ可能性はあるだろ」
適当に気休めの言葉をかけておく。
「……うん、そうだね。来週こそはなんとしても獲物を確保しよう!」
「まあ明日から五連休だから、来週は二日しか時間ないけどな」
「……ゴールデンウィークめぇ…………」
石川は心底忌々しそうに声を漏らす。
「けど、ここまで駄目だとさすがに気落ちするなあ。楽器をやっていないのはともかくとして、ロックバンドっていうものにみんな興味無さすぎじゃない?」
彼女は唇を尖らせながら腕を組む。
「たしかにな……やっぱり音楽って流行り廃りが激しいんだろうな」
廊下の先に目をやりながら僕は続けた。
「俺の父さんが若かった時ってメロコアとか青春パンクみたいなのが隆盛を極めてた頃で、みんなそればっか聞いていたらしくてさ。そういうグループに影響されてバンドとか楽器をやってた人も多かったらしいんだよ」
「というと、九〇年代ぐらいの話?」
「そうそう。それに比べて今ってどちらかというと、アイドルとかJポップの曲ばっか流行ってるだろ? CD売り上げのランキングとかもそういうグループが独占してるし。ロックバンドの曲なんて、SNSで話題になったのが少し注目されるぐらいで」
「ああ、ちょっと分かる気がする。だからロック系の楽器とかにもまったく興味が湧かないのかな」
「かもな。時代が悪いってやつだ」
「……なんだか残念だよね」
すると石川は悄然と声を漏らした。
「いま流行ってる曲とかももちろん良いけどさ、でもやっぱりロックバンドならではの音色とかグルーヴ感ってあるじゃん? それって凄く素敵で心が躍るものなのに、そういうのが知られないままなんてなあ」
表情にも声にも憂いを滲ませている。拗ねた子供のように呟くその姿を見ていると、不憫な思いが沸々と浮かんできた。何か慰めの言葉はないものかと思案しながら、くすんだ白色の床を歩く。それから数秒の沈黙が過ぎた後、「まあ、でも」と、僕は口を開いた。
「今は下火でもさ、もしかしたら何年後かにはまたロックブームが来るかもしれないだろ?……その何年後かにはまた廃れる可能性もあるけど」
頭に浮かんだ言葉を飾らず、滔々と吐き出していく。
「それに今から自分たちでバンド組んで、曲を作ろうとしてるんだ。それなら俺たち自身の手で、その『ロックバンドの良さ』ってやつを伝えられるようなものを作って、色んな人に聴かせてやったらいいんじゃないか?」
「……ふふっ」
ふと、右隣りからそよ風のような笑い声が聞こえた。顔を向けると石川が相好を崩している。
「どうした?」
「いや、今の篠宮くんの言葉、すっごいキザだったなあって」
「……やかましい」
眉を顰めて返すと、彼女はより愉快そうに頬を緩めた。たしかに我ながらずいぶんと小っ恥ずかしい台詞を口にしてしまったような気がする。
「まあ、たしかに君の言う通りだね。せっかくなら私たちでロックバンドの妙味っていうやつを発信しちゃおうか!」
羞恥に襲われる僕を余所に彼女は昂然と言い放った。そのやる気を体で表すように両手を振り上げる。先ほどまでの拗ねた様相から一変し、今はさながら自信に満ち溢れた子供である。どちらに転んでも結局子供のようだ。
「ま、話の順番があべこべになったけど、結局そのためにもまずはメンバーを揃えないとな」
「そうなんだよねえ……って、あっ」
ふと石川が何かを思い出したように声を漏らした。同時に昼休みの終了と五時限目の予鈴を兼ねたチャイムが鳴る。
「そういえば職員室に用事があるんだった。ごめん篠宮くん、先に教室戻ってて。ちょっと行ってくるね」
パタパタと軽やかな足音をたてながら駆けていく。管理棟行きの渡り廊下へ続く角を曲がるところまで見送った後で、僕は再び足を動かし始めた。
窓外の陽気な空気と、満たされた腹の具合が相まって、唐突に眠気に襲われる。大きく口を開いて欠伸をこぼした。細くなった目に涙が浮かぶ。
そうして滲んだ視界の奥に、ふっと、人影が現れた。先ほど石川が曲がった場所と同じ位置だ。目をこすって涙を拭う。カメラのピントが合うように少しずつ景色が明瞭になっていく。
するとそこには、あまりにも見飽きた男の姿があった。