6 名前を呼んではいけない、例の三人
友人になることを認めた姫王子は、もう雄馬を遠ざけようとはしなくなる。
さすがに自分から話しかけるようなことはしなかったが、雄馬が近づき、話しかければ、相応の態度で返し、笑うこともあった。
ただ、もちろん周囲はそれを、おもしろくは思わなかっただろう。
彼ら彼女らにとって姫王子は、頂点から底辺に落ちぶれた、下劣な存在でなくてはならない。
そうでなければ、彼にした仕打ちを正当化できないからだ。
自尊心と大義名分を守るため、邪魔者をどうにか排除できないかと画策し始めるのは、おそらく時間の問題だったのではないだろうか。
その差し金かはわからないが――彼女らがやってきたのは、そんなときだ。
…
「……雄馬、ちょっといいかな」
事前に決めておいた昼食の席に向かおうと、教室を出たとき、そんな声を背中に浴びせられる。
「――なんだよ」
声に苛立ちが含まれているのは無意識ではなく、意識的にだ。
この二年ほどの間に、その声で話しかけられたのは一度か二度。
そのときの彼女は、雄馬のことを名字にくん付けで呼んでおり、しかも内容はただの事務連絡である。
そうまで徹底していたくせに、いまさらなんのつもりで名を呼び、しかも私用と思われる話をしようというのか。
「話したいことがあるの、付き合ってよ」
「いやに決まってるだろ、北林」
断固として拒否、絶対にノー。
予想もしていなかったのか、彼女――北林綾香は、丸く目を見開いた。
「な、なんでそんな……いや、ううん――」
そんなこと言わずに、黙ってついてこい――などと。
暴君めいたことを言わない程度には、分別が残っていてなによりだ。
「その……前は、綾香って呼んでたのに……どうしたの?」
「そうだったか? 俺は羽生って呼ばれてたし、勘違いだろ」
少しはこたえてくれるかと思ったが、本当にわからないという表情の彼女。
羽生くん呼ばわりとともに伝えた事務連絡は、記憶にすら残っていない些末事だったようだ。
あきらめたように首を振り、雄馬は返す。
「話があるならここで、手短にしてくれ。急いでるからな」
話しかけるなと言ったのは北林のほうだ、いまさら興味を持たれても困る。
「……そっちがいいなら、それでいいけど」
気を遣ってやったのになんだ、とでも言いたげな口ぶりだ。
チラチラと周囲の目は向けられるが、昼食時は行く場所も多いだろう。
わざわざ足を止めてまで注目する人間はおらず、ここでも問題はない。
場所を変えるほうが、かえって注目を浴びかねないくらいだ。
ただ――視界の端にチラッと見えた姫王子が、心配そうな顔をしているのは気になったが。
「じゃあ、言わせてもらうけど――りょ……姫王子くんとは、関わらないほうがいいんじゃないかな」
「断る。話はそれだけか、じゃあな」
思った以上にどうでもいい、聞く価値もない話だった。
「ま、待ってよ、ちゃんと聞いて! 私は雄馬のために――」
「はぁ……まぁいい、こっちも言いたいことができた」
その言葉に表情を明るくする北林だったが、雄馬としては、なにをどう考えればそんな表情ができるのか、理解に苦しむ。
「まず――名前で呼ぶのはやめてくれ。こっちの呼び捨てが気に入らないなら、こっちも北林さんと呼ばせてもらうから」
「なっ――そ、そんなことないっ! っていうか、前みたいに綾香って――」
なにやら食い下がってくるが、雄馬は無視して続ける。
「で、だ――北林さん。俺が姫王子と絡んでるのは、俺がそうしたいからだ。それを止めるのは、どう言いつくろっても俺のためにならない」
なにしろ、他人の権利を侵害するような発言なのだから、当然だ。
「最後に――ちゃんと聞いたところで、出てくる結論がさっきの妄言だっていうなら、聞く意味も価値もない。俺はこれからも姫王子と話すし、飯を食う」
もちろん、送迎だってする。
堂々と言いきった雄馬の言葉に、北林の表情は色を失っていた。
