後日談幕間1 東条響の後悔
二人が仲よくバイトしていたときの先輩。
いい感じに身がっt……人間らしくできたかも。
なにがいけなかったのか――おそらく、すべてだろう。
東条響は死んだ魚のような目で机に向かい、溜まっていた作業をなかば強引なまとめ方で片づけながら、頭の片隅で常にそんなことを考えている。
響は自分が、恋愛にうつつを抜かすようなタイプではないと思っていたし、高校に入学してからも、事実そんな学生生活を送っていた。
ただ、心の奥底に、憎からず思う男子の顔はある。
ひとつ年下で、かつて中学の生徒会で自分の右腕として活躍し、さらには自分の跡を継いでくれた、大事な――誰よりも頼りにしていた後輩の、羽生雄馬。
高校に入学し、役員補佐として執行部に迎えられ、翌年の選挙で役員に就任した響は、雄馬が入学すれば、すぐに補佐に据えようと考えていた。
そのつもりだったのに、なぜ――。
(なぜ……どうして、あんな選択を……あんなことを言った――)
魔が差した、そうとしか説明できないような行動を思いだし、深く後悔する。
「――会長、どうかしたんですか? もう終わりですよね?」
「ん……あ、あぁ……そう、だな……皆、ご苦労だった」
気がつくと、溜まっていた書類も片づいており、年内には、仕事が終わる目処も立ったと見ていいだろう。
とはいえそれも、自分の怠慢が招いたことだ。
そもそも、三年である役員が冬休みに入ってなお執行部に居座っていることは、極めて異例である。
現に、他の三年はとうに引退しており、いまは補佐につけた面々が来年の選挙にて信任を得るため、こまかな仕事を行っている状況だ。
響がいまだに役員として働いているのは、推薦が決まっていることと、自身の補佐であった姫王子を冤罪で追放してしまった、その責任を取ってのことである。
もちろんそれだけでなく、冤罪事件と、それに関わる事情でショックを受け、多くの仕事をなおざりにしていた責任も果たしているわけだが。
(冤罪のことも、それ以外のことも……私は、なにもかも間違えた……)
帰り支度を済ませ、戸締まりを終えたころには、残っていた役員補佐たちもすべて帰っていた。
冬の夕方という冷たい空気の中を、ひとり寂しく帰るほかないことは、ただの自業自得でしかない。
仕事を放棄し、後輩男子のもとに足しげく通いつめる自分の姿は、他の後輩たちにはさぞ滑稽に見えただろう。
今月に入り、ようやく真剣に取りかかって挽回したからといって、多忙の原因となった自分を許す後輩はいない。
そんな人物が、推薦入学ですでに進学を決めていることは、後輩ばかりか同級生も腹立たしく思っているのではないか。
面と向かって、そう言ってくる人物はいないが、響は心の中で、自分をそのように評していた。
歴代最高どころか、最低の生徒会長――怠惰な置物でしかなかったと。
…
「東条――いまからでは、やはり難しいとのことだ」
「……そうですか。ありがとうございました」
帰る前に足を向けた職員室で、生徒会の顧問を務めていた教師から、そのような言葉を聞き、頭を下げる。
推薦入学を、いまからでも断れないかと打診していたのだが、それは学校から拒否された。
自分の行動や、目まぐるしく動いた学校内の状況を鑑みても、響にそこまでの責任はないと見なされたというのがひとつ。
もうひとつは、一度は決まった推薦を受け取る側が拒絶することで、来年以降の後輩が受けられなくなることを、学校がよしとしなかったのだ。
(……当然だな。推薦を蹴るのではなく、よい成績を残すほうが償いになるか)
そんな針のむしろに座らされることも、どこか罪悪感を軽くする。
それでもやはり、響の後悔は尽きない。
なぜ彼を裏切ってしまったのか――。
本当に、魔が差したとしか言いようがなかった。
◇
響が彼を――姫王子稜の存在を知ったのは、入学式のこと。
生徒会が主催するちょっとしたセレモニーで、入学成績で最優秀だった彼と、顔を合わせて言葉を交わす機会があった。
その美貌と立ち居振る舞いは美しいのひと言で、並の男子など歯牙にもかけなかった響をして、完全に魅入られてしまう。
