10 ある一族のしきたり 前
日曜の朝――。
約束していた時間にマンションへ向かった雄馬は、送迎車スペースに置かれるリムジンを目にし、硬直することになる。
「……いや、いやいやいや。うん、それはないな」
おそらく別の住人が使うものだ、近づかないほうがいいだろう。
それを横目に通りすぎ、その日はインターフォンで姫王子を呼びだした。
『稜、もう出られるか?』
『あ、ついた? じゃあレイコさんと下りるから、先に乗っててよ』
なるほど、自転車に乗っておけばいいのか。
そんな現実逃避をし、自転車に跨って待っていると、ロビーから出てきた姫王子は、あきれたような苦笑いをもらす。
「二台分のスペースあるから、それは置いてきていいよ。乗るのはこっち」
「ですよね」
自転車を置いて戻ると、お手伝いさんと思われる女性――レイコさんと姫王子が、ドアの前で待っていた。
「こちらがレイコさん?」
「うん。厳密にはお手伝いさんじゃないんだけど、そのあたりも実家で話せたらなってことで――レイコさん、羽生雄馬くんだよ」
紹介される形で頭を下げると、レイコさんもペコリと頭を下げる。
姫王子に並ぶくらい長身の彼女は、想像より遥かに若かった。
まだ20代なかばというところだろう彼女は、切れ長の目で、クールな雰囲気を漂わせており、なんとも声をかけづらい。
パンツスーツを華麗に着こなしているが、その胸元も非常に大きくふくらんでおり、失礼だと思いながらも、目を引かれそうになっていた。
「――雄馬、どこ見てんの?」
「いや別に。これ、どっち座ればいいんだ?」
ごまかすように、開いてもらったドアから内装を覗き込む。
それほど長くないタイプのリムジンなので、座席は前後の対面式だ。
座るならやはり、向かい合うべきなのだろうか。
「普通でいいよ。レイコさんは助手席だから、僕と雄馬が隣でいいでしょ」
そう言って姫王子はさっさと乗り込んでしまい、雄馬も続かざるをえない。
「えっと……では、お邪魔します」
「はい。稜さまをよろしくお願いします、雄馬さま」
なんとなくレイコさんに声をかけたところ、外見で想像したより遥かにかわいらしい声と、おだやかな口調でそう返された。
…
そのリムジンはエンジンの音などまるで聞こえず、また運転手の技術がすぐれているのか揺れも非常に少なく、快適な旅路となっていた。
「――で、お前って何者なんだ?」
姫王子の手ずから供された飲み物で唇を湿らせ、そう口にする。
「ふふっ、そういうの聞いてくるんだ、雄馬って」
マンションを見たときや、お手伝いさんの話をしたときは、そんなに食いつかなかったのに――と。
彼の心の声が、聞こえた気がした。
「リムジンで送迎されると、さすがにな……それに、いまから行くのは稜の実家なんだろ?」
いまから行く場所の情報でもあるのだから、さすがに聞いておきたい。
そんな雄馬の問いに、姫王子は特にためらうことなく答える。
「僕がいま名乗ってる名字は、母方の名字なんだ。でも、本当の名字は大道寺――って言えば、わかるかな」
なんてことのない調子で返され、思わずグラスを取り落としそうになった。
大道寺といえば、この国を代表するどころか、世界を股にかけようかというほどの大企業、複数の分野でトップを独走する企業グループだ。
「なっ、えっ……お前、大道寺の御曹司なの?」
それだけの大企業を束ねる家の子息ともなれば、あれだけのマンションを与えられ、リムジンだって簡単に用意してもらえるだろう。
美人で爆乳の家政婦を与えられ、同棲していても不思議ではない。
「あー……半分は正解、かな」
困ったように答えつつ、姫王子はジト目を向ける。
「あとなに、レイコさんのことそんな風に見てたの。ああいうのがタイプ?」
「……また声に出てたか」
「そのクセ直したほうがいいよ、絶対」
恋人か許嫁かは知らないが、自分の傍にいる美女をそんな目で見られては、彼も心おだやかではないだろう。
「いや、すまん……つい。でも、そういう風には見てないから、安心してくれ」
「な、なにを安心しろっていうのさっ」
「え――だから、お前の彼女に手をだしたりはしないってことだ」
「なっ……バ、バカなのっ!? 彼女じゃないからっ!」
顔を真っ赤にして怒鳴るということは、想い人ではあるが、まだ想いを告げてはいないということか。
姫王子――いや、大道寺だろうか。
ともかく彼が告白すれば、間違いなくうまくいくはずだと思うのだが、彼はずいぶんと奥手だったらしい。
「……まぁ、後悔しないようにがんばれよ」
「なんの後悔だよ! 変な誤解しないように!」
