千紫万紅
この世はなんと脆いものなのか。
燃える燃える、赤い炎。まるで全てを包んで、妾をこの籠の中から逃すまいとしているようだ。
咽せ返る熱気に、みしりみしりと軋みながらやがて大きな音を立て崩壊してゆく柱。
そばにある着物も櫛もなにもかもが赤に染まってゆく。
……あの着物、気に入っておったのに。
だが炎はそれら全てを包み、焦がし、やがてそれも燃えかすとなって無様に残るだけ。
そして妾も時期そうなる。
生きながらこの身に炎を纏うのはどれほどのものなのだろうか。どれほど苦しく、辛いものなのだろうか。
戦の駒となり、顔も知らぬ男の元へ嫁ぎ、初めてを夫に捧げ、時には心を砕き、それでもこうして生きてきた。
たとえ側室だとしても夫を支える為、故郷の為、妾はこうしてここにいる。いつかこんな日が来るやもしれぬ……そう思い、覚悟はとうに出来ていた。
たとえ今日を生きながらえたとて、また同じ事が繰り返される。それが戦乱の世というもの。
ならばこのまま、この城と共にするのも悪くはない。
こんな日の為に、妾の寝具のそばには常に短刀が隠し置かれていた。
選択肢は二択。どちらを選ぼうとも死ぬは同じこと。ならば最後くらい、生を感じながら炎に飲まれてゆくも一興、か。
「鈴」
「はい、姫様」
音も無く開いた襖の向こうからやって来るのは、質素な着物を着た女中。故郷から妾に仕え、こんな時も片時もそばを離れようとはしない。
「殿はどうなったのだ?」
「さぁ……私めには分かりませぬ。なにせ私は姫様のお側にずっといたのですから」
……それもそうか。しかしこの炎を見る限り、戦況は思わしくない事だけは確かだ。
だとすれば、きっと殿はもう……。
「鈴、お前はお逃げ。こんなところでこんな城と共に命を落とす事はない」
こんな状況だ。鈴一人逃げたところで、咎める者もおるまいて。
鈴の実家は人里離れた山の奥。そこに逃げ込めば、たかが側室の側近ごとき、誰も気にも留めないだろう。
……されど鈴は表情硬くしたまま、妾のそばから離れようとはしない。
「いいえ、姫様。姫様が逃げないとあらば私も逃げる訳にはいきませぬ」
律儀に忠義を尽くしてくれる、妾が信頼出来る女中であり、友に近い存在。だからこそ、鈴には生きて欲しいと思う。
そんな妾の気持ちを、お前でも分かってはくれぬのか。
「これは命令だ。鈴、お前は今すぐここからお逃げ」
「いいえ、姫様。私は姫様の母親君から仰せつかっております。姫様のそばを決して離れるなと。ですからそのご命令は聞く訳にはゆきませぬ。姫様がこの城と共に自害なさるおつもりあらば、この鈴、共にお供する所存にございます」
鈴の瞳は美しく澄んでいる。その澄み切った瞳の中にゆらゆらと揺れる炎が投影されて燃えている。
「……そうか、わかった。では好きにするがいい」
彼女もわらわと同じ、時代に飲まれたひとりであったか。
ただ定められた運命に従い、時代に流されるひとり。
——ならば、共に参ろうか。
そう思った矢先、突然襖の向こうからドタドタとガサツな足音と、ガチャガチャと鎧が擦れ合う音が燃え盛る廊下から聞こえる。
それと同時に「ここかぁ!」と、野太い声がこだましたかと思った瞬間、襖は鋭い刃物で切り裂かれ、崩れだす。
崩れた襖の奥から現れたのは、大男。甲冑に身を包み、あご髭を無精に伸ばした咽せ返る熱気の中、さらに室内温度を上昇させるような熊のような男だった。
その大男が両手で握る刀はすでに、何人もの人を切ったのであろう。刀はすでに赤黒く血塗られている。
その刀が、まるで疾風のごとく振り上げられ、妾の元に振り落とされた。
「お命頂戴致す!」
「姫様!!」
どうやらあまりに一瞬の事で、脳は遅れをとったようだ。
気がついた瞬間、鈴がわらわを押しのけ男の前に立ち、妾の代わりに切られていた。
「……す、鈴……?」
普段は可愛げもなくすました顔をしている鈴が、今は痛みに歪んでいた。
妾は鈴を抱き起こそうとするが、鈴の体はぐったりと重い。妾の手は、ぬるりとした生温かな血がべったりとついている。
「姫様、お怪我はござりませぬか……?」
「たわけ! 妾の心配よりもそなた自身を心配をせえ!」
震える手が、妾の顔に触れ、鈴は最後の力を振り絞るようにしてこう言った。
「姫様……お逃げください、ませ……」
そのまま顔を顰めたかと思えば、鈴は血の塊を吐き出した。と同時に、妾の頬に触れていた鈴の手はぐったりと地面に落ちていく。
