3 王子の涙
個人的クライマックス、あとはウイニングラン。
あの日から、姫王子は周囲に言い返すことはおろか、小さな反応さえすることがなくなってしまった。
彼の周囲には、もはや味方はいない。
その絶望に歪んだ姿を見て、雄馬は幾度か、声をかけるべきだと考えた。
だが、ためらわれる。
彼に恨みがあったからではない――むしろ逆というべきか。
雄馬と姫王子は、これまでも特に仲がよかったわけではなく、積極的に言葉を交わしたこともない。
事務的な会話なら一、二回はあったかな、という程度の関係だ。
はっきり言って、ただのクラスメート未満でしかなかった、それだけの存在。
そんな相手から、自分が心底までに落ち込んだ状態で声をかけられたら、本人はどう思うだろう。
姫王子がどうするかはわからないが、雄馬ならばおそらく、なにか目的があるのではと勘ぐってしまう。
こちらが疑われるだけなら、まだかまわない。
雄馬が本当に気を遣っているのは、声をかけることで、姫王子をより傷つけてしまうのではないかという、その一点に尽きる。
どうにかしたいと思いつつ、あと一歩が踏みだせない。
そんな状況で迎えた、数日後の放課後――。
…
雄馬はいつものように、学校の駐輪場に向かっていた。
いや、いつもよりは少し遅い時間だったかもしれない。
普段はほとんど使わない頭を悩ませ、校内をうろうろ散歩していたせいだ。
日が傾きかけた空は赤く、外の空気は秋の夕方らしく、少し冷え込んでいる。
寒いというほどではないが、近いうち上着や手袋が必要になりそうだ。
まだ一ヶ月くらいの猶予はあるが、自転車通学者として、冬の寒さを意識せざるをえない――。
そんな空気の中、彼はそこにいた。
「――姫王子?」
思わず声に出てしまった呼びかけを聞いて、自転車のキーをはずしていた彼は、怯えたようにビクリと肩をすくませる。
振り返った姫王子は、どこかあきらめた様子を感じさせるが、雄馬にとってその目を引いたのは、彼の反応ではない。
内臓でも悪くしたのかと思えるほどの、ひどい顔色のほうだ。
「え、と……たしか、は……羽生、くん……」
「よかった、名前は知っててくれたか」
顔色の原因のせいか、いまの彼を取り巻く環境のせいか。
名前をつぶやいた唇も、声も、かすれたような震えをみせている。
本当に――クラスの王子さまだったとは思えない、惨憺たる有様だ。
自転車通学にしたのか、と言いかけ、慌てて言葉を呑み込む。
当たり前だ、あれだけのことがあって、電車通学などできるわけがない。
雄馬がなにかを言いかけ、ためらったのを見て、姫王子の顔はさらに歪みつつあるのがわかった。
またなにを言われるのか、もうやめてくれ――目と表情が、そう語っている。
なぜか焦燥に駆られ、冷や汗を伝わせながら、雄馬はゆっくりと口を開いた。
「――顔色が悪いぞ。自転車で帰って大丈夫なのか?」
なるべく声に勢いをつけず、天気の話をするような、軽い口ぶりでたずねる。
表情や反応はひどいものだが、それでも芸術品のような顔立ちは変わらず、より繊細な印象が加えられ、少しでも強く接すれば砕けてしまいそうだった。
「え――う、うん、まぁ……」
第一声としては間違っていなかったらしく、姫王子は驚いた表情を見せる。
「今朝も、ちゃんとこられたわけだから……うん、大丈夫」
校内で何度か顔を見たが、そのときは、ここまでの顔色ではなかった。
今朝といまでは、明らかに体調が違う、違いすぎる。
「じゃあ、僕はこれで――」
「どこまで帰るんだ? 電車通学だったし、かなり遠いだろ」
電車という言葉を聞いた瞬間、目に怯えの色が走った。
そのあとで質問の意味を理解したらしく、どう答えたものかと、逡巡した様子も見せている。
自分の住む場所を知って、なにかするのではないか――というような。
どこか見覚えのある、周囲への信用を失った瞳をしていた。
「……うちの父親は、自転車に乗るのが趣味なんだが」
「へ――え、なんの話、かな……?」
突然の話題変更に、姫王子が思わずといった様子で問い返してくる。
「その経験談ってわけでもないんだが、体調不良で自転車に乗ったやつが、色々と危ない目に遭ったらしくてな……止めなかったことを、後悔してるんだと」
少し重たい雰囲気を匂わせておくが、実際はかなり緩い話だ。