なぜかプリプリと怒りながら、彼は気持ちを鎮めるように、自分のグラスを一気に空けた。
「とにかく、実家に連れていくのは、聞いてもらいたいことがあるからだよ」
「……実は俺が、大道寺の御曹司だったとかか?」
先の問いで姫王子が『半分は正解』と答えたのは、彼でなく雄馬自身が御曹司だからではないだろうか。
(――いや、ないだろ)
「そんなわけないでしょ」
「ですよね」
ありえない想像を一蹴され、少しホッとする。
「そんなこと考えたりしたら、やさしいお父さんに失礼じゃないか」
「う……いや、わかってるっての」
理由も聞かずタンデム自転車を用意してくれ、整備までしておいてくれるばかりか、小学生の息子を男手ひとつで、ここまで育ててくれた父親だ。
口にしたりはしないが、感謝と尊敬を忘れたことはない。
とはいえ、それはそれ、これはこれ――自分が資産家の隠し子だという妄想を楽しむのも、男子のたしなみというものだ。
「…………まぁ、ある意味ではそうなるかもだけど」
「ん? なんか言ったか?」
「な、なんでもないよっ」
顔を赤くして視線をそらした姫王子は、パタパタと顔をあおぎながら、ごまかすように咳払いをする。
「と、とにかく、話はついてからね――それまでは、のんびりくつろいでいてくれたらいいから」
日頃の自転車送迎のお返しだから、と。
ホストを務めてくれる姫王子は、どこかうれしそうに微笑んでいた。
…
やがてリムジンは木々に囲まれた敷地に入り、大きな日本家屋に到着する。
大道寺の家だというからには、大勢の使用人によるお出迎えを想像したりもしたが、そういったことはなかった。
「まぁ、本邸とは違うからね。ここは別邸というか、離れというか――あまり人がいなくて、内密な話ができる場所なんだ」
この広さで離れという点はもはや気にせず、頭をカラッポにして、そうなのかと納得しながら彼の案内を受ける。
「それじゃ、ちょっとここで待っててね。僕は挨拶しに行ってくるから」
雄馬を客間へ通したところで、姫王子はそう言って席を外した。
レイコさんもともなって行ったため、雄馬はひとり、残されることになる。
「……こうなってくると、ちょっと心細くはあるな」
門から玄関までも遠く、その玄関は旅館のそれを思わせるほど広く、ここまで歩いてきた廊下も長かった。
閉められた障子の外からは、ししおどしの音も聞こえてくる。
それらは屋敷の広さや、格式の高さを意識させ、知らず心を委縮させた。
屋敷の大きさにくらべ、やや手狭に思われるこの客間は、茶釜なども置かれ、おそらく茶室として使われる部屋なのだろう。
広大な屋敷に雄馬が気後れしないよう、気を遣ってくれたのかもしれない。
そんなことを考えていると、廊下から人の気配が近づき、声をかけた。
「……失礼いたします」
「あ、はい――どうぞ」
接待してくれる、お手伝いさんか誰かだろうか――。
そう思って入室を承諾したが、すぐさま雄馬は、判断を誤ったことを悟る。
日頃から着用しているのか、着慣れた雰囲気で着物をまとい、膝をついて障子を開き入室した彼女は、目を見張るほどの美人だった。
うっすらと乗ったメイクは、あくまで顔の造形を際立たせるためだけのもので、彼女の美貌そのものを浮き彫りにする。
高く形よい鼻梁もそうだが、パッチリとした瞳や、長いまつ毛なども目立っており、直視することもはばかられてしまうほどだ。
「当主がお見えになる前に、お茶を点てさせていただきます――」
「は、はい、お願いします……」
あまり長くはない髪だが、それらを上品に髪留めで押さえた女性は、三つ指をついてそう挨拶をする。
楚々とした雰囲気に呑まれ、緊張に声を震わせてしまうと、彼女の唇がわずかに緩んだように見えた。
(やばい、すっげかわいい……)
女性不信とはなんだったのか――。
そう思わされるくらい、醸しだされる空気や姿に見惚れているうち、彼女は準備を始めていた。
驚いたことに茶釜は、実は湯沸かしポットだったらしい。
手早く湯を沸かしつつ、棚から抹茶と器、茶筅を用意し、慣れた様子でお茶を点て始める――。
茶道の経験はなかったが、彼女のよどみない手つきが、非常に洗練されたものであることは窺えた。
器に抹茶を入れ、冷ました湯を注ぎ、茶筅で混ぜる――例の音が響く。
ややあって雄馬の前には、小皿に添えられた砂糖菓子と、茶の容器がスッと並べられた。
本来なら、菓子を口にし、茶を飲むべきだが――作法など聞いたこともない雄馬は恐縮しながら、両手で茶器を持ち、底を傾ける。
もちろん、正面を避けて回すこともしない。知らないのだから仕方ない。
(……って、にげぇっ!?)
