羊のお家に子狼が一匹
1
その日、河原はびょうびょうと音をたて風が吹いていました。
低い雲が空を覆って、もうすぐ雨が来るかな、という感じの薄暗い空模様です。
僕がジャスコに買い物に出かけた帰り道でした。
ネギが手提げビニールから飛び出して、脇腹をつついていたので、入れ直す
為に立ち止まったときの事です。
河原の草原の遠く、利香子が猫を抱いているのに気が付きました。
僕の小さな娘が、大きな猫を抱えている光景は、ほほえましくて心が和みました。
「利香子」
と、名を呼んで、近づくと、利香子が猫を抱いたまま、振り返ります。
くりっと大きくて、それでいて無表情な目で僕の方をみます。
利香子の顔は整っていて、父親の僕から言うのもなんですが、とてもカワイイのです。
でも目つきがとても悪いのです。
三白眼気味で、時に刺すようなきつい目線になったりします。
「り……」
その時、僕は異変に気が付きました。
利香子の肩が細かく震えています。
猫は抱かれているのではなく、利香子の肘で首を固められて絞められているのです。
うなるような耳障りな鳴き声を上げて猫は体全体をばたつかせています。
利香子は何も言わず、ただ、黙って僕を見ています。
「や、やめなさい、ねこさんが……」
利香子はなにも答えません。
ただ、肩が震えるほどの力を込めて、猫の首を固めつづけています。
「利香子」
名を呼んで、利香子の肩に手を置こうとした瞬間でした。
ぼきっ。
と嫌な音がして、猫さんの首があり得ない方向に曲がり、その体はぐったりと動かなくなりました。
どさり。
と地面に猫さんは転がりました。
利香子の白いサマードレスに一筋、猫さんの物なのか、赤い血が付いて禍々しい光景でした。
「な、なんてことを」
利香子は黙って家の方へ歩き始めました。
「どうして、どうしてこんな事をするんですかっ」
娘は振り返り、琥珀色の瞳でじっと僕を見ました。
そして何も言わずに利香子は背を向けて去って行きました。
2
「で、利香子ちゃんがおかしいって事を相談するために僕を呼んだわけか」
「わるいね、他に相談する相手が居なくて。博なら専門家だしさ」
猫さん事件の次の日、僕は親友の博に連絡を取り、飲み屋さんに呼び出しました。
彼は駅前で精神科のクリニックをやっていて、僕の交友範囲の中でこういう事を相談できる唯一の人間でした。
「あのねカウンセリングは有料だよ」
「今日の飲み代はおごるから」
「まったくしょうがないなあ、竹彦は」
博は学生の頃と変わらない表情で苦笑しながらグラスを傾けました。
それを見て僕の胸の奥に懐かしい匂いがする空気のようなものが生まれま
す。
死んでしまった奥さんの雛子さんと、博と、僕で、ずっと高校時代は遊んでいました。
僕はサラリーマン、博は精神科医と進む道は違ってしまいましたが、時々飲みに行ったり、遊びに行ったりする仲なのです。
「とりあえず利香ちゃんが猫を殺した現場を見てしまったわけだな」
「そうなんだ、僕はショックでさ。どうしてそんな惨い事を表情一つ変えないで出来るのか、利香子を理解できないよ」
「利香ちゃんと話し合ったのかい? どうしてそんなことをしたのかとか」
「したけどね、黙ってるんだ、元々無口な子だし、何にも喋らないんだよ」
あのあと夕食の席で、いろいろ話かけたのですが、利香子は何も言わずに、もくもくと僕の作ったご飯を食べていました。
「ふーん、動物虐待かあ」
「どうしてああいうことができるんだろうね。父親の僕は学生時代、理科のフナの解剖で卒倒したというのに」
「まあ、竹彦は昔から草食系だしな」
ほっといてほしいです。
「怖いのはね、最近近所でちょくちょく猫とか犬が死んでるんだ、それも利香子じゃないかって。考えたくないんだけど」
「ああ、たしかに最近よく死んでるね」
近くの団地とか、河原で、虐待された動物が死んでいるのが見つかっています。
そのうえ、人殺しさえ、この街で連続して起こっています。
さすがに人殺しに利香子は関係ないでしょうが、心配です。
「殺人鬼が幼少の頃、動物を虐待するって聞いたことがあってさ、なんだか怖いんだ」
