9 王子のお招き
あーん、とかはしてません。念のため。
それから数日――奇妙な噂が立ち始めたころ。
その日は少し暖かかったこともあり、屋上の塔屋に上がって、二人は昼食をつついていた。
「……うますぎる」
「そっか、レイコさん喜ぶと思うよ」
お手伝いさんはレイコさんと言うらしい。
その人の作った卵とトマトの炒め物を、全力で味わいながら、雄馬は視界の端に映った、駐輪場に目を向ける。
「いまさらだけど、まだ送迎してて大丈夫なのか?」
「それ、こっちのセリフなんだけど?」
事件は冤罪と決定され、その犯罪グループは検挙された。
その点でいえば、姫王子が電車通学をしても、問題はなさそうだが――。
「……するわけないでしょ、できるわけがない」
「だよな、悪い」
あれだけのことがあって、そう簡単に切り替えられるはずもない。
相当のトラウマになったことを思えば、彼は今後一生、電車に乗れなくなる可能性だってある。
「……わかりきってるのに、そういうの聞いてくるんだ」
「いや、悪かったって……ただ、念のためにな」
そもそもの送迎が、こちらで勝手に決めたことだ。
負担になっているとしたら、どこかで解消すべきだとは常に思っている。
「僕は楽してるだけなんだから、負担がかかるとしたら雄馬でしょ」
「俺も好きにしてるだけだからなぁ。ただ、そういう押しつけっていうか、親切にされるだけでも気疲れするってのは、あるんじゃないか?」
「……一理なくはないけど、この件では思ったことないよ」
そんなことを口にしながら、思うところがあったのだろうか。
姫王子は箸を置き、妙に姿勢を正して、頭を下げてきた。
「――本当にありがとう。いつもお世話になってるし、すごく感謝してる。もし雄馬がいやになってないなら、これからもお願いしたいな」
「おう、任せろ」
これはお礼な――と、彼の弁当箱から、鶏むねの唐揚げを調達しておく。
「あーっ! ちょっと、ラスイチなのに!」
そう言われても、食べてしまったものは仕方ない。
しかし姫王子は、そんな反応をしておきながらも、仕方がないなぁという様子でクスクスと笑っていた。
「……ありがとね。負担にならないようにって、いつも気を回してくれて」
「いや、別に――」
「ただ――あんまりやさしくされると、勘違いしちゃうから。されたくないなら、ほどほどにしといてよね?」
勘違い――という言葉から察し、雄馬は閉口する。
「あははっ、なんなんだろうねぇ、あの噂。どこから出たんだか――」
さほど広範囲ではないが、たまに耳にする奇妙な噂によると、雄馬と姫王子はともに男色家で、恋人関係にあるらしい。
その関係は深く、長く続いており、だからこそ雄馬は、姫王子が痴漢をしたなどと信じることはなく、冤罪を確信していた――というストーリーだ。
「俺たちが許さないから、別方向からいやがらせを始めたか?」
「うーん、そうかな……まぁそうだとしたら、ごめんね? もしかしたら雄馬、高校で彼女できなくなるかも」
「……そこは別にいいかな、わりと女性不信なとこあるし」
妹はもちろん、幼なじみや先輩にも、特に好意を寄せていたわけではない。
ただ、そうだとしても、完膚なきまでに拒絶された記憶と衝撃は、雄馬の心に深い傷を残している。
ショックを乗り越えられたからといって、傷が消えたわけではないのだ。
姫王子にとっての電車への乗車か、あるいは周囲の人間に対する不信、それらに似た傷ということになるだろうか。
「……いまさらだけど、僕のことは恨んでないの?」
「恨んだけど、継続しなかっただけだ。稜が最悪な性格だったりしたら、いまだに恨んでたと思うけどな」
姫王子という人間の人格を知れば、彼女らの心変わりは納得いくものだった。
だから雄馬の心に棘を残すのは、心変わりではなく拒絶のほうであり、逆に姫王子に対しては、心を許してさえいたのだろう。
「まぁ、だから――この状況もその噂も、俺が選んだようなもんだ。稜が気にすることじゃない……って、前にも言ったよな?」
「んー、たしか……謝ることじゃない、だったかな」
そう正確な訂正をすると、姫王子はしばし口を閉じた。
なにかあったのかと彼を見やると、非常に思い悩んだ表情を浮かべている。
「本当に気にしなくていいからな? 稜と友達になれて、一緒に飯が食えて、うまいおかずももらえてるんだから、むしろ満足してるくらいで――」
「ねぇっ、ちょっといいっ?」
「うおっっ!? なんだ、どうした?」
なぐさめの言葉を遮られた雄馬の眼前に、麗しいほどに整った姫王子の顔が、まつ毛が触れるほどの距離まで近づけられた。
そうして、彼は覚悟を決めたように、小声で囁く――。
「今週末――えっと、日曜……予定がなかったら、僕の実家にきてくれる?」