しかし、けして嫌な苦みではなかった。
お茶本来のというべきか、どこかクセになる苦さと、こまかな泡の口当たりを味わいながら、ひと息に飲み干し、茶器を戻す。
「……えぇと、結構なお手前で」
たしか、飲み口を拭くのだったか、どうだったか。
どこかで聞きかじったことを考えつつも、結局はよくわからないためそのままにしておき、口直しのように菓子を口にした。
サラリとほどける和三盆の甘みを感じたところで、なるほど先に食べるものだったのか――と思いいたる。
その様子をジッと見ていたように思われた女性は、やがて顔を伏せて、笑うように――というより明確に笑い、肩を震わせていた。
「すいません……作法とか、全然で――」
「い、いえ……くっ、ふっ……あはははははっ、ごめんごめんっ!」
そこでようやく――彼女はこらえきれなくなったように声を上げて笑い、雄馬はその正体に気づいて、目を丸くする。
「えっ――稜、なのか?」
「あはははっ、まぁ気づかないよね。ごめんね、ほんと……んふっ……いや、違うの――作法のこととか関係なく、雄馬のまじめな反応が、ツボでっ……」
笑い袋と化した彼女――彼――いや、やはり彼女だろうか。
ともかく笑いころげる姫王子を呆然と見つめていると、廊下のほうから障子が開かれ、中高年の男女が姿を現した。
ひざまずいて障子を開いていたのは、レイコさんである。
(となると、この人たちが――)
おそらく、姫王子のご両親――つまり男性のほうは大道寺の当主、総帥だ。
威圧感があるわけではなく、むしろやさしげな雰囲気をまとっているが、たしかな威厳が感じられ、雄馬は思わず姿勢を正す。
「は、はじめまして――俺、じ、自分は……」
「ああ、いやいや。そう気を遣わず、普段どおりでかまわんよ」
敬語どころか一人称にも戸惑う雄馬に、男性はそう微笑みかけた。
「そうですよ。稜さんの恩人ですもの……私たちのほうこそ、礼儀をわきまえないといけないくらいなのに」
言いながらお二人は、お腹を抱える姫王子の隣に座り――女性のほうは、娘の背中をポンポンと撫で叩く。
「ほら、稜さんも。しっかりなさい、お礼を言うんですからね」
「んっ、うんっ……ふっ、くくっ……はぁっ――ごめんね、雄馬」
姫王子の笑いがおさまるのを待って、三人はほぼ同時に頭を下げた。
「まず――私たちの娘を、苦痛から救ってくれたこと。悪意から守ってくれたこと……そして、送迎の世話まで焼いてくれたことに、深く感謝しよう」
「ありがとうございました、羽生さん」
「……ありがとう、雄馬」
「――いえ、その、どういたしまして」
茶を飲んだばかりだというのに、緊張で喉が渇ききっている。
とはいえ、事ここにいたっては、もう気にしても仕方がないだろう。
大道寺の総帥に頭を下げられている現実は無視し、姫王子の両親という認識で接するしかあるまい。
「特に送迎については……レイコからも聞いているが、命に関わるほどの状態を助けてもらったとか。羽生くんにはもう、足を向けて寝られないな」
「あれは、本当に偶然で……でも、俺も助けられてよかったと思っています」
雄馬の言葉を聞いて、顔を赤くする姫王子の姿に、思わずドキリとさせられていると、夫人は彼女にチラリと視線を向ける。
「だから、タクシーを使いなさいと言ったのに……その費用くらい、どうってことないと言ったでしょう?」
まだ二年の半ばであることを考えれば、卒業までにかかる交通費はとんでもない金額になるはずだ。
それをどうということはないと言えるあたり、金銭感覚のレベルが違う。
ただ――実家にも費用のことを引き合いにだし、タクシー送迎を拒んでいたようだが、おそらくそれは彼女の本音ではない。
「あの――タクシーの送迎でも、通学路で下ろすとなれば目立ちますし、離れた場所であっても見られないとはかぎりませんから……」
姫王子は、そうしたことで奇異の目を向けられたり、新たな噂の温床にされたりすることが、苦痛だったのだろう。
そんな雄馬の言葉に、夫人もハッとしたように口元を手で押さえる。
「ご、ごめんなさいね、稜さん……そうよね。冷静に考えれば、普通の学生さんだったら……私も、動転していたのかしら……」
「ううん……僕がちゃんと言わなかったからだよ、気にしないで」