けれど、深刻そうに話したおかげで、彼は雄馬の話に耳を傾けてくれる。
ここだ――雄馬はためらわず、彼の懐に踏み込んだ。
「そっちの最寄り駅まででいい、送らせてくれ」
見過ごして、後悔したくない――そんな言葉が届いたのかどうか。
まだ予断は許さないといった風に見えるが、少なくとも姫王子はそこで、わかったと承知するように、うなずいてくれた。
…
学校の最寄り駅までは十分ほど、そこから電車で三駅、さらにその駅から十分ほど――。
それが彼、姫王子の住所らしい。
もちろん、事こまかな住所までは教えてくれないが、だいたいそれくらいの距離にあると、言葉を濁しながら教えてくれた。
自転車なら、飛ばして四十分というところ、ゆっくりならもっとかかる。
その通学路を彼に追走し、雄馬も緩やかに自転車を走らせていた。
「……昨日までは、タクシーで通学してたんだよ」
ゆっくりと、けれどそれなりに無理はしている様子で、自転車をこぎながら姫王子はそう説明する。
ほとぼりが冷めるまではと思っていたが、先日の事件を機に、もう熱は引かないと思ったのだろう。
「卒業までそうするわけにもいかないし、そもそもお金の負担もあるから……今日からは、自転車にしようって――」
「そうか……月並みな言い方になるけど、大変だったな」
かばわなかった自分が、なにを知ったようなことを――。
そんな風に糾弾されてもおかしくない言葉だが、そうする力もないのか、姫王子は言葉を返すことはなかった。
代わりに――というのもおかしいが、姫王子の自転車がふらつき、倒れ込む。
「――って、あぶねぇっ! おいっ、しっかりしろ!」
急加速させて姫王子の隣に迫ると、雄馬は自転車ごと、彼を支え起こした。
顔色は青を通り越して白くなっており、唇の色もよくない。
「っ……ちょっとここ座ってろ。なんか飲むか?」
「い……い、だいじょぶ……っ……」
大丈夫にはとても見えないが、声はだせて、意識もはっきりしている。
ただ、このまま自転車をこいで帰れるとは思えない。
近くにベンチでもあればよかったが、地面に座らせるのが精いっぱいだ。
見回すと、少し離れたところにコンビニがある。
「……立って――いや、立たなくていい。ちょっと力抜いてろ」
「え、なに――ひゃっ!」
線の細さは見かけだけでなく、身長のわりには非常に軽かった。
雄馬も、姫王子より頭ひとつ分くらいは背丈があり、背負うのに苦労はない。
「な、なにしてるんだ……お、下ろして――」
「暴れなきゃすぐ下ろす。そこのコンビニまでだからな」
ほどなくコンビニに到着し、まずは彼をイートインスペースに座らせる。
そのあと水、お茶、柑橘系のホットドリンクを購入し、店員に彼の体調不良を伝えておいて、飲み物は姫王子の前に並べた。
「……ご、めん……っ……」
「いい。それより、近くに駐輪場があるから、お前の自転車を預けてくる。すぐ戻ってくるから、ちょっと休んでろ。寝てても大丈夫だからな」
念のためにと自分の制服をかけてやり、もう一度、店員のもとへ。
自分の自転車だけ、店の前に置かせてもらう交渉を済ませると、残る姫王子の自転車に跨り、駐輪場へ向かった。
走って戻る時間も含め、おそらく十数分ほどだろう。
マイ自転車も撤去されることなく残されており、店内に姫王子もいた。
「……おかえり」
「すまん、起こしたか?」
「いや、寝てない……息だけ整えて、休んでたんだ……これ、ありがとう」
身体が冷えていたのか、ホットドリンクを見せて、彼が礼を言う。
「お金、あとで払うから……」
「ああ、それはいつでもいい。それより、動けるようになるまで休んどけ」
隣の席に座り、残っていたお茶を口にした。
少し急いで動いたこともあり、熱を持っていた身体には、冷たさが心地よい。
それからしばらくは、特に会話することもなかった。
もしかしたら姫王子は、少しだけ寝ていたのかもしれない。
雄馬はそこに十五分ほど座っていたが、彼はカウンターに突っ伏すようにし、小さく背中を上下させていた。
その身体がやがて、ピクリと動き、ゆっくりと起き上がる。
「ふぅ……ありがとう、もう大丈夫」
「ん――たしかに、だいぶまともになったな」
青白かった顔には血の気が戻り、唇にも赤みが差していた。
「駐輪場はどこ? 自転車、回収しに行かないと」