「そうだね、欧米の連続殺人鬼は幼少時代、動物を虐待して殺しているケースが多いって聞くね」
「動物を虐待する奴は何が楽しいんだろうか?」
「うーん、そうだなあ。攻撃性の問題かな」
「攻撃性?」
「竹彦は温和だから解らないかもしれないけど、人の心の底には獣性のようなものが潜んでいてね、相手を倒したり、殺したりすることで達成感とか充実感を感じる事があるんだ」
まあ、僕はあまり人に怒ったりしないので実感が薄いのですけど、なんとなく解ります。
「えー、でも怖いだろう、殺したり血がでたりすると」
「人によるんだよ」
「普通、嫌じゃないのか、そういう事って」
「面白い話をしてあげよう。竹彦は戦争の時に兵隊は銃を敵に向かって撃つのが当然と思っているだろう」
「それは、そうだろう、兵隊さんなんだから」
「第一次大戦あたりの統計があってね、ほとんどの兵士が敵に向けて銃を撃ってない事がわかったんだ」
「え、じゃあ、どこに向けて撃ってるんだ」
「敵の頭上の空」
……。
意外な話ですが、なんとなく解るような気がします。
僕も戦争に行ったら、ねらいを外して敵の頭上の空に向けて撃ってしまいそうです。
「まあ、ベトナム戦争あたりからマンターゲットといって、人の形をした的を使った訓練で敵への発砲率が上がったそうなんだが、昔はなかなか人に向けて銃は撃てなかったらしい」
「なんか、ちょっといい話だね」
「人間性を少し見直せる話だろ。でね、十人に一人、平気で敵に向けて銃を撃てる人間がいるそうなんだ」
「それは生まれつきなのかい?」
「そうみたいだ。戦争で英雄になれる資質というものだな。人を害する事が気にならない、どころか、喜びを感じる人間が十人に一人いるわけだよ」
「利香子がそうだっていうのかい?」
「鑑定してみないと解らないけど、その可能性は高いね。人は動物を平気で殺せるようにはできていないから」
「このまま、その素質が育っていくとどうなるんだ」
「だんだんと大型の動物を殺すようになって、最後には、人だね。今話題のこの街の殺人鬼のような」
最近、この街では連続猟奇殺人が起こっていて、つい先日も切り刻まれたOLがゴミ捨て場で見つかっています。
もし、利香子が将来、殺人鬼になったら、と思うと体の芯あたりから嫌なふるえが出てきます。
「どうしたらいいんだろう。命の重みをちゃんと教えるとかしないと駄目なの
か?」
「むずかしいね。命の重みを感じられないから、平然と猫を殺せる訳だからなあ」
「やっぱり、雛子さんが死んだ事故の影響かな」
「もう、二年になるか、雛さんが死んでから。利香ちゃんも事故に巻き込まれてるんだろ」
「うん、幸い軽傷だったけど、頭を打ったらしい」
もう、二年にもなるのですね。愛する雛子さんが死んでから。
彼女が交通事故で死んだのは雨が降りしきる五月の事でした。
利香子を連れて、ご自慢の軽自動車でドライブに行った時の事でした。
警察から電話があった時の血の凍るような気分を、僕はまだよく覚えています。
雛子さんも利香子も一緒に亡くしてしまい、僕はひとりぼっちになってしまったかと思いました。
不幸中の幸いで、利香子は軽傷でした。
「色々調べてみるか。来週の土曜日、クリニックに利香ちゃんを連れてきてくれ、診察しよう」
「頼めるか、悪いね博」
「ばか、お前の娘という事は、俺の家族も一緒だよ。気にしなくていい」
「ありがとう、博」
やはり持つべき物は信頼出来る友人だと、僕は思いました。
3
僕は自宅のマンションに戻りました。
ドアを開けると、鳩子さんが顔を出しました。
「お帰りなさい」
鳩子さんは雛子さんの妹で、今日はお留守番をお願いしたのです。
「利香子はおとなしくしてましたか?」
「ん、おとなしかったよ。だんだん綺麗になって、姉さんに似てくるね、利香ちゃん」
「うん、そうですね」
娘を褒められると、親馬鹿なものでとても嬉しくなります。
「もう今日は寝ちゃったわ」
「ありがとうございました」
「なんのなんの、気にしない気にしない」
鳩子さんは朗らかに笑います。
「お茶でものみますか?」
「うん、私がするよ」
キッチンで、鳩子さんと差し向かいになってお茶を飲みました。