しょんぼりと肩を落とす夫人に、姫王子が微笑みかける。
二人はたしかによく似ているのだが、雰囲気を見れば、母親のほうは少し箱入りの気配が感じられた。
社交的でおだやかな姫王子の振舞いは、父親ゆずりなのだろう。
「でも……羽生さんは、ちゃんと気づいていたじゃない」
「あー、えっと……雄馬はほら、普通の学生だから」
ね、と同意を求められ、雄馬も慌ててうなずいて応じた。
「ま、まぁ結局は自転車でも、早いうちに見つかりましたから……タクシーなら大変だっただろうなって、あとから気づいただけです」
だからお気になさらず――と返しつつ、話題をそらそうとする。
「そういえば……俺をここに呼んだのって、その……稜が男装してた理由を話すため、ってことでいいんだよな?」
少し強引な話題転換ではあったが、意を汲んだ姫王子はうなずき、それを継いで父親――大道寺氏も口を開いた。
「そのことは、私から説明しよう。少々オカルトな話になるが、どうか……これは真実なのだと考え、受けとめてもらいたい」
妙に真剣な語り口に、雄馬はゴクリと喉を鳴らし、姿勢を整える。
「これは大道寺家の――いわゆる親戚筋の、それも一部しか知らぬことだが。当家には、生まれた子は男女問わず、成人するまでは男子として育てなければならない――というしきたりがあるのだ」
その言葉を聞いた雄馬は、思わず肩透かしをくらったように、カクンと脱力するのを感じた。
なにを言われるのかと思えば、まさかのしきたり――。
同時に、そんなことで姫王子があれほど傷つけられたのかと思うと、憤りすら感じる。
そんな雄馬の視線、雰囲気を感じたのかもしれないが、大道寺氏には臆した様子もない。
「自分の子も守れず――と思うかもしれない、もっともな話だ。だが、このしきたりに反することがあれば、家が傾くと言われている」
「なにをっ……そんな馬鹿なことが、あるはず――」
「あったのだよ――実際に、それだけのことが」
大道寺の家が傾くようなことがあれば、それはもう日本経済の危機だ。
だが――と思いなおすのは、かつての日本経済史において、そういった事態があったかなかったか、ということ。
「我々一族も、それほど馬鹿ではない。そんなしきたりに意味があるのかと考え、おろそかにした者もいる――が、結果は惨憺たるものだった」
大道寺氏の口にした経済危機を聞けば、さほど詳しくない雄馬にしても聞いたことがあるほどの、大きな騒動ばかりである。
それらはいずれも、大道寺に生まれた女児を、女児として育て、公の場で紹介したことに起因するらしい。
少なくともタイミングは、完全に一致しているとのことだ。
「危うくつぶれかけた身代は、なんとか持ちなおしたものの……影響をおそれた先祖は代々、その際に記された記録を語り継ぎ、今日まで家を守ってきたのだ」
彼の口調や表情もさることながら、それを聞いた夫人、そして娘である稜の態度からしても、からかっているようには見えない。
だとしたら――すでに雄馬が知ってしまったこの状況は、どうなのか。
「それがいかにも、オカルトなところでな……知られる範囲や程度について、どこまで許されるかはわからんのだよ」
知られる人数の問題か、一族との関係の問題か、女児であることを知られるのが問題なのか、それが大道寺一族と知られるのが問題なのか――。
それらについては、研究しようとすれば家が傾くおそれがあるため、追求しようという運びにはならなかったという。
ゆえに――姫王子が大道寺であることも、女児であることも、そうしたしきたりがあることも、知られるわけにはいかなかった。
いかな大道寺一族といえど、その強権を用いて事件を封殺することはできず、稜に過酷な状況を背負わせることになったのだ。
「そのため、犯人に後ろ暗いことがあればと、そちらの方向からしか捜査に手を回すことができず……まぁ、なんとか冤罪は晴らせたがね、ははは」
ははは、ではない。
そこにツッコミを入れたい気持ちを抑え、雄馬はいまの話を飲み込むように、大きく深呼吸し――大道寺氏を、そして姫王子を見る。
「それだけの事情を……どうして、俺には話してくれたんですか?」
自分がこの場に招かれた理由は、そこにある気がしてならなかった――。
いまさらですが、現代日本とは微妙に違う現代日本、みたいななにかです。