セレモニーを含め、入学式が無事に終わったあと――響は他の役員と協力し、彼を生徒会室に招いた。
資質を見極めようという気もなくはなかったが、あくまで目的は軽い交流で、生徒会の業務についてはさほど触れていない。
にもかかわらず彼は、その端々で業務について的確な指摘をし、当時の生徒会長を相手にしても、臆さず闊達な議論を広げてみせた。
彼を生徒会に招けば、どれほどの貢献を果たしてくれるのか――。
一度そう考えてしまった響の頭には、もはや雄馬のことはなかった。
人を外見で判断するのは軽率だと思っているが、それでも見目がよいに越したことはない。
その点において姫王子は、学園内でもトップクラスだ。
そして頭もよく、実務能力もある――そんな彼が自分の隣で補佐してくれる。
その未来に目がくらんだのだと言われれば、返す言葉もない。
ほどなくしてスカウトした姫王子が、補佐就任を快諾してくれたこともあって、響は完全に舞い上がっていた。
恋愛には疎い、男子には興味ない――そんな自分がいたことすら信じられなくなるほど、響は彼に夢中になってしまう。
雄馬が生徒会室にやってきたのは、そんなときだった。
『ああ、君か――なにか用かな。役員の手は足りている、君はもう不要だ』
その言葉はいまでも――いや、いまになったからこそと言うべきか。
少し意識するだけでもはっきりと、大声で脳内にリフレインされ、響は心臓を鷲づかみされたような恐怖に苛まれる。
自分は本当に、なんということを言ってしまったのかと、背筋が凍る。
だが――当時はそんな後悔など、抱きはしなかった。
昔の彼氏のような顔で押しかけ、役員補佐にと願い出る彼を厚かましく思い、疎ましいとすら感じてしまう。
姫王子とうまくいくかもしれない――。
そんな未来を思い描いていた響は、邪魔をするなと辛辣な言葉を浴びせ、雄馬を追い返したのだ。
ひどくショックを受けた彼の顔も、いい気味だとしか思わなかった。
…
どうかしていた――などという言葉では、もはや言いつくろえない。
最低極まりない、人道にもとる裏切りだろう。
その後の彼が、どんな気持ちで一年以上も過ごしていたのか、いまの響には想像すらつかない。
そんな自分が、いまさら――すべてを失ったからといって彼を求めるなど、考えることさえ許されないはずだ。
姫王子のことは、いわばアイドルのように思っていた。
自分が本当に好きだったのは、隣にいてほしかったのは、羽生雄馬なのだと。
ようやくそのことに気づいたと、どの顔で、どの口で言えるというのか。
だが――真におぞましいのは、自分が実際に、それを口にしたことだ。
雄馬に冷たい目であしらわれ、侮蔑の言葉を浴びせられ、そんな資格もないというのに、泣き崩れそうになる。
彼の怒りが自身への裏切りではなく、姫王子への裏切りに対して向けられていることも、いっそう響をみじめな気持ちにさせた。
もうお前のことは、なんとも思っていない――。
そう告げられているような気持ちになり、残っていたなけなしの矜持も、完膚なきまでに叩きつぶされる。
自業自得であるとわかっていても、それをまざまざと見せつけられ、ショックを受けないでいられるほど、響は豪胆な人間ではなかった。
思い返されるのは、中学時代の思い出ばかり。
肩を並べ、時には言い争いもあったが、それでもひとつの目的のために協力し、達成することには昂揚感があった。
当時の自分はそれを、成功による充足と思っていたが、実際には違う。
事をなし、ねぎらいの言葉を交わし、微笑み合う――。
雄馬とのそんな、なにげない行動のひとつひとつが、響の感情を揺らし、胸を熱くさせたのだ。
なぜなら、きっと――当時から自分は、雄馬が好きだったのだから。
◇
響がその感情を自覚したのは、姫王子が痴漢容疑で捕まったという報を受け、彼を追放し、しばらく経ってからのことだ。
だからこそ、雄馬のことを想うたび、当時のことも脳裏をよぎる。
噂を最初に聞いたときは、まさに寝耳に水という状態だった。
とはいえ、すぐさま信じたかと言われれば、そうではない。