「食事は竹彦さんが作ってるの?」
「そうだよ、結構上手くなりましたよ」
「そうなんだ、仕事しながらだと大変よね」
「大変だけど、家事もわりと苦にならない質だから平気だよ」
「偉いわね。私なんか家事が面倒でお手伝いさんを頼んでるのよ」
「鳩子さんは忙しいから、仕方がないよ」
彼女は売れている女優で、仕事をしているので家事とかは苦手そうです。
「今日は大迫さんと?」
「そうそう、ちょっと、博に相談があってね」
「そう」
鳩子さんは視線を泳がせました。
僕は少し不審に思って鳩子さんを見ました。
彼女は少し苦笑いしながら首を少し横に振りました。
「ちょっと大迫さん苦手でさ」
「そうなの? 良い奴だよ」
「お金持ちで男前、その上気が良い、人としては上質の部類に入るよね。でも、なんか私は怖いの」
「怖い?」
「ん、何となく」
「そうなんだ、珍しいね、鳩子さんはそういう事あまり言わないのに」
「まあ、私にも色々あるということで。というか、まあ、昔ちょっとね」
ああ、なるほど、昔は四人で出かけた事もあるし、何かあったのかもしれないね。
「で、大迫さんに相談ってなに?」
「いや、まあ、ちょっと」
利香子の事を正直に言えない僕は、お茶を濁しました。
「鳩子さん、今日は車?」
「そうだよん」
「運転、気をつけてくださいね」
「……うん、そうだね」
鳩子さんは目を伏せました。
「ま、交通事故は怖いけど、逆に殺人鬼には会わなくてすむよ」
彼女は微笑んで言います。
「それはそうだね、最近いろいろ物騒で嫌だ」
「さて、明日も収録だから、そろそろ帰るね。また利香ちゃんに会いに来てい
い?」
「もちろんだよ。いつでも来て」
僕は鳩子さんをマンションの玄関まで送って行きました。
風が強くて、寒い夜でした。
遠く、パトカーのサイレンの音が聞こえました。
鳩子さんは空を見上げます。
「また、殺人鬼かな」
「そうかも、嫌だね」
僕たちは二人、立ちすくんでサイレンの音を聞いていました。
4
次の日、河原でまた女の人の死体が見つかりました。
僕は利香子に朝食を食べさせながら、ニュースを見ていました。
果物ナイフのような物で切り刻まれていたと、報じられています。
「おとうさん」
利香子がパンを噛みながら僕をよく光る目で見上げます。
「ご飯を食べながらテレビはいけないって、お母さんが言ってた」
あ、これは一本取られました。
「ごめんなさい」
僕はテレビを消しました。
ヨシ、という感じで利香子はパンにマーマレードを塗りながらうなずきました。
「いってきます」
利香子はぴょんと椅子から飛び降りました。
その時、彼女の服の袖口から、何かが、キンと音を立ててフローリングの床に落ちました。
可愛いウサギさんの顔がついた、果物ナイフでした。
鋭く砥いであるのかフローリングの床に突き刺さり、立ち上がっています。
利香子は無表情で、ナイフを抜きとり、袖口にしまいました。
「利香子?」
「……リンゴを剥くの」
「そ、そうなんだ」
「行ってきます」
「い、行ってらっしゃい。気をつけてね」
利香子は、ん、とうなずいて出かけて行きました。
ふう、と、肩を落としてため息ばかりでます。
利香子が生まれたとき、僕は本当に嬉しかったのを覚えています。
この子と、雛子さんと、三人で人生を過ごして行くのだなと思い、幸せでした。
今は、雛子さんが居なくなり、利香子とは理解しあえていない気がします。
僕はどこで、何を間違えたのか、どうすれば良いのか、解らないのです。
娘が殺人鬼にならないようにするにはどうしたらいいのでしょうか。
命の大切さを教えるには?
宗教でしょうか、学校の先生に相談するべきでしょうか。
本当に、僕にとって博だけが頼りです。
5
土曜日に利香子を連れて、車で博のクリニックに向かいました。
彼の医院は郊外の静かな住宅地に建っています。
利香子は助手席でいつものように黙って座っています。
「今日は博おじさんの所に行くよ」
「そう」
「利香子は博おじさん、好きかい?」
「……きらい」
「どうしてだい? おじさんはいい人じゃないか」
「……おとうさんは……」
おとうさんは? なんですか?