「鈴!」
だから逃げろと言ったのだ。
妾は死ぬ運命にあった。けれど鈴、お前はあの時逃げていれば死ぬことはなかったというのに……。
「はっ、女中如きが邪魔をしよってからに」
男は剣を一振りし、それに付いた暖かな血を払い落とした。
「貴様……武器も持たぬ女を斬りつけるなど、武士の風上にも置けぬ下郎だの!」
「ふん、なんとでも言え。わしはこの城の者全員を殺せと命じられておる。女子供、姫だろうと容赦なくっなぁ!」
男は再び剣を振り上げ、熱り立った形相でそれを振り下ろした。
……ああ、なんとあっけない。なんと無様な最後なのだろう。
妾には死に方すら選べぬというのか。
乱世に生まれ、時代と共に生き時代に切り捨てられる。なんとつまらぬ人生。
次に生まれ変わる時は間違っても女になど生まれるものか。
いいや、もう人になど生まれとうない。もし生まれ変わるとしたらその時は——。
「ぐはぁっ!」
想いを馳せていたその時、突然男は剣を落とし、血走った目を見開いて妾を見下ろした。
その形相があまりに醜悪で思わず身を縮める。
一体なにが起こったというのか。男の巨大な体は崩落し、ドスンと大きな音を立てて動かなくなった。
壁のように大きな男が倒れた瞬間、隠れるように背後に立っていたのは、別の武士だ。
「姫!」
叫ぶ男の声も炎が飲み込もうとしている。
轟々と轟く音に飲まれながらも、男は懸命に叫んだ。
「お前は……誰じゃ?」
味方? 身につける甲冑が倒れた男のものとは違っている。……ならば味方か。
男はただただ、膝をついて妾に向かって頭を下げている。
「姫、助けに参りました。私と共に逃げましょう」
「……逃げる? どこに? 妾には逃げ場などどこにもない」
見よ、この城のあり様を。城は今にも崩落しようとしている。
殿もきっともう、この世にはおるまい。きっと妾のそばで眠る、この鈴のように。
妾の着物も、城も、友人も、殿さえも燃えてなくなろうとしているのだ。妾だけが逃げたところでなんになる?
「妾はこの城と共にここで朽ちると決めたのだ。だからーー」
ーーダンッ!
男は勢い良く床を叩き付けた。あまりの迫力に息をするのも忘れ、妾は阿呆のように男を見つめるだけ。
そばに感じる息づかい。燃え盛る炎のせいで酸素が薄くなっているのか、はたまた巻き上がる煙のせいなのか。
ただ、妾の瞳は目の前の男にだけ注がれる。
「千紫万紅……姫は変わりませぬな」
囁いた言葉は、わらわの耳に優しく届く。
驚いて息を飲んだ瞬間、煙が喉を苦しめ、咽せる。
「……げほっ、げほげほっ!」
「姫!」
男は剣を置き、妾の腕を優しく掴む。
その声、その瞳、その腕、その言葉……そのどれにも覚えがある。それは遠い昔に置いてきたもの。全ての感情を切り捨て、運命を受け入れたと同時に、失ったもの……。
「お前……どうして……」
男は昔、同じ場所で同じ時を過ごした、父上の家臣だった。
「姫、逃げましょう。私は命に代えてもあなた様をここからお助け致します」
ああ、なぜ今なのか。なぜ今その言葉を申すのか。
その言葉は、もうずっと昔に聞きたかったもの。それをなぜ今頃……。
いいや、あの時聞いたところで何も状況は変わらぬ。されど変わらぬとて、それでもあの時ここに輿入れすると決まったあの時、妾はお前の口からその言葉を聞きたかったのだ。
「逃げても変わらぬ。生きながらえたとて、また別のところに嫁がされる。それを拒めば出家の道をゆくだけではないか。なのにお前はそれでも妾に生きよと申すのか? 妾は武士ではない。だから妾には死に方さえ選ぶ権利は無いと申すのか?」
「……いいえ、決してそのような事は」
「何も選べぬ人生であった。されど、最後くらいは妾自身で選んでも良いではあるまいか」
「ですが、姫……私はあなた様が死ぬという選択だけは、決してさせませぬ!」
妾の腕を掴む手に力が加わる。痛い、けれど意識はそことは別の場所に向いていた。体のどこかで何かが音を立てていた。
それがいったい何なのか、妾は知っている。
「姫、共に逃げましょう。ここではなく、故郷でもなく、誰も我らを知らぬ土地ででひっそり生きましょう」
——熱い。炎はもう辺りを取り囲み、天井が落ちてきそうだ。空気も苦しい。
それなのに、今まで生きてきた中で今が一番幸せだと感じているのはなぜか。
「……では、お前がずっと、一緒にいてくれるというのか?」
定められた運命から抜け出してもいいのか?