「――そもそも、なんでそんなこと言ってくるんだ? 俺は覚えてるぞ、二度と話しかけるなって言われたことを、はっきりとな」
「そ、そんな風には言ってないよっ……ちょっと、距離を置きたいって……」
たしかにこちらも少し盛ったが、そんな風でもなかっただろう。
「まぁ――まさか、姫王子があんな状態になったからって見かぎって、別の男にすり寄ろうとしてるわけでもないだろうけどな。それじゃ、とんだ尻軽だ」
絶対に、最悪でもそこまでではあってほしくない――。
そう思っての煽り半分の言葉だったが、北林はなぜか、愕然とした表情を見せてさえいた。
(うっそだろ、こいつ……)
まさか本当に、そんな厚顔無恥なことを考えていたのだろうか。
どうかしている――そう頭を悩ませはじめたところで、別の声が聞こえた。
「あの……お兄ちゃん、私からもいいかな」
よくない、まったくもってよくはない。
…
雄馬が北林と話していることに気づいたのか、話の中身が気になったのか。
教室から顔を覗かせ、隣にやってきたのはかつての妹、仁科美羽だ。
「……こうして話すの久しぶりだね、お兄ちゃん」
「俺は仁科さんの兄じゃないんだが」
気づけばすでに、昼休みに入って十分は経過している。
さっさと昼食を食べに行きたいし、できればおかずの交換もしたい。
お手伝いさんとかいう聞きなれない言葉はあったが、その人の作ったらしいお弁当は、冷めてもおいしい仕様となっていた。
先ほど見かけたはずの姫王子を探したが、すでに姿はない。
こんな人の多い場所に、いつまでもいるはずないのだから、当然だ。
雄馬が上の空なことにも気づかないのか、二人は勝手に話し始めている。
「私も、綾香ちゃんと同じ意見だよ。あの人がなにをしたか、いまなんて言われてるか、知ってるでしょ? 一緒にいないほうがいいよ、お兄ちゃん」
「そうだよ雄馬。ほら、せっかくだし、一緒にお弁当食べない? この三人で集まれたのも、すっごく久しぶりだもん」
この二人は、これほど話が通じない人間だっただろうか。
いまさらにしてそう思うが、思い返してみれば、驚いたことにそうだった。
昔からなんだかんだと押しが強く、思い込めばというか、こうしたいと決めればゆずらない、わがままな部分があったかもしれない。
それを許してきた雄馬にも、責任の一端はあったが――。
(……いや、ないな。そういう躾は、たぶん親の責任だし)
はぁ――と大きくため息を吐く。
「――俺のことは名字で呼んでくれ。それと……久しぶりって感じるくらい、今日まで三人で集まれなかった理由は、さすがにわかってるよな?」
聞き流させないように突きつけ、二人の目を見ると、同時にそむけられた。
「俺は一応、お前らが俺を拒絶したのは、それなりの覚悟があってのことだと思っていた。だから尊重して、言うとおりにしてきた」
「ち、違うの、それは――」
「違わない――もう一度、言うぞ?」
これ以上の会話はしたくないと、吐き捨てるように荒々しく告げる。
「お前らは俺を拒絶した。そして俺は受け入れ、飲み込み、お前らを関わりのない存在として認識できたんだ。これ以上、わずらわせないでくれ」
二人がなんの目的で近づいてきたかなど、もはやどうでもよかった。
「俺のことも陰口で追い込もうっていうなら、好きにしろ。お前らから孤立できるんなら、願ったり叶ったりなくらいだからな」
「そ、そんなことしないよっ、だから――」
「待って、お兄ちゃん! そのっ、ご、誤解があるの、絶対――」
そんな声が追ってくるが、これ以上は聞く義理もない。
雄馬は二人に背を向け、弁当を片手に、急いで姫王子のもとへ向かった。
…
「あー……あいつら、マジでどうかしてる……頭おかしいだろ」
「はは……その、お疲れさま」
あれ以来、姫王子は弁当と一緒にお茶も持ってくるようになっていて、ポットからほうじ茶を注いでくれる。
「……二人と知り合いだったんだね、全然知らなかった……ごめん」