利香子はそのまま黙って横を向いて、外の景色を見ているようです。
黙って目を伏せると利香子は美少女です。
女優の鳩子さんにも、綺麗だった雛子さんにも似ています。
「おとうさん、前」
うおっと、赤信号でした。
タイヤを鳴らして急ブレーキをかけてしまいました。
県道をしばらく行くと、丘の上に博のクリニックが見えました。
駐車場に車を止めると、降りるときに利香子が手首の袖のあたりを探るような仕草を見せました。袖の奥にウサギの耳が覗いています。
「……リンゴは何時でも食べたい」
「置いていきなさい」
「大丈夫」
いや、大丈夫って言われても。
あまり争ってもみっともないので、あきらめました。
あとで博に相談すれば良いでしょう。
小学生の女子がナイフを常時携帯するのは、やはりいかがなものかと思いま
す。
本当は利香子、リンゴ嫌いだし。
あまり強く言えない私は駄目なお父さんです。
白くて綺麗なロビーに入ると、誰もいません。
病院独特の消毒液の匂いと、空調がうなって生暖かい風をだしています。
あれ、今日は休館日なのかなと、思ったら近くの電話が音を立てました。
『いやあ、きたね、竹彦、利香ちゃん』
「今日は休館日かい?」
『まーね、突き当たりの階段を下りてくれ、そこで診察するよ』
「わかったよ」
僕は利香子の手を引いて、階段に向かいます。
「……」
利香子の肩が細かく震えています。
「ん、どうしたの?」
利香子は何も言わず、ぎゅっと僕の手を握りしめました。
突き当たりの階段を下りると、部屋の扉がありました。
軽く押して入ると、なんだか殺風景な部屋でした。
少し薄暗い感じで、窓が一つもありません。
奥のほうにケージのような物が沢山あって、小動物が居ます。
なんだか生臭い匂いがします。
「なんだ、ここ?」
部屋を間違えたかと思いましたが、階段を下りて入る部屋はここ一つでしたし。
上がるべきだったのかな?
と、思った瞬間、後ろでがちゃりと音がしました。
利香子がドアに飛びつくようにして、開こうとしましたが、がちゃがちゃ音がするだけで、開きません。
「閉じこめられた」
「え、なんでですか?」
「おとうさんも殺すつもりっ」
「も、じゃないよ、竹彦を殺すのさ」
奥の扉から博が、なんだか物騒な事を言いながら出てきました。
「あ、博、来たよ」
「おいおい、まったく、しょうがないな竹彦、やばいとか思わないのか?」
「え? いや、なんだここ?」
いや、なんだかよくわかりません。
博はなんだか、あきれた様子で頭をかいています。
手になんだか斧のような物を持っています。
「なんのドッキリ……」
博の足下に、マネキンの手のような物が落ちています。
博が蹴りました。柔らかいです。
「学生時代から気にならなかったかい? 僕の恋人が次々に死んでるの?」
「……う、運が悪いよな何時も」
利香子が僕を庇うように前に立ちます。
「戦争で人を撃てる10%の人の話をしたろう、僕はその10%の中に入ってる。利香ちゃんもね」
「ちょ、博、悪質な冗談はやめようぜ」
「死体を見せたら一発だったけど、昨晩捨てちゃったんでね」
博はにやにや笑いながら近づいてきます。
「おい、やめろよ、お前はそんな奴じゃないよ」
「相変わらず、お人好しだな。まー、竹彦が死ぬと学生時代の友達はみんな居なくなるが、しかたがないよ」
なんだかお腹が痛くなってきました。
博がこの街の殺人鬼? そんな馬鹿な。
殺人鬼は凄く遠い所にいる存在で、身近に居るわけがありません。
「さあ、利香子、僕が本当のパパだ、帰っておいで」
「いや、その、あの、何言ってるんだ? 利香子は僕と雛子さんの」
「おかあさんも殺したね」
利香子が鋭く言い放ちました。
「だって、竹彦にばらすって言うんだよ、雛子さん」
「う、嘘だ。雛子さんは交通事故で」
「事故に見せかけるのは大変だったよ。彼女はわりと僕の交友範囲に近いからね」
雛子さんが、博と? 利香子が博の子?