そんな馬鹿なことはなかろうと一蹴し、いつものように仕事をし、姫王子がくるのを待っていたはずだ。
けれど――彼はこなかった。
情報を精査すると、噂を広めたのはある生徒で、職員室で教師が連絡を受けているのを聞き、それを友人間で話題にしただけだという。
それが人づてに、あるいはもれ聞こえた話をさらに話題にする流れで、気がつけば噂は、学園中に広まっていたらしい。
その日の姫王子の欠席と、後日の登校時に、彼が職員室から呼びだしを受けたことも、噂の信憑性を高めた。
なにより決定的だったのは、彼が否定する言葉を口にしたことだ。
拘束されたのは事実だが、それは冤罪である、ただし示談に持ち込んだ――。
彼は何人もの生徒に事の次第をたずねられた末、一度だけそう告げた。
しかし、その言葉が多くの憶測と誤解を生み、知らず蓄積されていた悪意と結びついて、彼には最悪のレッテルが貼られてしまう。
その件については、生徒たちが現実を正しく認識できていなかったことも、おおいに災いした。
痴漢の冤罪事件に関して、いくつかの法整備が進んでおり、それらのみが報道されていたことで、一般には冤罪事件は減っていると認識されている。
しかし、それは大きな間違いだ。
現実では冤罪の証明は非常に難しいとされており、いまだに多くの男性が、示談によって訴訟回避をしているのが現実である。
けれど生徒たちはイメージだけで事件を判断し、示談にいたったという姫王子の件について、冤罪ではなかったと考えた。
実際――彼がどうして法廷で闘わなかったのか、それはわからない。
なんらかの事情があったのだと、いま振り返ればそう思えることだが、当時は誰もが彼の犯罪行為を疑わなかった。
実際に駅や警察から連絡を受け、詳細を知っているであろう教師たちが、そうした雰囲気を否定しなかったことも大きい。
彼らにすれば、生徒を守って世論と争うことより、世論を受け入れてひとりの生徒を犠牲にしたほうが、リスクや労力が小さいと考えたのだろう。
いずれにせよ、そうしたイメージのついてしまった彼を、そのまま役員として残しておくことはできなかった。
ゆえに、やむなく――と言えば、響の責任は小さくなるだろう。
しかし、現実には違う。
自分はまた、裏切ってしまったのだ。
慕ってくれていたはずの後輩を、周囲の声と誤った認識によって嫌悪し、自ら進んで彼を追いだした。
『きみがそんな人間とは思わなかった――見損なったぞ、姫王子』
…
自分は、そんなにも思い込みの激しい、流されやすい人間だっただろうか。
二つの過ちを思いだすたび、響はそうかえりみては自嘲する。
(だろうか、じゃない――そういう人間なんだ、私はっ……)
姫王子との未来を想像し、それに酔いしれて雄馬を裏切った。
周囲の声と印象に流され、姫王子を嫌悪し、裏切った。
その事実が、自分の本性をこれでもかと突きつけているではないか。
そうして姫王子を追いだしたあと、そんな人間を補佐につけていたのかと、周囲から見られることを、自分はひどくおそれてしまった。
もう間違えられない、正しい選択をしなければ――。
疲弊と混乱の極みにあった、そんな響の頭に浮かんだのは、かつて裏切った後輩――雄馬の顔だった。
彼にした仕打ちは、すでにどこか霞んだ記憶になっており、罪悪感や申し訳なさよりも、彼なら手を差し伸べてくれるのではという期待ばかりがあった。
きっと怒ってはいるだろうが、謝ればわかってくれるに違いない――。
そんな身勝手な希望にすがり、あっさりと捨てられたのだから、無様としか言いようがなかった。
自分がなにを言おうと、雄馬はけして信じてくれない。
その事実に戦慄し、崩れ落ちそうなほどのショックを受けたことで、ようやく響は自分の気持ちを理解したのだ。
彼のことを、誰よりも愛していたのだと。
雄馬という存在が、どれだけ自分を支えてくれていたのかを理解し、彼のいない現実がひどく空虚に思え、なにもやる気が起きなくなっていた。
いくら声をかけても、彼は戻ってきてはくれない。
彼に拒絶の意思を向けられることで、響は自分の罪を認識し、後悔に満たされた無益な時間を過ごし続けた。