「いや、お前が謝ることじゃないだろ」
拒絶したときの言葉からして、二人が姫王子に語ることはなかったはずだ。
知らずに親しくしていただけなのに、なにを謝る必要があるというのか。
そもそも、仮に知っていたとしても、彼にはなんの非もない。
学年で一、二を争う美少女二人に迫られても動じず、かといって見せつけるでもなく、ほどよい距離を保っていた姫王子。
密着しすぎるようなことがあれば逆にたしなめ、過度なスキンシップどころか、なるべく触れないよう気を遣っていた節すらある。
ただ近くにいたから、友人として普通に接していただけ――。
自分たちの年齢を思えば、言い寄る女子に対して、もっとベタベタと、いやらしく接していてもおかしくはない。
だというのに彼は紳士的で、女性への誠実さを忘れていなかった。
驚くべき精神力と、感心させられるほどである。
「……お前すごいよ、マジで。尊敬する」
「なんで褒められてるのか、まったくわからないんだけど――」
自分の分もほうじ茶を注ぎ、少し唇を湿らせて、姫王子は笑った。
「羽生――雄馬のほうがすごいよ。僕なら絶対、雄馬みたいにはできなかった」
なんの話だ――と追及するより先に、呼び名が耳にゆっくりとなじんでいく。
先ほど聞かされた、同じ名前の呼び方より、何倍も心地よかった。
「……なんの話だよ、稜」
「っ……あははっ、なんの話だろうねぇ」
拒絶を乗り越えたことなのか――。
相手の人格だけを頼りに、その人物を信じられたことなのか――。
なにがあっても、近くに居続けていることなのか――。
「……どうやって聞けば口すべらせるかな、こいつ」
「聞こえてるんだけどっ!? なに言っちゃってるの、いきなり……」
途端に警戒したそぶりを見せる姫王子――稜は、雄馬の視線を受けてビクビクしながらも、どこか楽しそうだった。
…
いやな気分もリセットし、足取りも軽く教室へ戻ろうとするところで――。
時間差を狙っていたかのように、その人物はやってくる。
「やあ――久しぶりだな、雄馬」
旧校舎の三階から、渡り廊下を通って本校舎に戻ろうとしたところだ。
こんなことなら、先に二階に下り、そこから戻るべきだったかもしれない。
「こんにちは生徒会長。もう昼休みも終わりですね、失礼します」
待ち受けていたのは、生徒会長の東条響だった。
なんの用かもわからない――いや、おぼろげには察しているが。
ともかく会話するのも面倒だと、雄馬は挨拶だけをして離れようとする。
姫王子はそれを見て、彼女も雄馬の知り合いだったと気づいたようだ。
「顔、広いんだね……雄馬」
「わりと小顔だと思ってたんだが」
「そういう意味じゃないんだよ……あと、そんなに小顔でもないよ」
「……え、マジ?」
そこはかとなくショックを受けていると、行く手を遮るように立っていた彼女が、大きくため息をもらす。
「――交友関係に口をだしたくはないが、付き合う相手は選ぶべきだぞ」
「……そうですか。じゃあ生徒会執行部とは、距離を置くようにしますよ」
雄馬の言葉にピクリと眉を跳ねさせる東条だったが、わずかに逡巡しつつも、おそらくは懐柔することを選んだのだろう。
「つれないことを言わないでくれ、私と雄馬の仲じゃないか」
先の嫌味への反応を押し隠し、おだやかな笑みを浮かべてみせた。
昔、中学の生徒会で何度か見た笑顔だ。
頭を悩ませ、眉間を揉み、事態を解決し――東条はその笑顔を見せる。
当時の雄馬は、それを見るために努力していたところもあった。
その笑みもいまとなっては、不気味で理解しがたいものにしか見えない。
「名前を呼ばないでもらえますか、東条先輩」
「っ……なぜだ?」
「なぜもなにも――」
そんな疑問が出てくることにすら驚く、この人もあの二人と同類なのか。
(いや……声かけてくる時点で、同類でしかないよな)
話が通じない相手かもしれないなら、とりわけ気を遣う必要もない。