「利香子は僕の子だっ!」
僕の前に立つ利香子の肩がぶるっと震えました。
「竹彦の家系に殺人鬼がでる訳がないだろ。僕の仕込んだ猫を殺したって聞いて、もう、竹彦にあずけてはおけないなって思ったんだ」
「また、かわいそうな猫さんを沢山作ってる」
利香子が後ろのケージを指さしました。
「それはなんだ?」
なんだか怖くて、混乱して、脂汗が額を流れるのを感じます。
「ああ、猫だよ。野良猫。色々臓器を取って、どれくらいで死ぬのか実験してたんだ」
「お、おまえ、そう言うのは駄目だろう」
博が面白そうに笑いました。
「僕は選ばれた10%だ。何をしてもばれなければいいのさ」
ああ、利香子が猫を殺したのは……。
博が虐待した猫を安楽死させるために……。
いや、でも、そういうのは市に頼んだりすれば……。
いやいや、何を考えてるのですか、僕は。
「僕の父親もこういう人間だったんだ。祖父もそうだったらしい。そして、僕の娘もそうらしいね。さあおいで利香子、色々と楽しい事をこれからしよう」
利香子は首を横にふりました。
「だめかい? 竹彦がいいのかい?」
「私のおとうさんはあなたじゃないっ!」
博は悲しそうに笑いました。
「ちょっと教育が必要みたいだね。じゃあ、竹彦を始末してから、ゆっくり」
「や、やめろよっ」
博が斧を振り上げたので、利香子を突き飛ばそうと手を伸ばした瞬間でした。
銀の光が閃きました。
利香子が空中に飛び上がるようにして、果物ナイフを振り上げ、くるりと空中回転して、博の横に飛び退きました。
博の喉から血が噴き出して、床を叩きました。
「え?」
驚愕の表情を浮かべて、博が喉を押さえてがっくりと膝をつきます。
「お、おい博っ!!」
僕は博に駆け寄りました。
「お、おい大丈夫かっ!! きゅ、救急車っ!」
ああ、我が子が親友の喉をかききるなんてっ!
「ば、馬鹿、おまえ、俺はお前をさ……」
「馬鹿っ! そんなの関係ないだろっ! しっかりしろ博っ!!」
博は苦笑しながらだばだば血を流しています。
「だから、ずっとさ、殺したかったのに、なかなかな……。ほんとになあ……」
「死ぬなっ、博、死ぬなよっ!!」
「これは駄目な傷だ。利香子を頼むよ……」
そう言うと、博はがっくりと床に崩れ、動かなくなりました。
なんだか、僕にはよくわかりません。
いや、事態は理解できますが、感情が納得できないというか。
博の学校時代の友達は確かに鬼籍に入った人間が多いですが、それを彼が殺していただなんて。
雛子さんが博と関係があって、利香子が僕の子じゃないとか。
ああ、博が死んでしまいました。
僕の親友が死にました。僕の娘が殺しました。
涙がぼろぼろとこぼれます。
「利香子っ!!」
僕は大声を出しました。
利香子はゆっくりと振り返ります。
無表情に僕を見ています。
「どうしてっ!!」
「ころさないと殺されてた」
「だけどっ!!」
ああ、たしかに、どうしたら良かったんでしょうか。
親友が殺人鬼で僕を殺そうとしていたら、なにが正しかったのでしょうか。
博は心を病んでいました。
どうしたら救えたのか僕には思いつきません。
でも、殺すのはやりすぎのような気がします。
利香子が僕に近づいてきました。
目がガラス玉のように無表情です。
「これから、わたし、好きなようにする。死にたくなければ、おとうさんもわたしの言うとおりにして」
これまでの僕の人生で人に手を上げた事はありませんでした。
気が付くと利香子の頬を叩いていました。
大きな音がしました。
利香子はきょとんとした顔をして僕をみつめます。
「駄目だっ! そんな事を人に言っては駄目だっ!!」
「お、おとうさんは……。死ぬの怖くないの?」
「死ぬのは怖いよ。でもね、利香子がそんな要求を人にする子になる方が僕は死ぬより怖いよっ!」
利香子は赤くなった頬に手をあて、うつむきました。
「そ、そうなんだ。だめなの?」
「暴力で人を従わせようとする人間は最低です」
僕は怒っていました。怒りつけていない人間は怒ると体が熱くなって、いろいろ心の落とし所が難しくて大変です。
「ごめんなさい……」
思ったより素直に利香子は頭を下げました。
僕は博の手をとって泣きました。
彼の手がどんどん冷たくなっていって、それが悔しくて悲しくて。
人が死ぬのは怖くて悲しくて嫌いなのです。
「どうして、人を殺してはいけないの?」