「――は?」
立ち上がってそんなこと言いだす姫王子に、雄馬は『なに言ってんだこいつ』というあきれた顔を見せる。
「それはあとで、俺が回収する――とりあえず今日は、俺の荷台に乗って帰れ」
「な――い、いいよ、さすがにそれは!」
「お前がよくても、俺がよくない」
多少はましになったとはいえ、この状態で長距離は走らせられない。
おそらくどこかで、また倒れ込むのがオチだ。
「ふ、二人乗りは禁止されてるだろっ……見つかったら、羽生くんまで――」
「緊急避難だって言えば、なんとかなるだろ」
姫王子の体調が最悪であろうことは、いざとなればコンビニの店員が証言してくれるだろう。
そして救急車を呼ぶのもタダではないのだ、当然、タクシーも。
実際にこの言い訳が通るかはわからないが、いきなり逮捕されるなんてことにだけは、絶対にならない。
姫王子が、警察に対して恐怖と不信を抱くのは、もっともだとは思うが。
「っ……どうして……」
「ちゃんと家まで送らせてくれたら、教えてやる」
学校では完全に追い込まれた、死にたくなるような状況だったに違いない。
そのとき助けてくれなかったのに、どうしてこんなに世話してくれるのか。
それを不思議に、あるいは疑問に思うことは理解できる。
(別に、これっていう明確な理由があるわけじゃないけどな――)
ただ、こういう言い方をしておけば、彼にも大義名分ができる。
この厚意に甘える言い訳が立つなら、言うとおりにしてくれるだろう。
してくれる――かもしれない。
「……わかった。それじゃ、お願いするよ」
よかった、してくれた。
内心で安堵のため息を吐きつつ、姫王子の荷物も持ってコンビニを出る。
日はかなり沈んでおり、さっきよりまた少し寒くなっていた。
少し急いだほうがいいかと思いながら、二人分の荷物を前カゴに放り込み、後ろの荷台に姫王子を座らせる。
「それ羽織ったままでいいからな。あと、ちゃんとつかまっといてくれよ」
「うんっ……」
跨って座るかと思ったが、彼は横座りになって、雄馬の腰にしがみついた。
ほっそりとした腕が、それでもしっかりと力を込め、身体を支える。
「じゃ、行くぞ――とりあえず駅のほうまで行くから、そこから案内してくれ」
まだ道程のなかばほどであるため、駅二つ分は先の話だ。
自転車をこぎながら背後に告げると、彼の頭がコクリと上下する。
雄馬の背に、強く押しつけられたままで――。
「っ……くっ、うっ……うぅっ、うあぁぁぁぁっ……」
なにか――聞いてはいけない声が、聞こえたかもしれない。
それに気づくことも、触れることも、彼を傷つけてしまいそうで――。
雄馬はなにも言わず、ただ前を見て、ペダルを踏み続けた。
…
途中で、ここまででいいと言われるかと思ったが、意外にも姫王子は、彼の家まで誘導してくれる。
そうして見上げているのは、オートロック完備のタワー型マンション。
「すげー……」
「ははっ、別にすごくないよ。親が用意してくれただけだし」
それがすごいのだが――と思いつつ、いまの言葉に違和感を覚えた。
「用意してくれたって――実家じゃないのか?」
「あ――えっと、それは……その……」
失言に気づいた姫王子が慌てるのを見て、まさかと思う。
「冤罪のせいで、ここに追いやられたのか?」
「え――ち、違うよっ! それは違う、誤解しないで!」
今度の慌てぶりは、本当のことを信じてもらおうとする慌てぶりだった。
「学校に通うのに、実家は遠すぎるからっていうだけで……あ、家族はちゃんと信じてくれてるよ。それは本当に、大丈夫だから」
そこまで言うなら、他人が気にすることではないのだろう。
「ならいいんだけど――あ、ちょっと自転車置かせてもらえるか?」
納得した雄馬は、そう言って話題を変えた。
彼がそれで通学している以上、スペースは確保されているはず。
「え、どうして――って、もしかして僕の自転車? あれだったら自分で取りに行くから、羽生くんはもう帰ったほうがいいよ」
そう指摘されるのも仕方ないくらい、ずいぶんと遅い時間になっている。
だが、だからこそでもあった。
「このくらい遅くなれば、あと一時間や二時間くらいじゃ変わらんだろ。さっと行ってさっと戻ってくるから――あ、そのときの連絡手段だけ頼む」
この寒空で、しかも体調不良だった姫王子を待たせるわけにもいかない。