その挙句に突きつけられたのは、見かぎって追放した姫王子が、清廉潔白な無罪を勝ち取ったという真実である。
その報道を目にした瞬間、響の頭は真っ白になり、これまで信じていたすべての現実が崩壊していくような感覚に襲われた。
◇
姫王子への謝罪は、もちろん受け入れられなかった。
いや、謝罪自体は聞き入れてくれたが、大勢が期待した許しは、誰も受け取ることができなかった。
周囲を完全に拒絶する姫王子は唯一、雄馬にだけは心を開いている。
それも当然のことだろう。
雄馬だけが正しいことを正しく認識し、姫王子の味方であり続けたのだから。
嘆かわしいことに自分は、そうした雄馬の行動さえ、彼らの目の前で否定したというのだから、もはや救いようがない。
しかし不思議と、姫王子の許しが得られなかったことは、響にとってはさほど苦痛ではなかった。
申し訳なさはあるし、償いを求められれば喜んで応じるつもりだが、自分が真に欲するのは姫王子からの信頼ではない。
彼の隣にいて、彼だけに笑顔を向ける――雄馬の信頼こそ、響が欲してやまない唯一のものだった。
…
(もし――などという想像をするのは、あまりに空虚だが……)
それでも、もしもを考えてしまう。
もし、姫王子を補佐に置いていなければ――。
もし、雄馬をスカウトしていれば――。
もし――あのとき、雄馬の申し出を断らなければ。
もし――もっと早く自分の気持ちに気づいて、それこそ中学のとき、雄馬に想いを告げていれば。
きっとなにもかもがうまくいき、いまごろ自分の隣には、雄馬がいたのかもしれないのに――。
…
(違う……違うっ、違うっ! まだだ、まだ……私は、あきらめない――)
彼は言ってくれた、自分がいなくなれば、役員を考えなくもないと。
なってくれるかは別としても、可能性だけはつぶしたくない。
彼が執行部に入り、自分の残した基盤を継いでくれるというなら、それは彼とのたしかなつながりとして残ってくれる。
可能性はゼロに近いが、いざそうなったときに、彼を失望させたくはない。
責任を果たすという思いも、けして嘘ではないが――。
自分がいまだ役員として残っているのは、彼のためにまともな生徒会執行部を残せるよう、力を尽くしたいからなのだろう。
(やって当たり前のことをしているだけ、褒められるようなことではない――だがそれでも、どこかで……私のことを、見ていてほしい……)
隣に雄馬がいないことは、もはや苦痛ですらある。
けれど、もし彼が見てくれていたらと考えると、仕事のやる気も増した。
その姿を見て、彼に好きになってもらえたらと妄想するだけで、天にも昇るような気持ちになれる。
(好きなんだ……どうしようもなく、きみが……)
どれほど愚かでも、いまさらと拒絶されても、彼の恋人になるという夢をあきらめられなかった。
いまのところ、雄馬に決まった相手がいると聞いたことはない。
事件の影響で、彼は姫王子と敵対した全員を拒絶しており、周囲に男子も女子もいないことが、響にとっては幸運だった。
口さがない連中の噂では、彼は男色家であるなどと吹聴されているようだが、さすがの響も、そればかりは馬鹿ばかしいと一蹴している。
違っていてくれという願望であることは、いなめないが――。
(ともあれ……彼に恋人がいないというなら、あきらめずに済む……)
もしや、自分のことを忘れられないからでは――などと、都合のいい思い込みをしたりはしない。
ただ、何通もだした手紙によって、多少なりとも自分を意識してくれていたら、まだチャンスはあるはずだ。
「……好きだ。誰よりもきみが好きだ、雄馬」
冬の夜空を見上げた響は、冷たい空気をわずかに震わせ、そうつぶやいた。
◇
ちなみに――。
その手紙は彼にとって、見るだけで寿命が減る心地を味わわせるものなのだが、響には知るよしもない。
こちら、新年編(逆襲の先輩編)のプロローグ的エピソードでしたが、残念なことに新年編は手つかずとなっております。
予定していた自由執筆時間が、急な仕事でなくなってしまった、などという言い訳はしません。
長編(現在8割ほど)ともども、ごゆっくりお待ちいただけますと幸いです。