その運命から抜け出せるのか?
妾に選択肢などあるのか。
頬に流れる涙を感じるのはいつぶりだろうか。殿と初夜を共にした日か。はたまた……。
「ずっと一緒にいましょう、姫。あなた様がそう望むのならば、わたくしはあなた様のお側を決して離れますまい。決して、もう二度と……」
そう言ってその手は妾の体を抱きしめた。抱きしめられながら、生まれて初めて、この世もさほど悪いものではないと知った。
『——姫はどんなお召し物を着ていても、千紫万紅の如く美しくおいでだ』
遠い昔に言われた言葉。その時、頬が高揚し、胸の奥で暖かなものを感じた。
けれどそれも、ここへ嫁ぐ時に捨て去ったもの。
……そう、捨て去ったと思った想いは、ただ忘却の彼方へ置き去りにしていただけ。決して消える事は無く、されど再びそれを思い出す事も無く。
たった今、そなたとこうして会うまでは。
「姫、我らが死ぬ場所はこんなところではございませぬ。死ぬ時も今ではございませぬ。我らが死ぬ時は静かな場所で、共に手を取り合って死を迎えるのです」
「……ああ、そうじゃな」
思ったよりも煙の回りが早い。呼吸が苦しく、立つのも億劫だ。そんな妾が立ち上がるのを少しでも楽になるよう、男は妾の背後に回り、抱くように妾の身体に寄り添った。
火の粉が飛び火した羽織ものを脱ぎ、焼けていない羽織ものを脱いで、それを鈴の身体に掛けてやる。
だがしかし、鈴はもう微動だにしない。
「鈴、すまない」
お前をひとりにして。妾はもう少しだけ、この世を見てからそちらに逝く事にするが、きっと鈴なら分かってくれるだろう?
あんなに苦しそうだった鈴の顔がほんの少し微笑んだように見えた。しかしそれは、なんと勝手な話であろうか。
鈴、次にそちと会う時は小言のひとつでも覚悟しておこうぞ。
——その後城は崩落し、翌日には火は消え去った。焼け野原となった城には、腹を切った殿の骸と家臣達。城にいた姫や女中も全て斬り殺されていた。
その中に側室である姫の遺体も見つかるが、この城と同日に戦さにて崩落した城の家臣の骸も、その姫の側で見つかった。
だがしかし、姫の側に仕えていた女中一人の姿は無かったという。
そんな不審な話が一時噂になったが、それも時代と共に消え去った。
*
「鈴、姫の最後はどのようなものだったのだ?」
蝋燭の火がゆらりゆらりと揺れている。それはまるで落城したあの城で見た炎を連想させる。
「はっ。一度は城と共に朽ちることをお考えではございました。しかしながら城から出る事をお決めあそばせた為、母親君様のお申し付け通り、私めがこの手で打ちました」
母親君の横顔は、姫の顔に瓜二つ。母親君がどういう気持ちでいるのかを推し量るように、鈴は目だけで母親君の表情を盗み見る。母親君に気づかれないように。
「左様か……鈴、よくやった。我が子とはいえ、殿の血筋である姫に生きておられては天下を取られた兄様のご機嫌を損ねかねぬのでな」
「はっ」
「鈴、お前には褒美を遣わす。今回のことで深手も負っておろう。忍びの里へ戻り、少し休息でもとってはどうだ」
「ありがたきお言葉」
鈴は顔を上げず、母親君がいる部屋から足音も立てずそっと忍び出た。
部屋を出るとそこには暗闇に浮かぶ、満月。
「姫様……姫様は死ぬまで姫にござります。死に方など選べませぬ」
鈴は満月を見上げながら、こうつぶやいた。
「されど、心配されますな。これで姫様は自由にございます」
つぶやいた言葉は、鈴虫の鳴く声にかき消されるように、消えた。それと同時に、鈴は闇に紛れるようにして、姿を消した——。