利香子が問います。
「……。自発的に人を殺すと、人は別の存在になるんだ。鬼になって、人の世に住めなくなるんだ。だから、人は人を殺さないんだよ」
「じゃあ、わたしは、もう、鬼なの?」
僕は博の死体を見ました。
「博おじさんは……。鬼だったんだ。利香子が殺したのは鬼だから、利香子は人のうちだよ」
利香子はぎらぎらした目で博の死体の方を見ました
頬が紅潮していました。
利香子はうっすらと笑うと
「鬼は殺していいのね」
と言いました。
6
利香子は返り血を浴びていませんでした。
僕の方がズボンに博の血が染みていて、まずい感じでした。
警察に通報しようとも考えました、が、なんと説明すれば良いのでしょう
か。
僕は利香子の手を引いて、逃げるように車に乗り込み、クリニックを後にしました。
雨が、僕たちの車を追うように走ってきて、屋根を叩きました。
車中で、僕と利香子は無言でした。
「おとうさんは……。おとうさんじゃないかもしれない……」
「利香子は僕の子です」
「でも……」
「一緒に住んで、一緒に大好きで、一緒に暮らしていくのが家族だよ。だから利香子は僕の娘で、ずっと愛しています」
利香子は唇を噛みしめました。
ぽろりと涙が頬を伝います。
「私は、殺すのが好きで、だから、そのうち、ぜったいに……」
「それは才能です。才能は良い面もありますし、悪い面も持ち合わせます。世の中に合わせればいいんだと思うんだ」
「でも」
「自衛隊に行っても良いし、狩りを趣味にしても良いと思います。殺すのが好き、殺すのに抵抗がない利香子も利香子ですから、折り合いをつけましょう」
「おとうさん……」
利香子は泣きながら微笑みました。
「そういうおとうさんが大好き……」
「ありがとう」
そうですよ。
人を殺したり、動物を殺したりする才能は、今の世の中では無駄な才能で、
下手をすると害しかありませんが、うまく折り合いをつければ何かの役にたつかもしれません。
役に立たなくても、どこかで折り合いをつける事が出来るはずです。
暴走しないように、自分の中の獣を飼い慣らせば良いのです。
帰ったら、近くの体育館での剣道の教室を探してみましょう。
スポーツや武道の才能に転化できるかもしれません。
ああ、博の事をもっと早く知っていたら、なにか出来たかもしれないのに。
僕の人生は、知らなかった事ばかりで後悔ばかりです。
7
翌日から、報道は博が殺された事件で持ちきりでした。
彼が殺人鬼であった証拠がクリニックの地下から続々と発見されて大騒ぎになりました。
誰が殺したのか、世間の人は皆、即席探偵になって推理を語り合っていました。
利香子は相変わらず、無表情に学校に通っています。
剣道の教室に連れて行ったら、ちょっと苦笑いをしてましたが、毎週熱心に通っています。
師範の先生も、利香子は剣道の才能があると褒めてくれました。
武道の方で利香子の獣性が発散してくれると良いのですが。
そんなある日、鳩子さんが懐剣を持ってやってきました。
「な、なんですか、この短刀?」
「じいちゃんがそろそろ利香子ちゃんにも持って行ってって。伝来の古刀を打
ち直したらしいよ」
利香子は懐剣を抜いて魅入られたように見つめています。
「うちの家系は軍人系でさ、子供に守り刀を送る習慣があるのよ」
「そうなんですか? しりませんでした」
「私も、雛子ねえさんも貰ったよ。ねえさんはどこにしまったのかな?」
「タンスの奥にあるよ」
利香子が指さしました。
「軍人系だったんですか、吉山のお家は」
「ん、山口の、というか長州のお侍の家系だからねー」
ああ、そうなのかもしれません。
利香子は博から血を受け継いだのではなく、雛子さんの実家の遺伝での、殺しの才能なのかもしれませんね。
いや、そうに違いありません。
利香子は僕の子なんですから。
僕は利香子から守り刀を取り上げました。
「え、利香子のだよ」
「守り刀はしまっておきましょう。雛子さんの刀の隣に」
「そうそう、守り刀は何かの時に守る為に使うものなのよ。鞘に入れてしまっ
ておくの」
「ずっと持っていたい」
利香子はなんだか不満そうです。
「使うものじゃないんですよ。心の支えにするものです」
鳩子さんは利香子の頭をくしゃくしゃと撫でました。
「なにかあったら、利香ちゃんが、これでお父さんを守るんだよ」
利香子は目を細め、にっこりと笑ってうなずきました。
(了)