どうでもいい相手を見る目で、うっすらと笑い、答えてやる。
「――自分を不要だと思ってくるような人間から、名前で呼ばれたくないからですよ。当たり前でしょう?」
「いや、それは……そのときは、色々とあって――」
どうやら、完全な同類というわけではなく、自分の発言は覚えているらしい。
「そうですか。まぁとにかく、色々あって不要になったなら、その不要になった人間に関わらなくていいでしょう。こっちとしても、そのほうが気楽でいい」
「待ってくれ、そんな……そんなつもりで、言ったわけじゃないんだ」
なら、どんなつもりだったというのだろう。
中学で二年間、同じ組織で支え合った仲間に、しかも高校でもよろしくとまで言った相手に、どんなつもりで不要だという言葉を突きつけたというのだ。
言われた相手がどんな気持ちになるか、考えすらしなかったのか――。
「雄馬――ずっと考えていた。やはりきみは、必要不可欠な人材だ……組織にとっても、その……私にとっても――」
「やはりってことは、一時期は不要だって思ったわけですね」
「違うっっ! どうして、そうっ……うがった捉え方をするんだっ……」
そのまま言葉の意味を捉えているだけだが――といっても、わかってもらえないだろう。
それでもかまわない、どうせわからないだろうと思っている。
「……ようするに、欠員の代役をできる手伝いがほしいんですね」
悪い――と心の中で姫王子に謝っておくが、まるでそれが通じたかのように、背中がポンと軽く叩かれた。
「そ――いや、違う。きみがほしいんだ、雄馬――」
「お断りします。俺はスペアじゃないので」
「雄馬っ……なぜ――」
なぜわかってくれない、とでも言わんばかりの目が睨みつける。
こっちはわかっているから、断っているというのに。
「俺が入ったところで、どこかから難癖つけられでもしたら、証拠がなくてもクビにするんでしょう? そんな組織で、腰を据えて働けませんよ」
「――――っっ!」
鋭い視線が隣に向くのを見て、姫王子をかばうように前に出る。
「まぁそういうことですので。でも、そうですね……先輩がいなくなったあとだったら、考えなくもないですかね、生徒会役員も」
あくまで、考えるだけ――だが。
なぜか傷ついたような、被害者のような視線で睨む東条に、雄馬は告げる。
「それじゃ、今度こそ失礼します……あと、名前呼びやめてくださいね」
「雄馬っ……」
いや、聞けよ。
「私は……あきらめない、雄馬っ……」
あきらめて、頼むから。
…
「こえぇ……あの人、ストーカーにでもなったらどうしよう」
チャイムが鳴ったことで、なんとか離れてくれた東条と別れ、少し足早に教室へ向かう。
「う、うーん……とりあえず、僕のことは放って逃げていいよ」
「それは無理だ……」
姫王子を残していくほうが、甚大な被害になる気がした。
「なんか、ごめんね……裏でそんなことがあったなんて、知らなかった」
「だから、お前が謝る必要ないだろ……逆に感謝してるくらいだし」
「なんでだよっ!」
「……前々から思ってたけど、稜ってツッコミうまいよな」
「いまのはツッコミじゃなくて、理由を聞いただけだよ!」
まさかの言葉どおりの意味だった――とはいえ、理由を話すのはたやすい。
「そんなの決まってるだろ。お前がいてくれたおかげで、あいつらの本性に気づけたわけだし……しかも自分から離れてくれたんだからな、後腐れなく」
少しあくどい顔――のつもりで表情を歪めてみせると、姫王子はきょとんとし、やがて噴きだすように笑った。
「ふふっ――ひどいこと言うなぁ、雄馬は」
「とはいえ、事実だから仕方ない」
晴れやかな気分でそう告げる雄馬に、彼は小さく囁く――。
「――ちなみに、後腐れまくってるよ。絶対つきまとってくると思うし」
「たしかに……」
ニヤニヤと笑う姫王子に、呪いをかけられた気分だった。
ヴォル〇モオオオオオオオオオオオオオト!