彼は部屋で待機しておくとしても、戻ってきたらスマホかインターフォンで伝えられるよう、どちらか教えてもらっておかなければ。
「だって、そんなの……悪いじゃないか……」
「いや、別に悪くないが。俺がやるって言ってるわけだしな」
それに――と、雄馬は付け加える。
「さっきの理由、まだ教えてないしな」
「……ここまできたら、もういいかなって思ってるくらいだけど」
そんなことを言いながらも、姫王子は妙にうれしそうに笑っていた。
…
そうして彼の自転車を回収し、戻って連絡をすると、すぐに私服の姫王子が迎えに出てくる。
入ってすぐの、共通ロビーで待っていたようだ。
「部屋で休んでればよかったのに、律儀だな」
「そういうわけにもいかないでしょ……あ、自転車ありがとう」
自分の自転車と交換するため、二人で駐輪場スペースまで歩く。
「よっと……ところで、明日からはどうすんだ?」
交換を済ませ、さりげない感じでそう聞いてみると、少し疲れた様子を見せながらも、彼はうなずいた。
「うん、自転車で行くよ。今日みたいなことには、ならないと思うから」
「なんの根拠があってだよ」
予想はしていたが、予想どおりでよかったと思っておこう。
「そんな姫王子に、少し大事な話がある」
「……うん、なにかな」
理由のことか――それとも、事件のことか。
身構える姫王子には申し訳ないが、それとはあまり関係のないことだ。
「今日のことを踏まえて、明日から俺が送迎することにした。すでに家に連絡もして、タンデム用の自転車を整備してもらってる」
一瞬、なにを言われているのかわからないといった様子で、姫王子はきょとんとした顔をし――。
「はっ……えっ、ええええぇぇぇっっ!?」
直後、頭から抜けるような大声を響かせた。
「意味わかんないんだけどっ! なんでそうなんのっ、そうなったのっ!?」
「今日みたいなことになったら大変だからな。それでいちいち気を揉みたくもないから、俺が決めといた」
「とくなよっ! 僕のことだろっっ!?」
「ちなみに――タンデム用ってのは、二人乗り用な。このあたりから学校までなら、公道で走っても大丈夫なやつだ」
「聞いてないよっ!」
胸倉をつかまれ、ガッシガッシと揺さぶられるが、特に苦しくはない。
それをしている姫王子の顔のほうが、よほど苦しそうにしていた。
「なんで、そんなこと……してくれんのさっ……僕なんかに――」
おい、やめろ――と雄馬が止める間もなく、彼が口にする。
「僕なんて、は……犯罪者、なのにっ――」
「――やってないって言っただろ、いまさらそんなこと言うな」
力の抜けた手をこちらからつかみ、崩れそうになっていた姫王子を無理やり立たせると、見開かれた目と視線が合った。
「信じて……くれるって、いうの?」
それこそ信じられない、といった風に彼の目が泳ぐ。
「そりゃ――だって、なにもわからないからな」
痴漢の現場も見ていないし、被害者の顔も知らないし、被害者の主張も知らないし、逮捕の瞬間も見ていない。
わかっているのは、本人が冤罪を主張しているということ――。
そして、本人――姫王子稜という人間が、どれだけいいやつかということだ。
「よく知らないやつとか、警察とかより、知ってるいいやつを信じるのは当たり前だろ。まぁ、そうは言っても――」
姫王子のほうは、こっちを信じられないかもしれない。
ここで雄馬の主張を聞き入れるのは、かなり難しいだろう。
「……とりあえず、明日だけでも付き合ってくれ。それで信用できないと思ったんなら、明日そう言ってくれればいい」
妥協点を作ってそう伝えると、姫王子は小さく首を振った。
「……いやだ」
「そ、それはわかるけど、だから――」
「いやだ……信じるよ」
「えっ?」
顔を上げた姫王子の瞳から、雫が伝い落ちている。
「これが、最後だから……信じて、みる……信じて、みたいっ……」
彼がどれほど追い込まれていたのか――それを物語るすべてが、その言葉には詰まっていた。
「……ありがとう、羽生くん。希望を、くれてっ……」
彼にとっての最後の一歩には、なんとか間に合うことができたらしい。
何度もためらい、時間を無にしたことを悔やみながらも――雄馬は、そう期待をかけてくれる姫王子の言葉に、心から安堵するのだった。